AM10:19
二限目。渡辺という苗字の男子の面談が終わり、次はマリの番になった。マリはホームルームで配られたプリントを持って、物理準備室の扉の前に立った。そしてなるべくスカートが長く見えるように、ウエストを骨盤ギリギリのところまで下げて少しすそを引っ張った。しかし、すそはせいぜい2センチくらい下に伸びたくらいで、校則に照らせば焼石に水程度のものでしかない。
おそらく、注意されるに違いない。
マリは半分は祈るような気持ち、もう半分は諦めの心境で、物理準備室のドアノブに手を当てた。
「失礼します」
なかは、中村先生が木製のデスクの前に座って、そのすぐ前にクラスに置いてあるのと同じ椅子がある。デスクの上には大きなパソコンのモニターがあった。モニターには「NEC」というロゴが書いてあり、ハードディスクが激しく回転している音が聞こえた。いつどのように使うのかはわからないが、中村先生の背後には小型の火星儀があった。
「いらっしゃい。お座りください」と中村先生はいつになく丁寧な言葉を使った。
マリは言われるがままに椅子に座った。マリと中村先生との距離は、50センチよりは長いだろうが、1メートルよりは確実に短い。
近くで見る中村先生の顔は化粧気がなくて、年齢よりも老けて見えた。おでこと頭の境界線には、ポニーテールにまとめきれなかった短い前髪の毛が、釣り針のような形で何本か飛び出している。
自意識を満足させるつもりのみじんもないその姿は、カタブツという印象をさらに強くした。もし許されるならば、一度でいいから、「今まで先生、恋人いたことありますか?」と聞いてみたい気持ちがあるが、その機会は永遠にやってこないだろう。
「そっか。男子の面談はもう全部終わって、これからは女子なのね。あと半分か。どう、クラスは静かに自習してるかしら?」
「はい。ちゃんと自習してる人がほとんどで、なかには寝てる人も若干いるみたいですけど」
まさか寝ている人の代表がその自分だとはさすがに言えない。
「この時期、教室のなかは中途半端に暖かくなって、眠たくなるのよね。みんな家で遅くまで受験勉強してるんでしょう。大きないびきかいたりしない限り、眠たければ寝かせてあげなさい」中村先生は微笑しながら言った。
いつもの生徒の前で見せる厳しい表情とは間逆だった。
マリは中村先生に記入したプリントを手渡した。中村先生はそれを見て、ずれた眼鏡のフレームを指先で押し上げた後、パソコンに向かってキーボードを叩いた。モニターに松山文科大学の偏差値、受験に出題される教科、受験日などが表示される。マウスをクリックすると、すぐ近くにあったプリンタから印刷された紙が排出された。
「松山文科ねえ。あなたの成績だったらきっと余裕だろうけど、もう少し難しいとこ狙ってみようって気はないの。国立大学も受けるだけ受けてみたら? 国立は授業料が安いから、親孝行にもなるわよ」
マリがあらかじめ、そんなことを言われるだろうと想像していた。マリは椅子に座りなおした。
「第二志望も第三志望も同じ大学で、学科にこだわらないなんて言ったら、やる気がない、真剣に進路を考えてないって思われても、仕方ないわよ」先生は多少、批難するような様子が口吻にあった。
事実、マリは真剣に進路を考えていない。進学して勉強したいことがあるわけでもないし、なぜ進学するのかと問われれば答えに窮する。
「えっと、お母さんができれば家から通えるところにしなさいって言うから」とマリは言ったが、これはウソだった。母親はそんなことは一度も言ったことはない。
しかし中村先生は気付かずに、
「そう。できればもう一度、ご両親と進路についてきちんと相談しておきなさい。……って、あなたのお父様、たしか外国に単身赴任してるのよね?」
「ええ、そうです。毎年、クリスマスシーズンには帰国するんですけど、お正月前にはあっちに戻ってしまうから」
「そっか。なら、膝を突き合わせて相談するのも一苦労よねえ」
「あの、先生」マリは小さく挙手をした。「できれば、推薦をいただきたいんですけど……」遠慮がちに言った。
