AM11:38

 マリは海水浴場の出入り口になっているところで自転車を止めた。キッと後輪のブレーキが音を立てる。

「ちょっとだけ、海見ていかない?」

「うん。行こう」と言ってカズコは自転車の後ろから降りた。

 秋が深まったころの昼の海は、夏の海よりもはるかにまぶしい。この季節に山は赤く色づくが、海は対照的に青さを増す。まるで海が青いからこそ、空も青く輝いているかと錯覚する。白い浜にはふたりのほかには誰もおらず、砂の起伏は清潔な包帯のようだった。

「あ~、気持ちいい。明日でテストも終わり。もう少しがんばるぞ~」とマリは大きな声を出した。

 遠くに、オレンジ色の貨物船が小さく見えた。向かって右側から左側へ、ゆっくりと航行している。客船ではない商船が、船体を赤やオレンジ色に塗装することが多いのは錆びを目立たなくさせるため、と父から聞いたことをマリは思い出した。空にカモメやウミネコなど海岸に定番の鳥類はいなかったが、小ぶりのトンビが一羽、頭上でくるくると輪を描いていた。

「カズコちゃん。今年、ここに泳ぎに来れなかったから、来年はきっと来ようね」

 今年の夏は、マリが部活の練習でびっちり詰まっていたため、来れなかった。

「うん」

「よっし。カズコちゃんの水着姿、楽しみだわぁ」まわりに人がいないことをいいことに、マリは遠慮せずにそんなことを言った。

「何、オヤジくさいこと言ってるのよ。マリちゃん、私の身体なら何度も見たことあるでしょ」

「違う、違う。そういう問題じゃなーい。水着だからいいの。時には裸よりえっちなのよ」

 マリは砂の上に腰を下ろして体育座りをした。

「砂、着いちゃうよ」とカズコが言ったが、

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。砂だったらあとで掃えばどうにでもなるって」とマリは気にしない。

 それにつられて、カズコも砂の上に座った。

「そうだ、カズコちゃん。ひとつお願いがあるのよ。別に急ぐわけでもないからいつでもいいんだけどさ、お料理教えてもらってもいい?」

「お料理? お料理は私もあんまり得意ってわけじゃないんだけど……」

「でも、私よりはできるでしょ?」

「ま、まあそうね。どうしたの? 急に」

「ほら、うち今お母さん留守にしてるじゃない。で、何度か料理にチャレンジしてみたのよ。最初は、あんなの鍋に放り込んで適当にあっためてりゃなんとかなると思ってたけど、ぜんぜんダメなのよね」

「どんなもの、作ってるの?」

「いや、適当に見よう見真似でやって、豪快に失敗しちゃった。そして、やっぱり簡単なものから練習していかないといけないと思ったんだけど、ゆでたまごって作るの難しいのね。いつのまにかお湯が蒸発してて、たまご爆発しちゃった」

「……マリちゃん、間違っても天ぷらとか揚げ物に挑戦しちゃダメよ」

「さすがにそこまで命知らずじゃないわよ。本当に自分で実際にやってみて、見るのとやるのとでは大違いってわかったわ」

「そうね。それじゃそのうち、一緒に練習しよっか」

 カズコは腰を少し浮かせて横に動き、マリにぴったりとくっついた。外でこんなにくっつくことは、なるべく控えてるのだが、周りには誰もいないので気にする必要はないだろう。

「ねえ、将来のこと、考えてる?」とカズコが急に神妙な雰囲気で言った。

「将来?」

「うん。私たち、これからどうなるのかなって」

 それはマリも、常に考えていることだった。いや、考えなければならない、人生で最大の課題がすぐ傍らにあることは知っていても、あえて黙過してきた。

「私は、一日でも長くカズコちゃんのそばに居られたらいいなって思ってる」

「うん。ありがとう」カズコはマリに軽い頬ずりをして、キスをした。

 ふたりで横に並んで座ったまま、しばらく時間が過ぎた。何もせずに、ただ黙っていた。遠くを通っていた貨物船は、いつのまにか見えなくなっていた。

「あのね」沈黙を破ったのはカズコのほうだった。「私の従姉、もう三十三歳のお姉さんなんだけど、今度結婚するらしいんだ」

「そう。おめでとう」とマリはまったく心のこもってない声で言った。それは、カズコがカズコの母に同じ台詞を言ったときとまったく同じ調子だった。

「もうお腹のなかに子供もいるんだって。いわゆる、できちゃった結婚っていうやつ。それで、うちのお母さん、何か急に興奮しちゃってさ。私に、彼氏作れ、だの、結婚相手を早く見つけろ、だの、結婚するまで子供は絶対に作るな、だのと言ってくるのよ」

