第四章

1994/10/26 side"A" PM12:04

 中間テスト最終日。テスト当日は、放課後にすぐ帰宅できるようにとの配慮から、ホームルームの後に清掃時間があり、それから1時間目ということになる。

 一週間ほど前に熱烈に愛し合ってから、マリはカズコに会っていない。

 高校一年のころは、「いっしょに勉強する」という建前で互いの家を行き来していたのだが、勉強する時間よりも抱き合っている時間のほうがはるかに長くなっていた。ほかの同級生が、家に帰って勉強しているであろうなかで、自分たちだけがこのように好きなようにやっていると思うと、どこか罪悪感のようなものがあって、いつのまにかテスト期間中は極力会わないのが慣例になっていた。

 もちろん寂しいのだが、カズコの勉強を邪魔するのは本望ではない。

「残り時間、あと5分です。名前と出席番号を書いているか、もう一度確認してください」教壇で50代の男性教師が言った。

 テストの監視官役を務める教師は、担任教師以外の誰かが担うことになっている。廊下で何度か見たことはあるが、マリは今黒板の前に立っている先生がいったい何の科目を担当してるのか、知りもしない。根拠のないカンだが、世界史かな、などと思っている。

 もうだいぶ前に最後まで解答を終えているマリは、「あと5分」と言われるとそれがひどく長い5分のように感じる。いつもの癖で腕時計を見た。「20:00 02」で止まったままになっている。

「あ、そうだった」と心の中でつぶやいた。

 いちおう、言われたとおりに名前と番号を記入しているかどうかを確認する。問題なし。

 あくびが出そうになるのを押し殺す。さすがのマリでも、テスト中に寝るほど太い神経はしていない。暇つぶしに問題用紙をもう一度見てみた。


 次の文章は源氏物語からの抜粋である。


 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例まひて……


 などと書いてある。カズコは古文は得意だが、マリにとってこの文章は冒頭の「十五夜の夕暮れに」以降は何を書いてあるのかさっぱりわからない。これは本当に日本語なのだろうか。

 出題された問題は、その後に続く部分の、


 おほかたの秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声


 という短歌を現代語に訳せ、というものだ。解答用紙にマリは、「秋はだいたいうれしいものと知ってはいるが、鈴虫の声がうるさいので捨てたいけど難しい」と書いた。この解答には自信があった。

 源氏物語についてマリが知っているのは、「六条御息所」が「ろくじょうごそくじょ」と読むのではない、ということが全てだ。正確には何と読むのかは忘れてしまった。

 チャイムが教室のスピーカーから鳴った。と同時に、教室のあちこちから、安堵の若しくは後悔のため息のような声が発せられる。

 解答用紙が回収されると、マリもその場で背伸びをした。とにかくこれで、一回目のテストは終了した。

 テスト最終日は、昼からの授業がない。「今日これからゲーセン行こうぜ」や「マックいっしょに行かない?」など、今日一日くらいは羽を伸ばそうと話しているクラスメートが多い。

 出席番号順の並びの席から、自分の席に戻ってマリは自分のカバンを手に取った。

「ねえ、逢沢さん」と隣の席の新田ユミコが声を掛けてきた。「また、学年トップ?」

「いやあ、ははは……」マリはカバンを持ってないほうの手で後頭部を掻く。「今回はちょっと、無理っぽいかなあ……。ちょっとさ、このところずっと体調悪くってさ」

「そうなの? めずらしいね。でも調子が悪くても、上位なのは確実でしょ」

「たぶん、下から数えたほうが早い、よ……」

「意外。そんなに体調悪いなら、いくらテストだからって言っても無理しないほうがよかったんじゃ」

「まあ、いろいろあってさ。ははは……」と苦笑でごまかすしかなった。

 司馬マサシがこっちを見ていることにマリは気づいていたが、無視をした。

 教室から出て、正門前のバス停に向かう。立ってバスを待ってると、「それじゃ二時に待ち合わせで」や「おい、数学の問2の答え、教えてくれよ」などという、いかにもテスト明けらしい話し声が聞こえてくる。

 午前11時55分のバスがやってきた。ビーという音とともに後部のドアが開く。「西松山学園前、西松山学園前。お降りの際は足もとに十分ご注意ください」という女性のナレーションが聞こえて来るバスにマリは乗った。

 乗客はあまりいない。70代くらいの女性ふたりが後ろのほうに並んで座っているほかは、お葬式にでも出席したのか、真っ黒な喪服をきた中年男性がひとり。

 前のほうの座席に座ると、運転手用の大きなバッグミラーに、帽子をかぶった運転手の顔が映っているのが見えた。夕方の運転手とは別の人だ。

 バスが動き出すと、マリは、カバンのなかにごそごそと手を突っ込んで、複数枚の紙を取り出した。そして、今日のテストで一通りそろった問題用紙を小さく折りたたむと、しっかりと手のひらのなかで握った。

 中村先生の教えてくれたエヴェレットの多世界解釈が本当ならば、こんなことをしてもこっちの世界では何も問題は解決しないのかもしれない。でも、そうするよりほかは仕方ない。

「ごめんね、私」マリは小さくつぶやくと、腕時計の下のボタンを押した。

 全身に電流が流れたようなしびれが走る。そのしびれが収まると、5日間止まっていたままになっていた腕時計の「20:00 02」だった液晶画面が、一気に「12:18 59」変わって、時を進め始めた。

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