PM18:03

 二人乗りの自転車は、海岸沿いのコンクリート道路に出た。

「ひゃあ! 何度見ても、良い眺めだねえ」マリが自転車のペダルを踏みながら言った。

 さっき見たのと同じ夕日が、きらきら光る海の上に浮かんでいる。風がマリのショートカットの髪の毛を煽って、頬と耳のあたりでバタついている。

「ねえ、カズコちゃん、寒くない?」

「平気」とカズコが返事をした。「マリちゃん、もし二人乗りで帰ってるなんてことが見つかったら、大学の推薦もらえなくなっちゃうよ」

「大丈夫、大丈夫。心配性なんだから。あー、気持ちいい」

「ねえ、マリちゃん。いったい、どの未来から”飛んで”きたの?」

「もうちょっと、先だよ。もうすぐ」

 この、二人で何度も通ってきたコンクリート舗装を自転車で走るとき、マリはいつも二人乗りでは有り得ないくらいのスピード出す。上体を左右に揺らしながら立ち漕ぎをして、全力で両脚を回転させる。でも今日は、なぜかいつもよりゆっくりだとカズコは感じた。ひょっとして疲れてるのかな、バレー部で後輩たちと運動してきたのだろうか、などと考えた。

「進路相談、どうだった?」カズコがマリの背中に向かって言った。

「いやあ、やっぱりあの先生抜け目ないよ。ほら、これ見て」と言いながらマリはペダルの上に軽く立ち上がった。そしてスカートのスソを軽くつまむ。「これ、これ。せっかくカズコちゃんにカート短くしてもらったのに、すぐに見つけたのよ、ウチの担任。千里眼っていうか、何でもお見通しなのよね。あの先生」

「物理の教師だから、そういうの目測するの得意なんでしょ、きっと」とカズコがめずらしく冗談を言った。

「中間テスト終わるまでに、もとの長さに戻して来いってさ。あーあ、残念」

「また、私がやってあげるよ。すぐにできるから」

「ありがとう。カズコちゃんがお裁縫得意だから、私助かるわあ」

 マリは再びサドルに座った。

「で、第一志望は、どこにしたの?」

 それはマリにとっては二度目の会話だが、カズコにとっては未知の情報ということになる。少しおっくうな気はしたが、必要なことだけはカズコに説明しておかなければならない。

「松山文科の、国文だよ。推薦ちょうだいってお願いしといた」

「先生、何か言ってなかった? 成績良いんだからもうちょっと偏差値の高い大学受験しなさい、とか」

「言われた」マリは午前中の先生との面談を思い出しながら返事をした。なぜか、物理準備室の机の向こうに置かれていた火星儀のイメージが強く涌いて出てくる。「授業料が安いんだから、国立も親孝行だと思って受験しなさい、とか何とか。あなたなら合格できるでしょだって。できるわけないっつーの」

「ははは、先生、ウチのお母さんと同じこと言ってる」

「家から通えるとこに行きたいんですって言ったら、個人個人いろいろ事情があるだろうから先生が口出すようなことじゃないけど、もう一度親と相談してみろだってさ」

「そっか」

 マリのしゃべる内容が、簡潔で必要なことだけを伝えているようにカズコは感じた。よくあることだった。きっとこういう話も、タイムリープする前にしたのだろう。

「うちの担任、この時計のこと見てね、いきなり、それ二組の島田さんのとオソロじゃないの、なんて言ってきてさ。肝が冷える思いをしたよ」

 マリは左手をハンドルから離し、背後のカズコに腕時計を見せるように手を挙げた。

 同じものが、カズコの左手にも着いている。カズコは改めて自分の時計を見てみた。古いという以外は、これと言って特徴のない形をしている。どこにでも売ってそうな、安物のデジタル時計だ。ぱっと見て印象に残るようなものではないだろう。

「へえ。一度見ただけでそこまでわかるのねえ。驚異的な記憶力だわ。さすが中村先生。東大卒ってだけあるわね」

「え! ウチの担任、東大卒だったの?」

「マリちゃん、知らなかった? 自分からは言わないみたいだけど、けっこう有名よ」

「うーん。ただものじゃないとは思ってたけど、本物のクセモノだったのね。でも、なんで教師なんてやってるのかしら。あれだけ頭よかったら、教授にでも研究者にでもなれそうなものだけど」

