第二章
1994/10/18 side”B” PM17:48
「わっ!」とマリは思わず声を上げて身をのけぞらせた。
背中にコンクリートの壁が当たった。バランスを崩して倒れそうになったが、何とか踏みとどまった。
大きなまばたきを何度か繰り返して、周囲の景色を確認する。背後から、野球部が練習中に上げる、野太い喚声が聞こえてきた。まぎれもなく、ここは学校の裏門を出たところだ。
マリはすぐに状況を認識して、腕時計を確認する。さっきまでは止まっていたはずの液晶の表示が、何も操作していないのに再び動き始めていた。時間は、「17:48 52」を表している。左腕から伝わる電流のようなしびれが、皮膚の表面から空気中に蒸発していくかのように、徐々に薄まっていった。
「危なかったなあ……。って、あんまり解決にはならないんだけど」と、学校の裏門の塀に背中をもう一度体重を預けて、大きなため息を吐いた。
とりあえず、ケガをせずに”飛んで”来られたようだ。ひざやひじやおしりを触ってみても、どこもケガをしているところはなかった。
まさかこんなことになるとはまったく予想していなかったが、結果論だとしてもとにかくここで時間を止めておいてよかったとマリは思った。"飛んで"来る前のことを、頭の中で再現してみる。道がコンクリート舗装からアスファルトに変わる境目に、まるで保護色のように隠れて見えにくくなっていた黒い色の炭酸飲料の空き缶を、自転車の前輪で踏みつけてしまった。「危ない」と思ったときにはすでに自分の身体を宙を舞っていて、とっさに腕時計に手を当て、止めていた時間を再び再開させた。
そして、マリはまたここに戻ってきた。
「マリちゃん。おまたせ」不意にカズコの声が聞こえて、自転車を押しながら裏門から出てきた。
「あ、うん。えっと……、は、早かったね。部活は六時までなんじゃ……」思わず、どもってしまう。
おかしな様子に気づいたカズコは腰をかがめて顔を突き出し、分厚い眼鏡越しにマリの顔を凝視した。そして、
「お・か・え・り」と、ゆっくりと区切りながら言った。
「な、何のこと……?」マリは視線をカズコから逸らせた。
「とぼけたって、私にはわかるんだから。マリちゃん、タイムリープしてきたでしょ」
マリはカバンを持っていないほうの手で自分の後頭部を掻きながら、
「いやあ、やっぱりバレた?」とあっさりと白状した。
「うん。だって、額に薄っすらと汗かいてるもん。マリちゃんいっつも、タイムリープした後、そうやって汗かいてるんだよ」カズコはマリの顔から視線を外した。「で、どの未来から”飛んで”きたの? もしかして、二人乗りしてるとこ、中村先生にでも見つかった?」
「まあ、それは追々話すとして」マリはわざとらしく咳払いをした。「とりあえず帰りますか。今度はちゃんと気をつけるから」マリは額を手のひらで軽くこすった。たしかに、脂汗がにじんでいる。
「うん。瀬戸さんがね、あんまり逢沢先輩をお待たせしちゃ悪いからって、今日は早く部活切り上げることにしたのよ」
「そっか。瀬戸さんに気を使わせちゃったね。カズコちゃんからも、瀬戸さんに謝っといて」
「うん。でもマリちゃん」カズコはまたマリの顔を覗き込んで、「あんまり、タイムリープに頼りすぎちゃダメよ。ちゃんと、一瞬一瞬を大事にしなきゃ」とまるで子供に教え諭すように言った。
「はーい」
カズコはチラリとマリの腕時計を盗み見て、ちゃんと液晶が作動してることを確認した。
マリはカズコの自転車のハンドルを握って、前カゴにはふたりぶんのカバンを入れた。横に並んで、公園の横の細い道を通る。
マリはようやく心臓の動悸が収まってきた。自転車で転ぶなど、いつ以来のことだろう。中学生のときに一度、道路横の溝に前輪を落としてしまって派手に転んだことは覚えているが、あのときはケガはしなかった。
さっきの海岸横の道で、あっちの自分は、きっとケガをしたに違いない。でも、あの転び方だと頭や腰を打つことはないし、せいぜい膝をちょっと擦りむくくらいだろうとマリは楽観的に考えた。
「あのね、さっき瀬戸さんから聞いたんだけど、マリちゃん、二年生の男の子から、人気あるみたいよ。才色兼備、文武両道の美人だって」
「ふうん」
「ふうんって、それだけ? ……あ、もしかして聞くの二回目?」
「う、実はそうなんだ。さっきのカズコちゃんから、すでに一度聞いちゃって」マリは申し訳なさそうに答えた。
「そっか。でも、マリちゃんこういう話、あんまり興味なさそうよね」
「それも、バレちゃったか。さっき聞いたときも私、ふうんとしか言わなかったもん。お世辞だったらあんまり興味持つ理由もないし、お世辞じゃなくても、悪い気はしないけど、そんなにうれしいとも思えないかな。私なんかより、瀬戸さんのほうがずっとかわいい気がするけど。一度でいいから、あんな小さくておしとやかなお嬢さんになってみたいわ」
「私はマリちゃんも瀬戸さんもかわいいと思うけど、どっちかって言うと男の子ウケしそうなのは瀬戸さんのほうかなあ」
「そう言われたら言われたで、ちょっとだけ心外だわ」マリは冗談めかして言った。「それより、カズコちゃんはどうなのよ。意外に男にモテそうな気がするけどさ」
「え……?」カズコはさっきの瀬戸の話を思い出して、急激に赤面した。
自分とマリとが二年生からの人気を二分してるなどと信じられないし、もしそれが本当だったとしても、自分からは口が裂けても言えない。
「そんなこと、ないんだから! マリちゃんのほうが絶対、男子のあいだで人気なんだからね。私はそんなこと、ぜんぜんないんだから! 瀬戸さんはきっとお世辞でいったんだよ」
カズコがなぜ取り乱しているのかわからないマリは、
「お、おう……」と言った。
しゃべっているうちに、商店街の前の道路に出た。今度こそマリは、道路を横切る前にちゃんと止まって、トラックが通り過ぎるのを待った。トラックが煽った風に、マリの前髪が揺れる。
「今のトラック、すごいスピード出してたねえ」自分でも少し白々しいと思いながらも、マリは言った。
「国道ができてから、あんな車が増えたよね。ここ、海沿いの工業地帯から国道に出るまでの近道になってるんだって」とカズコが説明口調で言う。
「へえ……。まあ、道路交通法に関しては私たちもあんまり人のこと悪く言えないんだけどね」
「本当、そうよね」とカズコが心底愉快そうに破顔した。
今度こそ、ちゃんとカズコに危ない思いをさせずに送り届けなければならない。マリは決意を新たにしてマリはカズコの自転車にまたがった。
「大丈夫? まわり、先生いない?」
「ここまで来れば大丈夫だって、このへんは登下校の道からは離れてるからね」
カズコは自転車の後ろに、横向きに座った。
「それじゃ、行くよ!」マリはアスファルトを蹴って、自転車を発進させた。
「あれ……? 今のは逢沢と、二組の島田さん?」たまたまそこに居合わせたマサシが、自転車で去っていくふたりの姿を見つけてつぶやいた。
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