「推薦? わざわざ推薦入試なんてするまでもないと思うけど。これはほかの生徒との兼ね合いもあるから、はっきりした返事は今はできないけど、あなたのふだんの成績や部活動での実績も考えれば、ゲットしても不思議じゃないわよね」
「お願いします」とマリは椅子に座ったまま頭を下げた。
「どうして、国文科なの?」唐突に中村先生が尋ねた。「進路は最終的には自分が決めて、自分で責任を負うものだから何とも言えないけど、あなたは理系科目もバッチリなのに国文科って、ちょっとめずらしいわよ。経済学部とかなら、ともかく」
「ごめんなさい。私、勉強に興味持てないんです」
中村先生はそれを聞いて、しばらく呆気に取られていたが、
「そこまではっきり言われると、気分いいわね。それなら進学せずに就職って言う手もあっただろうけど、十月も半ばを過ぎてから就職活動するわけにもいかないし、仕方ないか」と言った。そして、「長く教師をしてると……と言っても私もまだ十年もやってないヒヨッコだけど、たまにあなたのような子が現れるのよ。勉強が好きな子ってのは、勉強が中途半端にできる子なのよね。たぶん私も学生時代は、そんなだった。勉強できない子が勉強嫌いなのは当然として、できすぎる子は学校で習うことがあまりにも当たり前過ぎて、白けちゃうのよねえ。一度でいいから、そういう台詞言ってみたいわ。うらやましい」
はにかむように苦笑する中村先生の顔は、さっきまでと印象が百八十度変わって、まるで少女のようだった。先生は後頭部のポニーテールの結び目を、位置を直すように軽く触った。
マリがまったく勉強をしないのに良い成績を取れるのは、あるカラクリがあるのだがそれをまさかバラしてしまう訳にはいかない。マリのほかにそれを知ってるのはカズコだけだった。第一志望の松山文科大学は、マリの自力からすれば、どんなに努力をしても決して合格できない手の届かない存在だった。だからなんとしても推薦入試を獲得しなければならない。そのために、学年トップを維持してしてきた。
「推薦の件は、ほかのクラスの担任の先生と相談しておきます。たぶん、次の面談のときには回答できると思うけど、まあ安心して待ってなさい。ほかに、何か質問あるかしら?」
マリは腕時計を見た。ずいぶん長く先生としゃべっていたような気がするが、実際には時間は三分も過ぎていなかった。これを良い機会に、マリは前の授業で疑問に思ったことを質問してみることにした。
「あの、面談のことじゃなくて、この前の物理の授業で先生が言ってたことについてなんですけど、いいですか?」
「え、いいわよ? 何かしら」もうマリとの面談を終了する気でいた中村先生は、不意を突かれて両肩を一度持ち上げるように上にあげた。
「えっと、この前先生が、授業の途中の雑談に言ってた、量子力学っていうやつのことです」
「ああ、あれね」
それは一週間前の物理の授業で、授業開始から三十分くらい過ぎて生徒に疲れがたまってきたころに、中村先生が雑談として物理学のおもしろい雑談として話した内容だった。
「私もね、まるでわかったかのように授業をやってるけど、物理学ってまだまだ未知の部分が多くて、確定したことなんて何もないのよ。たとえば……、重力っていうのがどんな強さか、それはみんな一年のときに重力方程式で習ったから知ってるだろうけど、では、なぜ物と物の間に重力という相互作用が働くのか、仮説はいくつかあるけれどまだ実験で観測できてないのよ。もしできれば、間違いなくノーベル賞ね」そんな話から始まって、物質の最小単位である素粒子の二重性、位置の不確定性、などを極めてわかりやすい形で数式を使わずに説明した。
中村先生は黒板の端のほうに、二重スリットの絵を描いて、そこに電子を飛ばしたときにどうなるかということを波の形で示した。
