PM19:22

 自転車で走ると、自分の左右をすり抜けていく空気が冷たい。マリからもらった体温が寒さで蒸発していくようで、寂しい気持ちになった。

 マリの家から出るときに、玄関でエヴェレットは帰宅するカズコに向かって何度も「オカエリ、オカエリ」と繰り返していた。だんだん、日本語の発音がうまくなっているようだが、新しい言葉を覚えるような気配はない。

 何となく見上げた夜空にこぐま座を見つけたので、いったん自転車を止めて北極星を探す。小学生のときに理科の授業で習った、北極星の見つけ方をカズコは今でも覚えている。まずはカシオペア座と北斗七星を探して、北斗七星の柄杓の形になっている部分を延長していく。そしてカシオペア座の両端の線を延長し、ぶつかる点を逆方向にたどっていく。そのふたつがぶつかるところにある、ちょっと明るい星が北極星だ。

 昔の船舶は、航海中に羅針盤が壊れてしまった場合はこの星を頼りに目的地を目指したと、その授業で聞いた。

 何物にも動じない、唯一の星。この星を守るかのように、ほかの星座は夜から朝まで回る。その姿はまるで時の支配者のようだ。

「あっ」

 北斗七星を切り取るかのように、流れ星が長い線を引きながら走って、消えた。もちろん願いごとなど一度も言う間もなかった。

 遅いとは知りつつも、いちおう手を合わせて何かを願うふりをする。しかし、今の自分はいったい何を願うべきなのだろうか。不安もあるし、悩みごともないとは言えない。

 とりあえず、「大学に合格しますように」と心のなかで三回唱えて、カズコはふたたび自転車で走り始めた。

 家に着いたときに街路灯を頼りにして腕時計の液晶を見てみると、すでに午後7時30分近くになっていた。

「ただいま~」と大きな声で言い、いつものように自室にカバンを置いてから、台所に向かおうとしたら、

「カズコ、ちょっと、早く来なさい」と母のいつもとは違う声が聞こえた。

「なーに?」そう言いながらカズコは台所に入って、ふたりぶんのお弁当箱を母に出す。

「ちょっとね、大事な話があるのよ」

 母のしゃべり方が、いつもとちょっと違う。ひょっとしたら、門限を30分も超えてしまったことを怒られるかもしれないとカズコは少し覚悟を決めた。

「あのね、昨日、親戚のハルカちゃんの結婚の話、したでしょ?」

「うん。それがどうしたの?」

「ちょっと予定が変わっちゃって……」

「え? もしかして、ダメになっちゃたの?」

「いや、そうじゃなくて」母はいつになくためらいがちのしゃべり方をする。「あのね、来年に結婚式って予定だったみたいなんだけど、ちょっと早まりそうなのよ。もしかしたら、来月の真ん中くらいになるかも」

 それを聞いて、カズコはあまり心が動かなかった。やはり遠い親戚のことなので、あまり実感が涌かない。

「ふうん。ずいぶん急ね。まあ、早いほうがいいんじゃない?」

「それがね」母は、誰もいないのに意味有り気に声をひそめた。「ハルカちゃん、妊娠してるんだって」

「えっ?」

「ハルカちゃんのお母さんも、ずっと結婚しない主義だった娘がいきなり結婚するって言い出して、おかしいなって思ってたらしいんだけど、どうやらそういうことらしいわ。目当ての結婚式場が予約いっぱいで、来年三月なんて言ってたらしいんだけど、まさか臨月の妊婦さんがウエディング着るわけにもいかないもんね。どこか近所でキャンセル待ちの会場を探して、適当に挙げるらしいわよ」

「へえ、おめでとう」

「まあ、ハルカちゃんももう三十超えてるんだし、子供作るんだったら一日でも早いほうがいいに決まってるんだけど、ずいぶんと気が早いわ。ご近所さんにはなんて説明するのかしら」

 母は何かが不満らしく、ぶつぶつとグチのようなものを繰り返していた。

「あなたは、気をつけるのよ」と唐突に母が言った。

「え? 何を?」

「だから、彼氏は作ってもいいけど、順番が逆にならないように、気をつけるのよ。いずれは結婚して孫の顔を見せてもらわないといけないけど……。最近の子はませてるっていうか、育つのが早いっていうか、とにかく昔とは違うから」

「それは、大丈夫。たぶん子供ができることは、ないわ」とカズコは小さくつぶやいた。「マリちゃんがね、お母さんにお礼言っといてだって。お弁当、おいしかったって言ってた」

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