PM17:47
マリは学校の裏門で、コンクリートの塀にもたれていた。学校の敷地内から、野球部の喚声が聞こえてくる。三年生や帰宅部の連中やすでにほとんど帰宅しているし、運動部はまだ練習を続けている時間で、裏門を通って帰宅する生徒はまばらだった。
夕焼けがまばらに点在している雲の下半分を赤く照らしている。
「西松山学園前」の停留所には、下校時間に当たる午後四時五十分と午後五時十八分にバスが来るのだが、これを逃してしまうと次は六時四十分と、一時間以上も待たなければならなくなる。そうすると、家に辿り着くのは七時を超えてしまう。
マリは時計を見た。そして、ベゼルの右に付いてあるボタンのうちの、上のほうを押した。ピッという電子音が小さく鳴った。デジタル液晶の秒の部分は動きを止めて、「17:48 05」の表示を維持し続けて、時間が進まなくなった。
「これで、よし。いちおう、念のために」とマリは独り言を言った。
自転車のホイールが回転する音が聞こえてきた。マリはあわてて、腕時計に当てていた手を離した。
「マリちゃん。おまたせ」カズコが裏門から出てきた。
「あ、カズコちゃん、早かったね」
「うん。瀬戸さんが、今日は少し早めに切り上げましょうって言ってくれて」
「悪いねえ、気を使わせちゃって。瀬戸さんにも謝っといて」マリは右手を顔の前に持っていき、拝むようなポーズをした。
「うん」
マリはカズコの自転車の前カゴにカバンを横向きに入れた。カゴにはマリとカズコのふたつのカバンが入っているが、マリのカバンはほぼ中身が入ってないらしく、極めて薄い。一方、カズコのほうは、教科書や参考書に加えて手芸の本と編み棒が入っているので、パンパンに膨らんでいる。
「私が自転車押してくよ」
マリは自転車のハンドルをカズコから受け取り、自転車を押して歩き始めた。カズコはマリの横に並んで歩く。
学校の裏門のすぐ前には、ブランコとベンチと低い鉄棒だけが設置されている小さな公園がある。その横を通り抜けると、両サイドに古い一戸建てが並んでいる狭い道が通っている。
「今も、バレー部のほうに顔を出してるの?」カズコが言った。
「うん、ちょいちょいね。なるべく控えるようにはしてるんだけど、なんか気になって。今になって思うと、毎日あんな厳しい練習に耐えられてたなって我ながら不思議だわ」
「ふふっ」とカズコは思い出し笑いをした。
「どうしたの?」
「あのね、さっき瀬戸さんから聞いたんだけど、マリちゃん、二年生の男の子から、人気あるみたいよ。才色兼備、文武両道の美人だって」なぜか少し照れた様子を見せながらカズコが言った。
「ふうん」
「ふうんって、それだけ?」
「あんまり、興味ないやあ」
「まあ、そうよねえ」
「私なんかより、瀬戸さんのほうが人気あるんじゃない? 私みたいな男勝りより、男子はああいうかわいい系の娘が好きでしょ」
細い道を抜けると、アーケードのない商店街の手前の道に出る。商店街は、一階部分が店舗になっていて、二階三階が店舗所有者の居住部分になっている造りのものが多い。そのほとんどが、昭和三十年代の終わりに建てられたもので、多くがすでに老朽化してる。商店街のいちばん手前には、小さなガラス窓を横に開いて品物を注文をする小さなタバコ屋がある。タバコ屋には、店の前に黄色い色の公衆電話が置いてあって、公衆電話の上にはタバコ屋の人が置いたらしい、数字が書いた四角いサイコロ状の木を動かすタイプのカレンダーがあった。
カレンダーは「94年10月18日」になっている。このカレンダーは時々、日付を変更するのを忘れられているらしく、気が付けば二日前を表示していたということもしばしばだった。
タバコ屋の横には個人経営の小さなおもちゃ屋で、ショーウィンドーにはフラワーロックという、音に反応してクネクネと動く花の形をしたおもちゃが飾られてあった。もう何年も前からそのフラワーロックは置きっぱなしになっていて、誰の目にも売れ残りだということが明らかだった。
商店街は少し前までの好景気がウソだったかのように、シャッターを閉めた店がぽつぽつと生じ始めていた。しかし、商店街に元気がなくなったのは、不況というひとつだけの理由ではない。隣の市からこの市の中心部まで通る国道が開通し、そっちに車も人の流れも取られてしまったのだ。
「今日、何か買い物ある?」とマリがカズコに聞いた。
「ううん、だいじょうぶ」
「そう? マリちゃんは? 今日、家にお母さんいないんでしょ?」
「あ、そうだった。……ご飯は昨日の夜炊いたのが残ってるし、オカズもまあ、冷蔵庫のなかに何かあるでしょー」
夕方の弱々しい潮風のにおいが、夕日の方向から香ってくる。マリが自転車を押して道路を横切ろうとしたら、
「あぶない!」とカズコが叫んだ。
道路に出ようとしたマリの目の前を、ものすごい速さの中型トラックが通り過ぎて行った。間一髪と言ったところか。マリの前髪が揺れる。カズコがとっさに声を掛けてないと、ひょっとしたら接触していたかもしれない。
「うわっ! 危ッ!」一瞬で心拍数が上がった。
「マリちゃん、大丈夫?」
「うん。あー、びっくりした。ありがとね」マリは胸に手を当てて、大きく呼吸をした。そしてトラックが過ぎて行った方向を睨むように見た。「いくらなんでも、今のトラック、スピード出しすぎじゃない? そりゃ、ちゃんと横見てなかった私も悪いけどさあ……」
「国道ができてから、あんな車が増えたよね。ここ、海沿いの工業地帯から国道に出るまでの近道になってるんだって」
「へえ」
マリはカズコの自転車にまたがり、サドルに腰を下ろしてペダルに足を掛けた。
「それじゃ、そろそろ行こっか?」
「大丈夫? まわり、先生いない?」
「ここまで来れば大丈夫だって、このへんは登下校の道からは離れてるからね」
カズコは自転車の荷台に、横向きに座った。
「それじゃ、行くよ!」マリはアスファルトを蹴って、自転車を発進させた。
「あれ? 今のは逢沢と、二組の島田さん?」たまたまそこに居合わせたマサシが、自転車で去っていくふたりの姿を見つけてつぶやいた。
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