PM18:56

「私もう帰らなきゃ。あんまり遅くなったら、お母さんうるさいから」とカズコが言った。

 幼なじみどうしの情事は、あっという間に終了時間を迎えてしまった。当然、ふたりとも物足りなさを感じている。できれば永久に一緒にいたいと思っている。密着していた身体を離して、相手の体温がどんどん蒸発していくこの瞬間は、なんとも言えず空しい気持ちになる。

 マリは立ち上がって、部屋の明かりのスイッチを入れた。まぶさしにまばたきを二、三度繰り返しながら目を慣らす。マリはカズコに悟られないくらいの、小さなため息を吐いた。

 カズコは居ずまいを正して、髪の毛のツインテールを一度ほどいてから手櫛で整え結びなおした。

「これ、持って帰ってね」とマリはスーパーの袋に、結局運んできたものの,

まったく手の付けられなかったミカンを入れた。

「マリちゃん、ちゃんと服着てよ」カズコがマリの姿を見ながら言った。

 しわになったブラウスがスカートのウエストから、だらしなくはみ出している。それがまるで、自分の欲深さが形になって表れたようで、カズコは少し恥ずかしくなった。

「ははっ」とマリは苦笑しながら、ブラウスをスカートのなかに突っ込むと、畳の上に落ちている制服の上着を拾って、それを雑に着た。

「マリちゃんのお母さん、明日もいないんでしょ? じゃ、明日も来てもいい?」

「うん。来て欲しい。明日も一緒に帰る?」

「それは、ダメよ。先に帰ってて。部活終わったら、また来るから」

 ふたりにとって、密室の逢瀬を遂げることができる時間はそれほど多くはない。休日に一緒に勉強すると称してお互いの家に行くことはよくあるのだが、カズコの親もマリの親も、ふたりが幼なじみであるために怪しまれることもないが、一方で遠慮もない。自室で会っているところに、「ロールケーキ食べる?」などと言いながら入ってくることもしょっちゅうだった。

 マリの母親が留守にしている今は、思う存分抱きしめ合える絶好の機会と言える。しかし、学校から帰ってからカズコの門限である午後七時までのごく短い時間に限られる。

「ねえ、マリちゃん」すっかりと帰る準備を整えたカズコが言った。そして眼鏡をかけながら、「時計見せて」

「え?」そう言われてマリは、何事もないように振る舞おうとしたが、目が泳いでしまった。

「時計。また、時間止めてるでしょ?」

「う……。バレたか……。なんでいっつもバレちゃうんだか。カズコちゃん、まるでウチの担任みたいよ。ひょっとしたら学校の先生が向いてるんじゃない?」

 マリはしぶしぶ、こっそりと制服のポケットに隠しておいた腕時計を取り出してカズコに手渡した。カズコは馴れた手つきで、上部のボタンを押して、止まっている時間を解除した。「18:29 57」の表示だったものが、一瞬で「18:59 02」に飛んだ。

「ダメよ。こんなものに頼ってちゃ。どうしても大事なことがあるんだったら、仕方ないけど今はそんなときじゃないでしょ」

 カズコはマリの手に腕時計を戻す。

「だってさ、だってさ」マリは子供のように手をバタバタささせて駄々をこねた。「もっとカズコちゃんと一緒にいたいんだもん。時間どもしてもう一度、愛し合いたいよ」

「ダーメ。そもそも、マリちゃんだけ戻っても、私はこっちの時間に留まったままなんだから、それは私じゃなくて別人よ。少なくとも、今の私にとっては。そんなことするためだけにタイムリープするなんて、私にしてみれば浮気よ、浮気。今度やったら、許さないんだから」

 その「今度やったら」という言い方を聞いてマリは少しドキッとした。どうやら、これまでに何度かその奇妙な「浮気」をやっていることはカズコにバレているらしい。しかし、というか、やはりというか、カズコはその浮気よりもマリが気軽にタイムリープを繰り返すことを咎めているのだった。

「うう……。わかった」

 玄関の外までマリはカズコを見送りに出た。外はすっかり陽が落ちて、夜になっている。どこかでカラスが鳴いている声が聞こえたが、どこに居るかはわからない。

 期待していた二度目の逢瀬が出来なくなって、マリは意気消沈した。

「そんなに落ち込まないで。ちゃんと明日も来るから」カズコはマリを励ますように言った。そして、「マリちゃん、大好きだよ」とささやいた。

「うん……」

 カズコは表に停めてあった自転車のスタンドを蹴って、ハンドルを握る。

「それじゃ、また明日ね」

 カズコがそう言うやいなや、マリの顔がみるみるうちに近づいてきて、唇に触れた。触れた唇はすぐに離れる。

「うん、また明日」と言って、マリは逃げるように玄関のなかに入って行った。

 その動きがあまりに素早かったので、人目があるかどうかを気にする隙もなかった。

 玄関のドアが閉まりかけるそのときに、「オカエリ」というエヴェレットの枯れたような声が聞こえた。

「こら、もう。マリちゃん」とカズコは、マリには聞こえないだろうが独り言で抗議した。

 自転車にまたがり、マリの家のすぐ近くにある自宅へと向かう。前カゴのなかのミカンは意外に重く、ハンドルの操作が多少左右にぶれる。

 カズコはペダルを漕ぎながら、

「考えること、同じなのよね。私も本当はもうちょっと一緒に居たい」と言いながら、カズコは自分の時計の液晶を見た。

「18:29 33」で止まっている。どうしても名残惜しくなったときに備えて、マリが台所に行っているあいだに、こっそり時間を止めておいたのだった。

 カズコはタイムリープしてこの時間に戻るべきか否かを考えたが、さっきの自分の台詞を思い出して、時間の停止を解除した。「19:01 21」の現在時刻に液晶が切り替わった。

厳密には、カズコの門限である午後7時を過ぎてしまっている。

「いつか、ずっと一緒に居られる日が来るのかなあ」とカズコはつぶやいた。

 可能だとしても、そこに至るまでの障害を考えると、気の遠くなるような戦いを繰り返さなければならないだろう。自分たちにとって望む幸福な未来を想像したら、それこそ別世界にでも行かない限り実現は不可能ではないのかとすら思えてきた。

 カズコは足に力を入れて、帰宅を急いだ。

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