PM 13:06
弁当を食べ終えると、マリはその場に大の字になって寝そべった。コンクリートの冷たさが返って心地よい。
「あー、おいしかった。カズコちゃん、おばさんにもお礼言っといてね。ミカンでよければいくらでもあげるから、なくなったらまた言ってね」
「うん」
「お腹いっぱいになっちゃったよ。眠たくなっちゃう」
「マリちゃん、授業中もずっと寝てるんでしょ。ちゃんと先生の話聞いてる?」
「聞いてまーす」
「ウソばっかり」とは言っても、責めている口調ではない。
グラウンドで四、五人の男子がサッカーボールを蹴って遊び始めた。ボールが固い地面とこすれ合う乾いた音が響いてくる。
「あ、そうだ。あれ。カズコちゃんに、あれ言うの忘れちゃってたわ」マリは上半身を起こした。
「え、何?」
「えっとね、私も正直言ってぜんぜん理解できない話なんだけど。この前、中村先生に聞いた話。エヴェレットってやつ」
「エヴェレット? どこかで聞いたことあるような……。あ、思い出した。九官鳥のキュウちゃんの名前の話?」
「それの元ネタね。この腕時計に関する話よ」
マリがそう言うと、カズコの表情がにわかに真剣みを帯びた。
「何か、わかったの?」
マリはポケットから財布を取り出し、お昼ご飯に使うはずだった五百円玉を財布からつまみ上げた。
「私もよくわからないから、中村先生に聞いたまんまのことをやってみるね」
親指で五百円玉を弾いて、落ちてくるところを両手で受け止めた。そして、
「さあ、右と左、どっち?」とカズコに握った両手を差し出す。
「うーん。左かなあ」
「残念、右でした~」と言いながら、カズコは右手を広げた。
「あらら。……でも、それがどうしたの?」
「それがね、カズコちゃんは今、右か左か悩んで、結果として左を選んだでしょ?」
「うん」
「右を選んだカズコちゃんも、同時に存在するって話らしいのよ」
「え? どこに?」
「別の宇宙」
カズコは目をぱちくりさせながらも、とりあえず「ふうん」と言った。
「う……。やっぱりうまく説明できないや」とマリは困った顔をした。「とにかく、世界っていうのはどんどん枝分かれしていくものらしいのよ。右を選ぶか左を選ぶかでふたつに分かれて、それらがまた分かれてって感じで。それぞれ、別の宇宙として同時に存在してるんだって。それをね、マルチバース。たくさんの宇宙っていうらしいの」
「うん。なんとなく、わかった」マリの舌足らずの説明でも、カズコは自分の想像で補って理解した。
「本来なら、ひとつの宇宙に行ってしまったら、ほかの宇宙には行けないはずなんだけど、この時計で」マリは左手を出して時計を指差す。「時間を止めてたら、その時間に私たちはなぜか戻って来られるのよ。それで、戻った私たちはまた別の宇宙に進んで行くっていう……。でも、戻ってくる前の世界も、きっとそっちはそっちで続いてるんだと思う」
「ということは、やっぱり私たちの予想通り、タイムリープしても、もとの世界はもとの世界で、そのまんま時間が続いてるってことになるね」
「とりあえず、実験。カズコちゃん、時間止めてもらってもいい?」
「え、うん」
カズコは腕に巻いているマリとまったく同じ時計のボタンを押した。「13:08 01」で液晶は動きを止めた。カズコはあまりこの腕時計を使用することを好んではいないのだが、実験ということで素直に従う。
すぐにカズコの身体が一瞬、ビクッと痙攣した。そしてタイムリープ時のショックから意識をはっきりさせるために顔を左右に軽く振ったあと、確かめるように腕時計を見た。さっきまで動きを止めていた時計は、触れてもいないのに動きを再開していた。
「戻ってきたよ」とカズコが言った。
「おかえり。じゃ、もう一度いくよ」
マリはまたコイントスをした。そして同じように握りこぶしをカズコの前に出す。
「どっちにも入ってない。制服の袖のなか」とカズコが即答する。
「正解。さすがね」マリは袖を下に向けて揺すった。五百円玉が落ちて来て、チャリンと音を立てた。「”飛んで”来る前は、どんな感じだったの?」
