PM16:22
放課後、マリが被服室に行くと、ほかには誰もいない空間のなかで、すでにカズコはアイロンを準備して待っていた。出入り口の横開きのドアのすぐ横に、昨日は見かけなかった上半身だけのマネキンが置いてあり、そろそろ赤く色付き始めた夕日がマネキンの影を鈍角に伸ばしていた。
「お待たせ。待った?」
「ううん。今日は、部活のほうはいいの?」
「昨日行ったばっかりだから。あんまり先輩面したのが出入りすると、後輩たちもやりづらいだろうからね。瀬戸さんは?」
「今週、週番だからちょっと遅くなるみたいよ。四時半くらいには来ると思うけど、それまでにやっちゃいましょ」
「うん」
「……それにしてもマリちゃん、瀬戸さんのこと、ずいぶんお気に入りみたいね」
茶化しながら言ってはいるものの、カズコの言葉にはどこか嫉妬らしきものが含まれている。
「いや、いや」マリは手を横に振った。「目がくりくりっとしててかわいいなあとは思うけどさ。なんていうか、私とはぜんぜん違うタイプだから、ないものねだりみたいなものよね」
「そっか。そうよね。あんな感じ、ちょっと憧れちゃうよね」
「にしても、あんなかわいい後輩どうやって部活に勧誘したの?」
「あー」カズコは目線を上げて少し昔を思い出していた。「そういえば、瀬戸さんと仲良くなったの、お裁縫がご縁になったって言えるかなあ。私たちが二年のころの夏だったと思うけど、ブラウスのボタンが取れて、必死で胸元の布地を握ってる娘がいたのよ。私が持ってたソーイングセットでボタン付けてあげて、それが会った最初かな」
「へえ。手に職があれば、いろいろとおもしろいことあるのね」
「ほら、マリちゃん。スカート脱いで。ジャージ持って来たでしょ」
「はーい」
被服室は学校の端っこにあって、放課後に手芸部員以外の誰かがやって来ることは有り得ない。カズコにしか見られないのなら、マリとしては別に体操服のジャージに着替えなくてもよかったのだが、念のために言われるがままに着替えた。
「スソあげはぜんぜん難しくなくて、一度覚えたら簡単だから、よく見ててね。今度から自分でやるのよ」とカズコがスカートをアイロン台の上に広げながら言った。
「本当? 私にもできるかなあ」
「うん。ほら、まずはここの糸あるでしょ。これをほどくのよ」
カズコはスカートのスソをめくって、指先でまつり縫いの糸をつまんでちぎると、さっと引き抜いた。カズコの爪から細く長い糸が伸びていく。
「おおっ! すごい。手品みたいだ」
マリの驚嘆をあまり省みずに、カズコは続ける。
「そしてね、内側に折ってある布をこうやって伸ばすのよ。……本当は、ズボンと違ってスカートみたいなプリーツの付いてる洋服は、余計な部分はハサミで切ってからスソ上げするんんだけど、残しといてよかったわ」
「ねえ、なんでハサミで切ったほうがいいの?」
「あまった部分がスカートの上のほうに残ってごわごわになっちゃうから。マリちゃん、このスカート履いてたら、ちょっと違和感あったでしょ?」
「そういえば、太ももあたりのところが、みょうに固いというか、重いというか……」
「切らずにやると、どうしてもそうなっちゃうのよね」
カズコはアイロンを手にとった。かなり年季の入った、大きいタイプのアイロンだった。
「これ、うちにあるアイロンとはぜんぜん違う。何、この鉄板みたいなの。こんなの初めて見たわ」
「熱いから、さわっちゃだめよ」とカズコがマリをたしなめる。「たぶん二十年くらい前の、業務用のらしいのよ。重くて使いにくいけど、そのぶん強力なのよ」
カズコはスカートのプリーツにあわせて、丁寧に布地を伸ばして行った。マリは興味深そうに、うなずきながら見ている。
「よし。これでとりあえず、一度履いてみて」
「うん」
スソが降りて、だらしなくなっているスカートをカズコから受け取ると、マリはそれをジャージの上から履いた。アイロンの余熱がジャージを伝って、ふくらはぎに伝わってきてへんにくすぐったかった。
「次に、長さを決めるのよ」カズコは針山から待ち針を数本抜いて手に取った。
「ねえ、ギリギリ短くしといて」
「うーん……。校則では、膝下五センチって決まってるのよね」
「ウソ。そんなに長いの?」
「本当は、そうなのよ。でも、あんまりみんなが守らないから、今は膝が隠れてるかどうかってのがひとつの目安になってるみたい」
「膝下五センチって、そんな長いの履いてる人、いないでしょ。いたら逆に目立つって」
