AM08:36

「失礼します」とノックをしてから、ドアを開けた。朝の物理準備術は夜の寒さを閉じ込めたままにしているようで、思わず身震いをしてしまった。

 中村先生は、パソコンの前に座っていた。大きく出っ張ったパソコンのモニターは画面が光っていて、「ロータス1-2-3」という表計算ソフトが起動されていた。セルのなかにはいくつかの英単語のほかには、細かい数字がびっしりと並んでいた。数字はすべて1未満の小数点のものばかりだったので、生徒の成績ではなさそうだ。先生もマリが入ってきても、その画面を閉じようとはしなかった。

「いらっしゃい。わざわざ呼び出して、すまなかったわね。ちょっと座ってちょうだい」

「はい」とマリは答え、モニターの前に置いてあった生徒用の椅子に座った。

 進路のことで話があるということだったが、いったい何なのだろう。

 中村先生は眼鏡のレンズの向こう側で、視線を上下に動かしながらマリの姿を見て、

「ちゃんとした服装に、してきたみたいね。感心感心。あんまりスカート長くしたり短くしたり繰り返して、お母さまにご負担かけるんじゃないわよ」と微笑みながら言った。

「ええ……。でも、自分でスソ直したんです。ちょっと失敗しちゃったけど」

「あら。意外と器用なのね。あなたみたいなタイプは家庭的なことが苦手ってイメージがあるけど、それって偏見だわね」

 カズコちゃんに教えてもらったんです、と言いそうになったが、言葉を飲んだ。

「ついに、学年トップ陥落ね。司馬もなかなかやるもんねえ。ちょっとやそっとの努力じゃ、あの点は取れないわよね。でも、うちのクラスから1位と2位が出るなんて、私も鼻が高いわよ」

「あの、先生。進路のことでお話って……」とマリは催促した。

「ええ……。そうね、ごめんなさい」そう言って、中村先生は少しうつむいた。

 先生が何か、言いにくいことを言いそうとしている予感はあった。いつもあんなに強気で、あんなにたくましい中村先生が、眉を八の字に曲げて下を向いている。

 パソコンのモニターがラインアートのスクリーンセイバーに切り替わった。青と赤、ふたつの四角形が不規則に動いて画面の端にぶつかっては跳ね返る。

「あのね、あなたの推薦入試の件、ダメになりそうなのよ」

「え!」

「前の面談のとき、期待持たせるようなこと言ったのに、今さらこんなこと言ってごめんなさい」中村先生は、消え入るようなか細い声で言った。「でも、まだ確定したわけじゃないのよ」とまるでオマケのように付け足した。

「そんな、納得できません。理由を教えてください」マリの声が大きくなった。

「あのね、えっと……。言いにくいんだけど、あなたたちのウワサ、職員室にまで広まっててね」

 マリはそれを聞いて、気を失いそうになった。唇まで真っ青になって、頭がクラクラする。

「誰が推薦入試は、形式的には校長が決めるってことになってるけど、実質的に最終判断をするのは教頭先生なのよ。で、その……、教頭先生が、そういう生徒は学校として推薦するには、えっと……、ふさわしくないって。私は何とか押し返そうと思って抗議したんだけど……」

 昨日の職員室で、「教師が単なるウワサに踊らされて判断を覆すようじゃいけない。それに、仮にもしウワサが本当だったとして、それの一体何が悪い」とすごい剣幕で中村先生が教頭に詰め寄ったところ、ある男性教員が「なぜそんな生徒をかばうんです。ひょっとして、中村先生もそっちの趣味がお有りなんですかね。いい歳して独身だし。それとも更年期障害ですか」などと茶々を入れて、笑いものにされた。机をひっくり返して暴れたくなる衝動を抑えるのに必死だった。

「あのね、いちおう私のほうから、もう一度掛け合ってみるけど……」

 マリは、中村先生の物の言い方から、すでに絶望的になってるのを悟った。ふらつく足をなんとか踏ん張った。

「いえ、いいんです。私きっと、もともとそんな資格ありませんから」口から出る言葉に抑揚はなかった。

「本当に、ごめんなさい」と中村先生は頭を下げた。

「だいじょうぶです。私のせいで、先生にもご迷惑おかけしました。話がそれだけでしたら、失礼します」

 物理準備室から出ようとすると、中村先生が、

「ねえ、逢沢。あなた、本当にだいじょうぶ?」と言った。

「私、平気です。どうせこの学校も、あと半年もしないうちに卒業ですから」

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