カズコは、マリが体験していない平行世界のことを説明し始めた。
「えっとね、同じようにマリちゃんがコイントスをして、右か左かって言ったから、今度こそ左! って私言ったんだけど、『残念、袖のなかでした~』ってマリちゃんが言った。そしたらマリちゃん、『じゃ、”飛んで”おんなじことやってね』って言ったのよ。だから、戻ってきたんだけど……」
「そう。さっきまでカズコちゃんが居た世界は、そっちはそっちで”飛んで”ないカズコちゃんの存在が続いてるのよ。きっと。で、こっちの世界では、袖にコインが入ったことを見事に当てたカズコちゃんがいる」
カズコはアゴに手を当ててしばらく無言で考えていたが、
「でも、なんでそんなことが起こるんだろう」
「素粒子ってやつの動きをうまく説明しようと思ったら、こう考えるしかないみたい。素粒子っていうのは、物質の最小単位のことね。人間も、もちろん素粒子でできてるから、人間がたくさんの世界に同時に存在するっていうのは、エヴェレット解釈というのを前提にすれば、そんなにおかしなことでもないみたい。でも、中村先生が言うには、このマルチバース、多世界解釈っていうのは、学会ではトンデモ扱いされてるそうよ。実験しようがないから、相手にされてないんだって」
「まあ、そうだよね。これまで何度もタイムリープしてる私たちだって、にわかに信じられないもん」
「カズコちゃん、避けて!」いきなりマリが叫んだ。
何事が起こったのか確認する間もなく、マリが飛び跳ねるように立ち上がってカズコの前に出た。向こう側からサッカーボールが飛んでくる。その前にマリが立ちはだかり、両手を結んでサッカーボールにレシーブをした。
空高く飛んだボールが、放物線を描きながらマリの目の前六メートルほど先に落ちてきた。
ひとりの男子が駆け寄って来て、
「すみませんでした。逢沢先輩」と言って頭を下げた。
マリは見知らぬ年下の男子に苗字で呼ばれたことなどまったく頓着せず、両手を腰に当てて威嚇するように、
「ちょっと、気をつけてよね。今の、私じゃなかったら当たってたわよ」と言った。
「本当にすみません」男子はもう一度頭を下げると、ボールを拾って遠くへ行った。「見たかよ、今の。すげえ」とほかの男子と興奮しながらしゃべってるのが聞こえてきた。
「ありがとう。マリちゃん。大丈夫?」
「うん。あちゃー。サッカーボールって意外と固いのね」と言いながらマリは手をこすった。
「遊ぶんなら人がいないところで遊びなさいよねえ。まったく。私のカズコちゃんがケガでもしたらどうすんのよ」
「ありがとう。助けてくれて」とカズコはもう一度礼を言った。
「いやいや、昨日は私のほうが助けてもらったから」
「え?」
「ほら、商店街のとこで……。あ、そうか。あれはこっちに”飛んで”来る前のことだったわね。えっとね、昨日、私が一回目いっしょに帰ったときに、私が商店街の前を横切ろうとしたときに、トラックに気づかなくて、カズコちゃんが『あぶない』って行って私を止めてくれたのよ」
「へえ。そんなことがあったんだ。えらいぞ、私」とカズコがおどけて言った。しかしすぐに真剣な表情になって、「マリちゃん、さっきの話が本当なら、ひょっとしたらさっきのボールが私に当たっちゃったっていう世界も、どこかにあるのかな。たまたま今の私たちが、そっちの世界に行かなかったってだけで……」
「そんなことはない。カズコちゃんは私が守るわ……、と言いたいところだけど、無限の並行世界って概念を受け入れるなら、あるとしか言えないのかもしれない」
「うん……」
マリは座って、また大の字に寝転がった。体育館の屋根の上から一匹の鳩が飛び立つと、それに引っ張られるかのように鳩の群れがあとに続いて飛んで行った。
マリは左手を目の前に持って行き、時間を確認する。あと十分ほどで昼休みは終わりだ。見れば見るほど不思議な時計だ。メーカーもシリアルナンバーも書いてなければ、「メイド・イン・○○」と言った表示もない。時間を表示する液晶と、時間を止めるボタンと、時間を戻すボタンしか付いていない。一度も電池交換したことないのだが、きちんと動き続けている。時計としての時間表示は正確で、メンテナンスなど一度もしたことないのに、進むことも遅れることもない。
