1994/10/25 AM11:10

 テスト二日目。生物と地理。

 生物は理系のなかでも暗記問題の比率が多いので、マリの得意とするところだった。出来の悪いヒトデみたいな形をした樹状突起という、神経細胞についての問題を解いていると、不思議な気分に捕らわれた。記憶のシステムを記憶しようとしている自分。記憶のシステムを記憶したものを、思い出そうとする自分。そんなことを考えていると、ちょっとだけ興味が湧き起ってきて、ちゃんと授業を聞いておけばよかったと今さらながら思った。

 一方で、地理は外国のカタカナの地名をおぼえるのがなぜか不得手で、社会科科目のなかでは苦手だ。行ったこともないし、おそらく一生行くこともないであろう国の降水量よりも、明日の日本の天気のほうが気になる。

 試験が終わった瞬間、おそらく生物は満点、地理は少し自信はなかったがそれでも8割以上はあることを確信した。

 カバンを持つと、気分よく正門前のバス停に向かった。今日は二科目しかテストがなかったため、昨日より1時間早く帰れる。

 バス停の時刻表を見ると、次のバスがやって来るのは午前十一時四十五分だった。腕時計を見ると、「11:19 55」と表示されている。25分ほど待たなければならない。

「まあ、仕方ないか。なんかいい暇つぶしないかしらね」そんあ独り言を言いながら、とりあえずテストの答え合わせでもしてみようかとカバンを開けると、背後から

「マリちゃん」と声を掛けられた。

 マリにはもちろん、その声の主がカズコだとすぐにわかった。振り向くと、カズコは自転車のハンドルを持って立っていた。今日はさすがにカバンから編み棒をはみ出させてはいない。

「カズコちゃん。どうしたの?」

 一度目のテストのときには、この日は普通にバスに乗って帰ったのだが、なぜかこっちの世界ではカズコに出会った。もちろんそれは、マリにとってうれしいことなのだが。

「一緒に帰らない? バス待ってたら、時間かかるでしょ?」とカズコは言った。

 カズコは最近、夜遅くまで勉強しているせいか、目の下にうっすらとクマを作っていた。他の人にはどうかわからないが、マリにはひと目で「疲れてるな」とわかり、少しだけ心配になった。

「一緒にって、自転車で?」

「うん。迷惑じゃなかったら」

「めずらしいじゃない。カズコちゃんのほうから誘ってくれるなんて。二人乗りしてるとこ、誰かに見られたらどうするのよ~」とマリはふだんのカズコの口調を真似た。

「たまには私、前に乗るよ」

「いや、いいって。疲れてるでしょ? いつものように私が前乗るから、後ろで楽しててね。……それじゃ、商店街のほうに回って、海沿いの道でいい?」

「うん。ありがとう」

 ふたりは一度裏門のほうに歩を進めた。その途中ですれちがった下級生らしきひとりの男子が、

「逢沢先輩、この前はどうも失礼しました。さようなら」と手を振りながら声を掛けてきた。

「おーう。気をつけて帰りなよ!」と調子良く言ってはみたものの、心当たりはない。

「今の、誰?」とカズコにたずねる。

「ほら、少し前、サッカーしてた男の子よ」

「ああ、お昼休みのね。さすがカズコちゃん、よく覚えてるわ」

 裏門から伸びている細い道は、いつもと通る時間帯が違うので、風景が少し違って見える。ちょうど南側に二階建ての建物が並んでいるため、日陰が多くなっていて、むしろ夕方のほうが明るいのではないかとも思えた。

「テストのほうは、どう?」とカズコが言った。

「バッチリ」とマリは右手の親指でマルを作って言った。

「そうだよね。だって、あらかじめ問題知ってるもんねぇ」カズコが口吻に多少非難するような調子を込める。

「シーッ! 大きな声で言わない」

「私は、また二位かなあ。とうとう、マリちゃんに一度も勝てなかった」とわざと残念そうにカズコが言った。

「と言っても、実質的にはカズコちゃんがずっと一番みたいなもんだけどね。自力でずっと二位なんだから。そんなに勉強してるようには見えないんだけど、いつしてるのかしら」

「実は、あんまりしてないのよ。そりゃ、テスト前にはそれなりにちゃんとするけど、ふだんは簡単な予習復習だけで、あとは授業を聞いてれば、けっこうどうにかなるものよ」

「頭いい人はみんなそう言うのよね。うらやましいわ」

「小学生のころは、私よりもマリちゃんのほうが成績良かったじゃない。今でも授業中、寝ずにちゃんと勉強してれば、かなりいいところまで行くと思うけど」

「って、もう誰も彼も私が年がら年中、寝てるみたいに言うなぁ。……まあ、当たらずと言えど遠からずだけどさ。でも、私のほうが成績良かったっけ?」

「そうだよ。いつも、マリちゃんが私に勉強教えてくれたのよ」

「えっと……」マリは必死で思い出そうとしてるが、思い出せない。

「ほら、二年生のとき」

「二年生って、カズコちゃんが転校してきたころじゃ……。あ! あのころのことね。……あれは、前の学校とこっちの学校の授業の進み具合が早かったってだけじゃない」

「うん。でも、私のなかのマリちゃんのイメージは、あのころのまんま。頭が良くって、運動ができて、ちょっといたずらっ子で……」

「残念ながら頭のほうの成長はそのころで止まったまんまみたいだけど、後のふたつは今でも当てはまるかな」マリは胸を張って言った。

 商店街の前の道まで出た。目の前を、やはり荷を積んだトラックが、すごいスピードで走って行った。

 マリは周囲を軽く見回して、近くにマサシがいないことを確認した。前に、マサシの家はこの近くだなどと言っていたが、もちろん具体的な場所をマリは知らない。

「そろそろ、乗ろっか」

「うん。本当に、私うしろでいい?」

「いいって、いいって。いつものことだから。安全運転でいくから、まかせといて」

 商店街の横道を通り抜け、海沿いのコンクリートの道に出ると視界が明るくなった。天頂近くの陽の光が頭の上に落ちてきて温かい。

「ねえ、パンナコッタって知ってる?」カズコが前で自転車を運転するマリに、少し大きな声で言った。

「パンナコッタ? なんか、聞いたことあるけど。なんだっけ」

「最近、流行ってるデザートよ。プリンみたいなやつなんだけど、白くてプルプルしてるの」

「へえ」

「あのね、隣の駅前の喫茶店に、一日数量限定であるんだって。でも、大人気だから午前中に売り切れてしまうみたい」

「ほお。そんなお店あるんだ」

「受験終わって、春休みになったら、一緒に行ってみようよ」

「うん。行こう。……なんだっけ、去年一緒に食べに行ったの、あれはおいしかった。たしか、ティラミスとかいうの。でもちょっと高かったのよね。一人前で800円もした」

「うん。その前のは……」

「ナタで、何とかってやつ」

「ナタデココね。あれ、いまいちだったね」

「そうそう。甘いシロップのなかに、寒天入れただけみたいなやつ。いまだに売ってるお店あるみたいよ。ちょっと信じられないわ。あんなの食べるくらいなら、あんみつの缶詰のほうがマシよね」

「ふふふ。でも、ああいうさっぱりしたのが意外と長く流行るのかもしれないよ」

「いやいや、ないない。来年くらいには、ナタデココって何? ってみんな言ってるはずよ」

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