PM19:07
カズコの家は、瓦屋根のマリの家と違って、洋風の作りをしている。すでに暗くなっていて見えにくくなっているが、敷地と道路はレンガを積み上げた壁で仕切られ、家の壁は薄いクリーム色をしている。二階の窓からは大きめのバルコニーが出っ張っていて、そこには枯らしてしまった観葉植物の植木鉢が無造作に置かれている。
カズコは車庫のすみに自転車のサイドスタンドを立てて止めた。車庫に車はなく、それが父がまだ帰宅していないことのサインになっていた。
カズコは小走りに玄関まで行き、
「ただいま」と言いながら自宅に入った。
正確には門限には遅刻だが、これくらいは多目に見てもらえる。
「おかえり。すぐにご飯よ。手、洗ってらっしゃい」と娘の帰宅に気付いたカズコの母が言った。
「はーい」
カズコは一度自室に分厚いカバンを置きに行った後、洗面所で手を洗ってダイニングに入った。
母はすでにテーブルに着いていて、頬に手を突いてテレビを眺めていた。すでに夕食の用意は完璧にされていて、かなり長くカズコの帰宅を待っていたらしい。
白いご飯に、ポークソテーにコーンとアスパラガスの付け合せ、わかめと豆腐と大根のお味噌汁、削り節を乗せた焼きナスのおひたしが今日の夕食の献立だった。
「いただきます」と言って手を合わせる。
「遅かったね。また、部活?」と母が言った。
「うん。部活もしてたんだけど、帰りにちょっとだけマリちゃんの家に寄って、勉強教えてもらってたのよ」
マリが成績優秀なのは近所でも評判だったので、そう言っても母はまったく疑う様子を見せない。
「そう。いつもマリちゃんにはお世話になってるわね。あなたがそこそこ良い成績取れるのも、そうやってマリちゃんに勉強を教わってるおかげよねえ」
「そこそこ良い成績って、何よう。私だってマリちゃんには一度も勝ったことはないけど、常に上位を維持してるんだから」とカズコは母に抗議した。「お父さんは今日も遅くなるの?」
「うん。さっき電話があって、遅くなるって。何か最近、急に忙しくなったみたい。詳しくは教えてくれないんだけど、なんか取引先が急に倒産しちゃったらしくて、いろいろ大変らしいのよ。その取引先、銀行に融資を受けて財テクってやつをやってたらしいけど、それで失敗したんだって」
「ふうん」
カズコは横目で、テーブルの父の指定席になっているところを見た。ポークソテー皿には、ピンと張ったラップがしてあって、天井の蛍光灯をきれいに反射させていた。
父は最近、午後10時より早く帰ってくることはまずない。カズコが夜遅くまで勉強していて、やっと父が帰宅したと思って時計を見てみたら日付が変わっていたなどということも頻繁にあった。数年前までは晴れやかで笑顔に満ちていた父の顔は、いつのまにか暗く疲れたものになり、高校生のカズコにも、バブル景気というのが終わりを告げて、世の中が不況に陥りつつあるというのは、なんとなく肌で感じていた。
「あ、そうだ。マリちゃんの家でミカンもらってきたんだった。部屋に置いてきちゃった。あとで持ってくるね」
「ミカン? まあ、うれしいわね。マリちゃんのお母さんにも、ちゃんとお礼言った?」
「ん…」カズコは口のなかのおひたしを咀嚼してから、「今、おばさん、単身赴任のお父さんのところに行って留守にしてるいたいなの」
「そう。逢沢さんのところのご主人、今どこか外国に赴任してるのよねえ。なんだっけ、ジンジャエールとかいうところ」
「シンガポール」
「それそれ。すごいわよねえ、ヨーロッパでお仕事なんて。寒いから大変でしょうねえ」
「東南アジア、よ」
まるで漫才のボケのような母の発言に、カズコはいちいちツッコミを入れた。よそでこんなことを言えば赤っ恥もいいところだが、母はあまり気にしていないようだ。
「いただきっぱなしじゃ悪いから、何かお返ししとかなきゃいけないわね。……ってことは、マリちゃん今はお家にひとりなの?」
「そうみたい。いつごろ帰ってくるかっていうのも、何かあんまりはっきりと決まってないらしくて」
「へえ。女子高生が家にひとりっきりかあ。ちょっと無用心だけど、マリちゃんならうまくやれそうね。あの子、器用で要領よさそうだから。ご飯はどうしてるのかしら」
