PM18:01

 二人乗りの自転車は、商店街のひとつ横の道に入った。この通りは、いわゆる飲み屋街になっていて、赤ちょうちんや、多少いかがわしい雰囲気を醸し出している紫色の看板のお店などが左右に並んでいる。道には目当ての店に向かう仕事帰りの人が若干歩いていた。

 少し前よりは、人が減ってきたとマリは思った。以前はこの近道を抜けるときは、自転車のスピードを落として、気を付けて進まなければならなかったのだが。もちろんマリには飲酒の経験などはなかったが、居酒屋などに限らず、商店街の近くよりも国道沿いにできたロードサイドの大型店舗に行く人が増えたようだ。

 その飲み屋街を抜けると薄暗い雰囲気が一変して、目の前に果てしなく大きな海が広がった。建物に隠れていた夕日が、水平線のすぐ上で輝いていて、まるでお盆の上においしそうなお饅頭を乗せたような格好になっている。夏には海水浴場になるこの海は、今はひとりも人はおらず過ぎた今年の夏を惜しみ来るべき来年の夏を待っているかのようだ。

「ひゃあ! 良い眺め~。ねえ、カズコちゃん、寒くない?」

「平気」とカズコが大きな声で返事をした。

「マリちゃん、もし二人乗りで帰ってるなんてことが見つかったら、大学の推薦もらえなくなっちゃうよ」そう言いながらも、カズコもあまり心配してる様子はなかった。

「大丈夫だって。この辺、先生なんて通らないよ。あー、気持ちいい」

 海沿いの道は、アスファルトでなくコンクリートで舗装されている。緩やかな下り坂になっているため、自転車を漕ぐふとももに少し力を入れると瞬時に加速した。

「今日、マリちゃんのクラス、進路相談だったんでしょ?」

「うん、そうだよ。実際にやってみると、あっという間に終わった」

「第一志望、どこにしたの?」

「松山文科の国文。カズコちゃんと同じとこ」

「やっぱり、そうするの?」

「うん。だって、離れ離れになるのイヤじゃん」とマリが屈託なく答えた。

「先生に何か言われなかった?」

「特に何も。家から近いとこに行きたいんですって言ったら、それぞれ事情があるから口出ししないけど、もう一度親と相談しろだって」

「そう」カズコは風になびくツインテールを右手で押さえた。

「カズコちゃんは?」

「え?」

「進路指導のとき、中村先生に志望の動機とか聞かれたの?」

「うん。そのまんま、答えたよ」

 マリももちろん、カズコが松山文科大学の国文学科を志望している理由を知っている。佐伯なんとかという文学部の歳をとった教授の著書が好きだからだ。その教授は、神話とフォークロアとの関連性を研究していて、日本のおとぎ話の系譜についての大家だった。

「ウチの担任、何て言ってた?」

「ちゃんと目的意識があってえらいわねえ、って誉めてくれたよ。最近の子は、文系だから文学部、理系だから工学部なんて、まるでエスカレーター式のように目的もなく上がる人が多いのに、なんてグチみたいなことを言ってた」

「はははっ、それって私も含まれるのかな。よーし」

 マリはサドルから腰を上げて、立ち漕ぎを始めた。自転車はさらにスピードが出る。

「マリちゃん、スカートめくれてるよ」カズコは髪から手を離して風に煽られるマリのスカートを手で押さえる。

「誰も見てないって。……そういや、スカートのことも担任に言われたなあ。もとの長さに戻して来なさいって。あっさりバレちゃった」

「だから言ったじゃない。これじゃちょっと短すぎだて。また今度、直してあげるよ」

「ごめんね。せっかく短くしてくれたのに」

 マリのスカートのスソ上げをしたのは、カズコだった。カズコはこういうことになるだろうと予想して、マリのスカートをスソを切らずに上げたのだった。作業自体は、難しいものでもない。針と糸とアイロンさえあれば5分もかからず完了する。