「不思議な時計。……これ、買いに行った日のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。中学一年生のとき。商店街に新しくできたリサイクルショップにふたりで行って、ジャンク品のなかに埋もれてたの、税込み103円で買った」
「ふたつ同じのがあったから、一緒に買おうってカズコちゃんが言ったのよねえ」
「うん」
「あのときマリちゃん、こんなのやだ。新品がいいって言ってたのに、いつの間にか手放せなくなっちゃったね」
「だってさ、これってデザインも野暮ったくてちょっと大きめだし、どう考えても男性向けでしょ。本当は、もうちょっとかわいいのが欲しかったんだ」
一緒に時計を買ってから不思議なことが起こった。何も起こってないはずなのに、何かが起こってる。最初はふたりともそうとしか表現できなかった。
「私、未来から戻ってきたかもしれない」
最初に気付いたのはカズコだった。マリは最初は「気のせいでしょ」と軽く思っていたが、カズコの言う通りにボタンを押して、何度か実験を繰り返し、どうやら本当に時間を遡っているということが、何となくわかった。気味が悪くて親に相談したこともあったが、誰も信じてくれなかった。別の時計を買ってもらうよう親にお願いしたが、「もう持ってるでしょ」と言って却下された。
仕方なく使い続けているうちに、マリはこのタイムリープ機能を使いこなすようになった。時計を止めていれば、未来からその時点に戻ることは可能だが、止めていない過去には戻ることができない。
「んんー」と言いながらカズコもマリの横に並んで寝転がった。「本当に、気持ちいいわねえ。このまま寝てしまいたい」
仰向けになって目を閉じると、光がまぶたを通って赤い色になって見える。
「本当。カズコちゃん、今でも夜遅くまで勉強してるんでしょ?」
「まあね、テストが近いし。あと、ちょっとだけ編み物もしてる」
「へえ。ここで時間止めておいて、午後はサボっちゃおうかしら。あとで”飛んで”くればいいし」
「ダメよ、そんなの。さっき言ってたみたいに、この世界のマリちゃんは、サボったまんまなんだから」
「冗談よ、冗談」
「でも、たくさんの自分がいるって考えたら、不思議よね。別の世界の私は、いったいどんなふうにして毎日過ごしてるんだろう」
「うん。それと、この今の私は、なぜ別の世界じゃなくてこの世界にたどり着いたんだろうって思う」
予鈴が運動場に鳴り響く。午後1時15分になった。そろそろ教室に帰らなければならない。サッカーボールを蹴っていた下級生の男子も、ボールを手に持って引き上げて行った。タイムリープを繰り返すことができるマリにとっても、カズコと一緒に過ごす時間はかけがえのないものだった。1秒でもそばにいたい。
横で寝ているカズコの顔に、マリは自分の顔を近づけた。
「ねえ、一回だけ」
「ダメよ。こんなところで」とカズコは言ったが、マリはまるで唇を盗むようにキスをした。
「もう」と言いつつ、カズコはうれしそうに微笑んだ。
「ねえ、マリちゃん。今日、体育のジャージ持って来てる?」唐突にカズコが言った。
「あるけど、どうしたの?」
「じゃ、放課後、被服室に来てね。スカートのスソ、直してあげる。学校のアイロン、強力だから。お直しするときに便利なのよ」
「えー、まだいいよ。テスト終わるまでに直して来いって言われてるから、もうちょっと短いままでいいよ」
「そういう問題じゃなくて、さっきサッカーボールをレシーブしたときに、思いっきりパンツ見えてたよ。短すぎるから」
「マジで、見えた?」
「うん。さっきの男の子たちにもたぶん見られちゃったよ。水色のしましま」
マリは今さらながらスカートのスソを手で抑えた。
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