PM18:26

 マリとカズコは海岸線を3キロほど走った後に自動販売機が並んだ角を左に曲がって、松の木の並んだ道に入った。街路灯がまばらにしかないその道は、かなり暗いが、そこを抜けると住宅街になっている。その一帯は、1970年代の後半あたりに住宅用地の需要を満たすために開発され宅地造成されたもので、ほぼ同じ築年数の戸建てが密集している不思議な空間だった。

 そのなかの「逢沢」という表札の掛けられた、和風タイプ二階建ての家の前で、二人乗りの自転車はブレーキ音を立てて止まった。

「ここでいい?」とマリが聞いた

「うん。うちの前まで二人乗りで行っちゃうと、うちのお母さんうるさいから」

「そう」と言いながらマリは自転車から降りる。カズコも荷台から降りた。

 マリは腕時計を見た。いつもよりゆっくり自転車を漕いだから、もっと時間が過ぎてると思ったのだが、まだ6時30分にもなっていなかった。

「カズコちゃん、ありがとう。本当に助かるわあ。バスで待ってたら、三十分以上、遅くなっちゃうからねえ」

「うん。私も後ろに乗ってるだけですむから、実はけっこうマリちゃんと帰るとけっこう楽だったりするんだよね。でも」とカズコは即座に付け加える。「あんまり、しちゃダメだよ。もし先生に見つかったら、私が自転車通学禁止になっちゃうんだから。明日からはちゃんとバスで帰ってね」

「はーい。気をつけまーす」

 ふたりで帰るたびに、カズコは判で押したかのようにそう言うのだが、カズコも実はマリと帰る時間を、楽しみにしている。実際に、一度も拒否したことはないのだ。

 マリは最初から先生に見つかるわけはないと高をくくっているが、カズコはマリよりは心配している。しかし、見つかったら見つかったらどうにかなるだろうと楽観していることは、自分でも認めていた。

「ちょっとだけ、上がっていかない?」マリは自分の家を、右手の親指を立てて示した。

「でも、今おうちの人、誰もいないんでしょ? 留守にお邪魔しちゃ……」

「留守だから、ちょうどいいんじゃない。ねえ、ちょっとだけ。お願い」

 マリは自転車のサイドスタンドを立てて、前カゴからカバンを取り出した。

「本当に、ちょっとだけだよ。七時には家に着くように帰らなきゃいけないから」カズコは少し困惑しながら言った。

 マリとカズコの家は、徒歩でも5分も要しない距離にあるため、帰路に要する時間を含めてもほぼ丸々七時までの時間があると思ってもいい。30分、とおおまかにマリは計算にした。

「うん。ありがとう」

 マリはカバンの中から鍵を取り出して玄関を開け、家のなかに入った。靴を脱いで上がり、蛍光灯のスイッチをパチンという音を立てて入れた。光が灯ると同時に、狭い玄関のなかに、「バタバタバタ」という音が響く。鳥かごのなで、急な光におどろいた鳥が羽ばたこうと翼を広げて軽く暴れたのだった。

「おじゃましまーす」とカズコが言い、鳥かごのなかをのぞいで、「こんにちは。キュウちゃん」と言った。

 ギャー、という枯れた低い鳴き声を黄色いくちばしから発した。くちばしと顔の一部分以外は真っ黒なその鳥は、カズコの顔をいろんな角度から見るように、首を左右に何度も傾げた。

 マリの母が戯れに九官鳥を飼うなどと言い始めたのは先月のことで、その理由も「お父さんもいないし、マリちゃんもお昼は学校に行って寂しいから」などという、かなりいいかげんなものだった。この九官鳥にはまだ正式な名前は付けられておらず、暫定的に「キュウちゃん」と呼ばれている。

 ふつう、九官鳥やオウムなど、人間の言葉を真似できる鳥が最初に憶えるのは、「オハヨウ」というのが定番だが、この九官鳥は「オカエリ」あるいは最初の一文字を省略して「カエリ」と連呼する。いまだに、これ以外の言葉はいまだに覚えない。

「オエカリ。カエリ。オカエリ」この日も九官鳥は帰宅したマリの姿を認めると、そう言った。

「ただいま」とマリも言う。「そうだ。良い事、思い付いた」

「良い事?」

「うん。この九官鳥の名前、エヴェレットにしよう」

「エヴェレット?」

「うん。ちょっと、中村先生におもしろい話、教えてもらってね。私もぜんぜん理解できなかったんだけどさ。まあようするに、そういう名前の学者が昔いて、よくわからない現象をうまく解決する理論を見つけたんだって。量子力学とかいう分野らしいんだけど」

「リョウシリキガク……?」

 カズコがいくら優等生でも、高校生でその学問分野について知るには無理があった。頭のなかで漢字を変換しようとするが、「力学」はわかっても「リョウシ」はわからない。

「なんか、エベレストみたいだね」と我ながら間の抜けたことを言うの精いっぱいだった。

 マリは玄関の下駄箱の上に薄いカバンを置くと、

「先に上にあがっててよ。私、台所でお菓子か何か探して持っていくから」と言った。

 オカエリ、オカエリとエヴェレットと命名されたばかりの鳥が繰り返す。

「別に、何もいらないよ」とカズコは言ったが、マリは台所に駆け込んで行った。

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