「それとね、中村先生にちょっとおもしろいこと聞いちゃった」

「おもしろいこと? なあに?」

 マリは思いっきりペダルを踏んで、「マルチバース」と言った。

「マルチバース?」

「並行世界のことを、難しい言葉でそう言うんだって。たぶん、私たちの不思議な能力に関係することだと思う」

「そうなの? 何かわかった?」

「えとね、理科の授業で習った電子っていうの、あるじゃない?」

「電子って、水素とかヘリウムとかの、原子核の周りをまわってるやつでしょ」

「そう。それがね、素粒子って言うんだけど、たとえば電子がふたつの穴を通るじゃない?」

 マリが自転車のスピードを少し落としたので、カズコは押さえていたマリのスカートから手を放した。

「うーん……電子に穴があるの?」

「いや、そうじゃなくて、まあ、後でゆっくり説明するけど、かいつまんで言うと、ようするに宇宙ってたくさんあるんだって」

「宇宙?」マリのまったく要領を得ない説明にカズコは首をかしげる。

「そう……。わっ!」突然、マリが悲鳴を上げた。

 コンクリート舗装の道が、アスファルト舗装に変わるところで、自転車がバランスを崩して左右によろめく。アスファルトの上に落ちていた、黒い炭酸飲料の空き缶を自転車の前のタイヤが踏んでしまったのだった。

 自転車が前のめりになって、後輪が跳ねた。

「きゃ!」下から持ち上げられたように、荷台に乗っていたカズコの身体が浮く。

 カズコは何とか両足で着地した。自転車は慣性に任せて、横向きに滑って行った。前カゴに入れていたマリとカズコのカバンが飛び出した。

 マリの身体が投げ出されて、宙に浮いた。まるでスローモーションのように景色が流れていく。

「これは転んじゃうな、でもたぶんちょっと怪我するくらいで、大したことにはならないだろう。カズコちゃん、大丈夫かな」宙を舞いながら、マリは間延びした意識でそんなことを考えていた。

 反射的に右手が動いて、腕時計の下のボタンを押す。マリの身体中に電流が走ったような衝撃が、左腕から頭のてっぺん、足のつま先まで広がっていく。一瞬、意識を失って、気付けば左ひざから地面に落ちていた。

 横倒しになった自転車の後輪が空回りをしている。

「マリちゃん、大丈夫?」カズコが駆け寄って来てマリに言った。

「あいたた……。大丈夫、なんとかギリギリ、”飛んだ”から」

「そうじゃなくて、今のマリちゃんのことよ。ケガしてない? ちょっと見せて」

 マリは地べたに膝を立てて座り直した。膝を擦りむいて血が出ている。道路の砂が、傷口の周りに付着していた。

「私のことはいいよ。それより、カズコちゃんは? どこもケガしてない?」

「私、横向きに乗ってたから、うまく着地できたみたい。それより、脚のケガ見せて」

「これくらい、平気平気。部活やってたころなら、こんなの日常茶飯事よ」マリは特に強がっているわけでなく、本音でそう言った。実際、現役のころは膝やらひじやらを、体育館の床でこすってヤケドのような擦り傷をしない日のほうが少なかった。

 カズコが制服のポケットからティッシュを取り出して、マリの傷口まわりの砂を払いのけるように慎重に拭った。

「ありがとう。ゴメン、転んじゃって。何か、道路に黒いモノが落ちてて、気づかずにそれを踏んでバランス崩したみたい」

「いいのよ、気にしないで」

 マリは立ち上がって、とりあえず自転車を起こした。そしてふたつのカバンを拾う。そしてカズコの脚や腕などを軽く見回した。傷などはついておらず、本当にケガはしなかったらしい。マリは少し安心した。

「何か、壊れたものとかないかな」とマリが言った。

 カズコはカバンを手に取って、簡単に中身をのぞいてみたが、

「教科書がクッションになって、編み棒も折れずにすんだみたい。マリちゃんのカバンは?」

「あ、私のカバン、最初から何も入ってないから」

「もう、また教科書ぜんぶ学校に置いてきちゃったのね。大学受験するのに、高校三年の秋に置き勉してるなんて、きっと日本中でマリちゃんくらいね」と抗議するように言った。

「ははは……。まあ、ねえ」

 苦笑しながら、マリは再び自転車のハンドルに手を掛けた。波打ち際が近く、ザザーッという音が一定のリズムで聞こえてくる。

「今度はちゃんと、安全運転で行くから」そう言って、サドルにまたがった。

「うん。で、マリちゃん、いつに”飛んだ”の?」

 遠くに小さく救急車のサイレンが響く音が聞こえた。それに呼応して、どこかで犬が吠えていた。

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