「私も聞いてみたんだけど、何とかなるでしょ~って軽く言ってた」
「それも、あの子らしいと言えば、らしいけど。まあ、あなたたちも来年からは大学生なんだがら、多少は自立することを覚えないとねえ。家事なんて、やることは簡単だけど、続けることが大変なのよ」
母がそんなぼやきともつかないことを言っていると、いきなり電話が鳴り始めた。カズコと母が同時に箸を置いたが、母が、
「私が出るわ。たぶん、お父さんでしょ」と言って立ち上がった。
カズコはテーブルの上のリモコンを手に取って、テレビの音量を小さくした。テレビに映し出されていたのは夜のニュース番組で、景気の悪化を伝えていた。
母は受話器を持って、何やらひどく驚きながら「おめでとう」と繰り返していた。しゃべっている相手が父ではないことはカズコにもわかった。
受話器を置くと、母は引き続き興奮したようすでカズコに話しかけた。
「ねえ、カズコ。親戚のハルカちゃん、知ってるでしょ?」
「ハルカお姉さん? うん。どうしたの?」
ハルカは母の姉の娘で、カズコの従姉に当たる。しかし、住んでいるところも遠く、二、三度しか会ったことがない。
「ハルカちゃん、来年の三月に結婚するんだって。このままずっと独身でいるんじゃないかって、親戚中で心配してたのよねえ」
「そう。ハルカお姉さん、いくつだっけ? 私よりだいぶ年上だった気がするけど」
「カズコとはたしか、十五歳違いね」
ということは三十三歳になる、と頭のなかで計算した。
「そう。おめでとう」とカズコはここには居ない人のためにお祝いを言ってはみたものの、従姉とはいえほとんど会ったことのない人だったので、あまり実感がなかった。
「相手の人は公務員で市役所勤務なんだって。民間の会社と違って安月給らしいけど、ハルカちゃんも選り好みできる歳でもないし、本当によかったわよ」
母はひどく喜んでいた。まるで自分が結婚するかのように浮かれていた。
気分が高揚した母は、まるでその勢いに任せるように、
「ねえ、カズコ。あなたはどうなの?」とカズコにたずねた。
「はい?」とカズコは素っ頓狂な声を出してしまった。
「どうなのよ、実はこっそり、彼氏とか居るんじゃないの。お母さんに隠してるだけで」
母の顔を見てみると、ニヤつきながらいやらしい横目でこちらを見ている。
「いません」きっぱりと言った。
「じゃあ、好きな人は?」
母の少し無神経な質問に、カズコは無言で抗議することにした。
「あらら、拗ねちゃって。でもね、カズコ。真剣に聞いてね。結婚なんて、遅すぎるよりは早すぎるほうが良いに決まってるんだから、早目に相手を見つけておかなきゃ、ダメよ。女の子なら、学校を卒業してすぐにしてもいいんだから。聞いたことあるでしょ。お母さんの若いころには、女はクリスマスケーキだなんて言われてたのよ。二十五までは価値があるけど、二十六になったら半値だって」
そのフェミニストが耳にすれば激怒しそうな前時代的な発言を、カズコは「はいはい」と言いながら軽く受け流した。
カズコは自分が結婚する姿をまったく想像できなかった。本当にごく小さいころ、新婦が着る白いウエディングドレスにあこがれたことはあったけれど、最近そのあこがれはほぼ完全に霧消している。きっと、自分が今の制度のままで結婚などすることは有り得ない。
しかしそれを両親は許してくれるのだろうか。一般的には、娘はやがては結婚して家庭を築き、孫の顔を両親に見せるのが育ててもらったことに対する恩返しになるのだろう。もちろんカズコにもそうしたい気持ちも、ないではなかった。
音量が小さくされたままのテレビには、グラフ化された株式価格が表示されている。ここのところ少しは戻ってはいるものの、1989年の最高値から比べたら半額以下になっていた。テレビに出ている経済評論家の人は、「すでに市場の調整は終わった。これから景気回復に伴って上昇が期待できる」などと言っていた。
こういうことにはまったく興味がないカズコでも、株式価格の急な滑り台のようなグラフを見ると、この先はどんなふううに動くのだろうと心配になった。
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