「でも、中村先生って教師が天職って感じがするよ。あんなに厳しいのに嫌われないって、ふつうじゃ考えられないもの」

「まあ、そうかもね。今日、面談で一対一でしゃべってみて、なんとなくわかった気がする。中村先生はきっと、困ったときは生徒の味方をしてくれる先生だって」

「でしょ?」

 マリは自分が担任の教師のことについてきちんと正しい認識を持ってないことを少し反省した。理科系教師に有り勝ちな、すべてを杓子定規に当てはめて考えるタイプでだから校則を一言一句あやまたず適用してくる人だと決め付けていた。

 しかし、短い時間ではあったがああしてゆっくりとしゃべってみると、世の中に理不尽だったり矛盾したりすることがあって、それを受け入れる、ある種の諦念のようなものを持ってる人だということがよくわかった。

「そういやマリちゃん、今お母さんはお父さんのところに行ってて日本に居ないのよね。どれくらい留守にするの?」

「さあ。とりあえず一週間以上ってことだけは決まってるみたいだけど。何かお母さん、鼻歌歌いながらスーツケースを準備してたくさん着替え詰め込んで行ったのよ。お父さんの看病っていうより、旅行しにいくみたいな感じだったわよ」

「ふふっ、きっとひさしぶりにお父さんに会えるのがうれしいのよ」

「まあねえ。なんだかんだで、仲良い夫婦だからね~」

「マリちゃん、ずっと家にひとりで大丈夫?」

「大丈夫よ。洗濯とか、ちょったした料理くらいなら、私だってできるのよ」

「ちょっとした料理って、お湯入れるやつ?」カズコがからかうように言った。

「失礼ね。お湯入れるだけじゃなくて、レンジでチンくらいなら私でもできるわよ」

 ふたりは同時に声を出して笑った。

「何か、困ったことがあったら私に言ってね。簡単な家事なら手伝えるから」

「はーい。ありがと。……ちょっと止まるよ」

 マリはハンドルのブレーキを握って自転車を減速させた。そして右足だけをアスファルトの上に付いて自転車の動きを完全に止めた。

「ほら、あそこ見て。あれ」コンクリート舗装からアスファルト舗装に変わる境目を指差した。「あそこ。黒っていうか、濃い茶色っぽい空き缶が落ちてるでしょ。さっきね……えっと、こっちに戻ってくる前、スピード出してるときに、あの空き缶の上蓋の部分に思いっきり前のタイヤ乗り上げちゃって、転んだんだ。ちょうど地面の色が変わるところで、見えにくくなっててさ。いったい、誰よ。こんなところにこんなもの捨てたの」

 カズコは自転車の荷台から降りて、空き缶を見た。堤防が夕日に長く伸ばされた影に隠れて、アスファルトと一体化している。

「ケガ、なかったの?」

「それが……。乗り上げて、これは転んじゃうなって思った瞬間、宙を舞いながら時計のボタン押して、タイムリープしてた。だから、あっちの世界で、どれくらいのケガしてるのか、ちょっとわからないや。でもまあ、きっと大したことないよ。膝をケガするなんて、いつものことだったからね」

「そう。それで今日は、いつもより安全運転だったわけか」

「そゆこと」

 遠くに小さく救急車のサイレンが響く音が聞こえた。同時に、犬が吠える声が聞こえる。

「でもね、マリちゃん」カズコがあらたまって言った。「あんまり、タイムリープしちゃだめよ。こんなの、私たちだけが使えるズルい技なんだから。……人にはきっと運命っていうのがあって、それをちゃんと受け入れなければいけないときが、あるんだと思うの」

 マリが何かこれから困難なことが起こりそうなことがあれば、腕時計の時間の進みを止めて実際にその困難に遭遇すればあっさりとタイムリープするのだが、同じ腕時計を持って同じことができるカズコは、ほとんどしない。不思議な力を持ったマリとお揃いの腕時計も、カズコはほぼただ単なる時計として利用している。マリが百回タイムリープするあいだに、カズコはせいぜい一回と言ったところだった。

 これがほかの誰も知ることのない、マリとカズコの決定的な違いだった。ほかのことならば、カズコはマリがどんなに怠惰なことをしていても笑って許してくれる。実際、下校のバスの時間をわざとと言っていいくらいに逃してしまうマリと、自転車二人乗りという校則を犯してまで一緒に帰ってくれる。

 しかしタイムリープに関しては、カズコはとたんに説教くさくなる。唯一、マリのカズコと相容れない部分だった。なぜ自分たちだけにこんな不思議な力が使えるのか、未だに手がかりすら見つけられないが、便利な技なんだからどんどん使えばいい。マリは本気でそう思ってる。

「はーい」とマリがいい加減な返事をした。

「もう」そう言いながら、カズコはふたたびサドルに乗った。

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