「そっか。カズコちゃんのお母さんがそう言ってるところ、ちょっとだけ想像できるよ。おもしろい人だけど、どこか古風なのよね」

「古風っていうか、頭が固いっていうか。私のことを心配してくれてるのはわかるんだけど、ちょっと無神経なとこあるのよね」

「で、そう言われてカズコちゃんは何て答えたの?」

「子供はたぶん、できないと思うって言っちゃった」

 それを聞いて、マリは腹を抱えて笑い出した。靴や膝を砂まみれにしてゲラゲラと笑い転げた。

「あははははは……。そりゃ、そうよね。私たちのあいだに子供が出来たら、たいへんだわ。神様もびっくりよ。ははは……、あ~、おもしろ~」

「うふふ。そうよね」

 ひとしきりふたりで笑った後、

「赤ちゃん、できればいいのにね」とマリがつぶやいた。

 また沈黙が訪れた。トンビの高い鳴き声が、鋭く耳に突き刺さってくる。強い風が見えない塊になって、顔にぶつかってきた。少し長いまばたきをして、抵抗する。ふたりの髪の毛が背中のうしろに煽られた。

「心配しなくても平気よ。きっと、十年後か二十年後かに、うちの担任みたいなマッドサイエンティストが、バイオテクノロジーとか遺伝子なんちゃらで女どうしでも子供を作る方法、考えてくれるって」

「マッドサイエンティストって……、中村先生がそれ聞いたらきっと怒るよ。でも、そういうマリちゃんの根拠なしの楽観論って、聞いてるといっつも救われた気持ちになるわ」

「能天気っていいたいんでしょ」

「良い意味で、能天気かな。でも、私たちふたりの子供がもし本当に出来たら、確実に女の子よね」

「え? そんなの産んでみるまでわからないじゃん。男の子もかわいいかもよ」

「そうじゃなくて。ほら」カズコは砂の上に文字を書き始めた。「今日の生物のテストに出てたじゃない。ヒトの女の遺伝子はXXだから、私もマリちゃんもXXでしょ。だからどうやっても女の子しかできないのよ」

「あー、そういやそんな問題あったわね。もう忘れちゃってたわ。大丈夫よ、未来のテクノロジーは、そんなのもちょいちょいっと解決できるんだから」

「そ、そうかなぁ……。そんなに進んでるかなぁ」

 マリは立ち上がり、おしりに付いた砂を軽く両手で掃いのけて、

「私、今はまだ赤ちゃん産んであげられないけど、缶コーヒーくらいなら、おごってあげる。アイスとホット、どっちがいい?」と言った。

「ありがとう。じゃ、私マリちゃんと同じやつがいい」

「オッケー。じゃホットの極甘ロング缶のやつね」

 マリが自動販売機で缶コーヒーを買ってきて、ふたりで海を眺めながら飲んだ。

「初めて会話しときのこと、覚えてる?」とカズコが唐突に言った。

「えっと……。確か、カズコちゃんが転校してきた何日か後だったと思うけど、教科書見せて、とかそういうのじゃなかったっけ?」

「その前」

 マリはかなり長いあいだ思い出そうとしていたが、

「うーん……。ごめん。思い出せない。ギブアップ」と言った。

「えっとね、学校からの帰り道が同じ方向だから一緒に帰りなさいって先生に言われて、私が島田カズコです。お願いしますってマリちゃんに言ったら」

「うんうん」

「カズコなんて、変な名前」

 マリは飲みかけのコーヒーを喉に詰まらせてむせ返ってしまった。

「ごほっ、ごほっ……。う、ウソ。私、マジでそんなこと言ったの?」

「うん」とカズコは笑いながら言った。

「ごめん、ごめん。私、ずいぶんイヤな小学生だったんだなぁ……」

 むせるのが落ち着いたマリの肩に、カズコは自分の頭をもたれ掛けた。海のにおいを満載した潮風が吹いてくるたび、マリの短い髪がカズコの耳を軽くなぞっていく。

 マリは数日前に授業中の内職で書いた、「告白はいつかちゃんとしようと思う」という紙のことを思い出した。今さら、お付き合いしてくださいなどというのは照れくさい。

「ひとつ聞いていい?」とマリが言った。

「うん。いいよ」

「いつから、その……私のこと、好きだったの?」

 カズコは閉じていたまぶたを開いてマリの顔を見てみた。白い頬が、赤く染まっている。

「それはね……、知りたい? マリちゃんが私のことを好きになってくれたとき、だよ」

「何よその答え、ずる……」

 続きを言おうとしたマリの口を、カズコが唇でふさいだ。まるで二本目の缶コーヒーを飲んでるいるかのように、甘い香りが口の中に広がった。

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