「私、それくらいだよ」と言ってカズコは立ち上がって横を向いた。自分のスカートのスソを軽くつまむ。「ほら、だいたい五センチでしょ」
マリは腰をかがめてカズコのスカートに顔を近づけた。
「本当だ……。意外と、目立たないものねえ。ぜんぜん気づかなかったわ」
そこでマリはニヤリと意味ありげに微笑むと、
「そらっ!」と言いながらカズコのスカートのスソを手の平ででめくり上げた。「必殺! スカートめくり~」
カズコの水色の横縞パンツが一瞬露わになったが、すぐに手で押さえる。
「こらっ! ふざけないの。机の上にアイロンとかハサミとかあるんだから、危ないんだよ。私、本気で怒るよ」とカズコが顔を真っ赤にして言った。
「ご、ごめん。ちょっといつものノリでやってみただけで……。本当に、ごめん」マリはさすがにまずいことをやったと感じて素直に謝った。
「はい。許してあげる。続きするわよ。ちゃんと見てて」
ひざがギリギリ隠れるところで布を折って、待ち針で数箇所を止める。その後、針に気をつけながらスカートを脱いで、スソを折りたたんでアイロンを掛ける。
「スソの長さが端と端で違ったら、斜めになっちゃうから、ここは目分量に自信がなかったらちゃんとメジャーで計ってチャコでしるし付けてね」
さっき顔を赤くして怒っていたカズコは、すでにいつもの調子を取り戻している。
「うん」
「そして、ここから縫うの。針に糸をとおして……、糸はスカートと同じ色にするのが基本だけど、そこまで神経質になることはないわよ。紺色だったら黒を使ってれば、だいだい目立たなくなるから。赤とか白はさすがにまずいけどね」
カズコは縫い針の小さい穴に、一発で糸を通した。マリから見れば神業だ。
「そして、まつり縫いっていうのをするのよ。こうして、斜めに糸を通して、下に針を向けて、表の布を針先ですくうようにして裏に戻してくる。これを端まで繰り返すのよ。それで、スソ上げはできあがり」
カズコが手のひらのなかで針を細かく動かすと、スソがきっちり上がった部分がどんどん増えていって、あっという間に出来上がった。時間にして、十分もかかってないくらいだった。
「はい。もう一度履いてみて」
カズコに言われるままにマリはまたジャージの上からスカートを履いた。スカートを履いてから、ジャージを引っ張るように下して脱いでみたら、本当にちょうどひざと同じ高さにスソが来ていた。
「すごいわね……。簡単なように見えるけど、ひとつひとつが熟練の技だわ。どれくらい練習すれば、こんなことができるようになるのかしら」
「こんなのすぐよ、すぐ。できれば、一度洗濯してから、もう一度丁寧にアイロンをかけてね」そう言ってから今度はカズコが意味ありげに微笑んで、「お返しっ!」と言いながら、マリのスカートをカズコがめくった。
同じタイプの、水色の横縞パンツが見えた。
「こらっ! 何すんのよ」とマリが言った。
「ふふふ。これでおあいこってことで。……どう、次はスソ上げは自分でできそう?」
「うーん……」
ああやって、こうやって、次はこうして……、などと独り言を言いながら、マリはさっきまでのカズコの作業を頭のなかで回想した。
「できそうと言えば、できそうだけど。ちょっと、自信ないや。もう一度見せてもらってもいい?」
「え?」カズコは驚いた声を上げた。「またほどいて、もう一回やるってこと? 別にかまわないけど……、そろそろ瀬戸さんが来るから、また明日にでも」
「いやいや。実は、ここに来る直前に、時間止めてたんだよ。こんなこともあるかもしれないから、念のため。だから、”飛んで”もう一回、別の世界のカズコちゃんに見せてもらうってこと」
マリは動きの止まっている時計をカズコに見せた。
「なあんだ。そっか」カズコはしばらく考える仕草をした。「あんまり多用するのは感心しないけど、そういうことなら、アリかなあ。いちおうこれも勉強だしね。うん。行ってらっしゃい」
「じゃ、行ってきまーす」
「あっちの世界の私にもよろしく言っといてね」
マリは時計のボタンを押した。痺れが身体を走って、消える。さっきまで「16:20 28」の表示だった液晶は一気に「16:34 56」になった。
「飛んだ?」カズコが言う。
「うん。たぶん」
マリはなんとなく、窓の外を見上げた。
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