PM18:29

 マリは台所の棚や冷蔵庫を開けてみたが、クッキーやプリンなどの手軽なおやつになりそうなものは何もなかった。おそらく、お母さんが出発する前にぜんぶ食べていったに違いない。おやつになりそうなものと言えば、強いてあげれば、二、三日前に父方の祖父母が送ってきたミカンがあるくらいだ。マリは自分の食い意地の悪さは母親ゆずりか、などと思った。

「仕方がないなあ」と言いながら、マリは小さな竹製のザルのなかにミカンを乗せられるだけ乗せた。

「いちおう、念のため」と言ってマリは、一度ザルをダイニングテーブルの上に置いて、腕時計のボタンを押した。「18:29 57」で表示で時間の進みが止まった。

 不出来なピラミッドのように盛られたミカンを注意しながら階段を登って自室に向かった。マリの部屋は六畳の和室で、ベッド、学習机と小さなテーブル、本棚、と最小限のものしか置いていない。本棚はマンガでほぼ占められているが、内訳は少年マンガと少女マンガが6対4くらいの割合だ。ぬいぐるみやアイドルのポスターなど、同じ年代の女子高生の部屋にあるべきものは、ほとんど見られない。殺風景な男子の部屋のようだ。

 自室の扉を開くと、座布団の上にカズコは正座していた。足音でマリの接近を察したらしいカズコは扉の方向を向いていた。

「ごめんね、ミカンしかなかったよ」テーブルの上にザルを置いた。

「ううん。気にしないで。このミカン、おしいそうね」

「もし良かったら、いくつか持って帰ってよ。ウチのお父さんが和歌山出身だから、この季節になると、段ボールで送ってくるのよねえ」

 そういえば去年も今くらいの時期に、逢沢家からミカンを大量にもらったことをカズコは思い出した。カズコはデザートになる果物は日持ちがしないという先入観があるのだが、ミカンは常温でかなりの長い期間、新鮮さを保つ。

「あ、うん。ありがとう」

「でさ、コーヒーか紅茶入れようと思うんだけど、カズコちゃんどっちがいい?」

「私も手伝うよ」とカズコが立ち上がった。

「いいって、いいって。ねえ、どっちがいい? おつまみがコレだし、たまには温かいお茶にしよっか」

 マリがそう言って後ろを振り返ったときに、カズコはマリに音も立てずにそっと近寄って 背中からマリを抱きしめた。まるでしなやかな鞭のようにカズコの腕がマリの身体に絡みついた。カズコのほうが背が高いので、マリの肩の上あたりにカズコの脇が乗って、そこから伸びた腕がやわらかくマリの腰を包む。カズコのやわらかい胸がマリの背中に当たって、その大きさを主張しているようだった。

「あっ……」という声がマリの口から漏れて、背筋がびくっと緊張した。

「どっちも、いらないよ」とカズコがマリの耳元で囁いた。

 羽でくすぐられたように、耳がこそばゆくなる。

「カズコちゃん、ふたりきりになると、途端に大胆になるわよね」とマリが言った。「こんなカズコちゃんの姿、ほかの人が見たらきっとびっくりするわよ」

「マリちゃん以外の人には、誰にも見せないよ」そう言いながらカズコはマリの頬に自分の頬をくっつけた。

「本当に、お茶いらいない?」

「うん。少しでも長く、マリちゃんにくっついていたいから」

 マリは自分を抱きしめているカズコの左手の甲に、自分の手のひらを乗せた。カズコの温かみがじんわりと伝わってくる。

「マリちゃんの手、冷たいね」とカズコが言った。

「もともと冷え性気味なんだけど、最近、すっかり寒くなってきたから」

 カズコがマリの頬にキスをしたので、マリも首を横に向けてカズコにキスをした。

「また少し、ウエストまわり太くなったんじゃない?」

「そうよう。ハッキリ言うわね。やっぱり、現役のころと同じくらい食べてたら、太っちゃうのよねえ」

「いやいや」とカズコは取り繕うに言った。「そういう意味じゃなくて、マリちゃんもともと痩せすぎだったんだから、だんだんちょうどちょうど良くなってきたって意味でいったのよ。健康な体型に近づいてるってことね」

「そうかなあ。もうちょっと太いほうが、好き?」

「うん」

「じゃ、もうちょっと太る」マリはあっさりと言った。

「無理して食べちゃダメだよ」

「でも、今から太っちゃったら、卒業まであと数ヶ月しか着ないのに、制服入らなくなっちゃったら、どうしよう。おかあさんに怒られちゃうわ」

 マリがそうい言うと、カズコは制服のサイズを測るようにマリの胴回りをさすった。

「大丈夫よ。ウエストも、少しだけだったら伸ばせるのよ」

「本当? そんなこともできるの?」

「うん」

「へえ、さすが手芸部の部長さんはすごいスキル持ってるわねえ」

「そんな、大したことじゃないよ。慣れれば誰だってできるよ」

 マリはカズコの腕のなかで百八十度回転して振り返った。そしてカズコの顔を見上げる。

 こうして抱き合うとき、カズコはいつもリンゴのように頬が赤くなっている。少し前に、そのことを指摘すると、「マリちゃんも真っ赤だよ」と言い返されてしまった。鏡を見たら、自分のほうが赤いとは思わないが、マリのほうが色が白いぶんだけ血色の変化が見て取りやすい。

 マリはカズコのこめかみに手を遣って、耳にかかっている分厚いレンズの眼鏡をはずした。そしてその柄の部分を折りたたんで、カズコの制服の胸のポケットに入れた。カズコは中学二年までは眼鏡を要しないほどの視力があったが、中学三年に入ったころから急激に目が悪くなっていって眼鏡をかけるようになった。

 マリは素顔のカズコが大好きだった。初めてキスしたときは、ちょうどカズコが眼鏡をかけ始める少し前のことだった。素顔を見るたびに、初恋のあの季節を思い出して、胸が高鳴る。

「眼鏡はずされちゃったら、マリちゃんの顔がちゃんと見えないよ。もう、視力0・1くらいしかないんだから」カズコが甘えるように言った。

「見えなかったら、もっと近づいて見ればいいじゃん」

「うん」

 カズコは顔を下に向けて、マリの額に自分の額をくっつけた。同時に、鼻先も触れる。

「それじゃ、近すぎてもっと見えないじゃない」とマリが言うと、

「いいの」と言った。

 ふたりはほぼ同時に唇を突き出して、キスをした。その柔らかさを確かめるかのように、マリはカズコの下唇をかるく噛み、カズコのほうはマリの上唇を甘く噛んだ。興奮に押し出されるように湧き出てくる唾液が、唇と唇の境界線で混ざり合う。

 お互いの早い鼓動が、胸を通じて響く。

 マリは蛇のように舌を細らせて、軽くカズコの歯を舐めた。そして手をカズコの腋の下のほうに持って行って、最も柔らかなる部分に触れた。カズコは口を離して、ため息を吐いた。カズコの息がマリの髪の毛をわずかに波立たせた。

「マリちゃんの、えっち」

「それは、お互い様」

「まあ、そうね」

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