「もちろん、こんなことは受験では出題されることはないけど」と断った上で、さらにその素粒子のつかみどころのない振る舞いの話を続けた。「この電子は、こっちの壁のところに来るまで、果たしてどっちのスリットを通ってきたのか。実はね、こんな簡単なことも我々はわからないのよ。いつかわかるようになるのかもしれないけど、今のところは、『両方とも同時に通ってる』あるいは、『右のスリットを通る確率が五十パーセント、左のスリットを通る確率が五十パーセント』ということで、お茶を濁してるの」
マリはいつもは授業など一切真面目に聞かないのだが、先生のこの雑談には強い興味を示した。ほとんど書き込みのないノートに、先生の話をメモを取った。
「要するに、ここに素粒子がひとつあるとするでしょう。この素粒子が右に行くのか左に行くのかは誰にもわからない。でも、1950年代にこの問題を解決するために変なことを言う人が現れたの。エヴェレットっていうアメリカ人なんだけど。簡単に説明すると、素粒子は右にも左にも行く。両方に行くってこと。そして、それぞれに世界が分岐する。つまり、この素粒子が右に行った世界と左に行った世界のふたつに分裂するっていうことなの。そして、そのふたつの世界は並行して別々の空間として存在する……。たとえば右に行った素粒子がまた右と左に分裂して、同じように並行宇宙ができる。こうして、世界はどんどんたくさん分裂していくっていうの。もちろん、にわかには信じられないだろうけど、そう考えれば、奇妙な素粒子の振る舞いも納得ができるっていうのがエヴェレットさんの主張ね」
マリはそれを聞きながら、頭のなかで暗算した。まず、世界がふたつに分裂し、そしてそのふたつがそれぞれまたふたつに分裂したら、世界は2×2で4つ存在することになる。そしてまた分裂したら、2の3乗で世界は8つになる。そしてそれがまた分裂したら……。エヴェレットさんの主張をそのまま受け入れるとするなら、無数としか言いようのない並行世界が存在することになる。
「で、この世のすべては素粒子から構成されてる。電子も原子核も、人間も素粒子からできているから、ひょっとしたら並行宇宙にはそれぞれ別の私たちが存在して、この宇宙と同じようなもの、でも少しだけ違ったものがたくさん存在してるかもしれないって結論になったのよ」
マリにとってはこの概念は、極めてエキサイティングなものだったが、ほかの生徒は「受験には出ない」と言われて関心を失っている者がほとんどだった。
「あの並行世界っていうやつを、もうちょっと詳しく教えてください」マリは物理準備室で目の前に座っている中村先生に言った。
中村先生は面食らったように、少し上半身をのけ反らせた。
「詳しく教えてくださいって言っても……」先生は戸惑っているようだった。「あれは雑談として話しただけで、そんなに真剣に聞かれるとは思ってなかったわ。まず結論から言うと、『教えられない』っていうのが本音です。それは、先生がエヴェレット解釈をきちんと理解してないっていうのもあるけど、エヴェレット解釈は実験のしようもないから学会ではトンデモみたいな扱いされてるのよ」
「そうですか……」マリは露骨にがっかりした。
「でも」そんなマリを励ますように先生が言葉を継ぐ。「少ないながらも、エヴェレット解釈の研究をしてる人も、よその国にはいるみたいね。マルチバース、なんて言葉がその分野の合言葉になってるみたい」
「マルチバース?」
「そう。宇宙は英語でユニバースでしょ? ユニバースの『ユニ』は、たとえばユニークとかユニファイとかがその代表だけど、『ただひとつのモノ』っていう意味なのよ。宇宙はこの世にただひとつだから、ユニバース。でも、エヴェレット解釈が正しいとするなら、宇宙はひとつじゃなくなる、ユニバースではなくなるってことになる。だから、それを象徴するような言葉として、たくさんって意味の接頭語をつけて、宇宙のことをマルチバースって呼んでるのよ」
「マルチバース」とマリはもう一度繰り返した。
「たとえば、で言うと……」
中村先生は机の引き出しから、どこか外国のものらしい硬貨を一枚取り出した。それてそれを右手の親指で弾いて上にあげた。重力にまかせて落ちてくるコインを、さっと両手で取り、左右両方の手を握ったまま、マリのほうに向ける。
「どっちに入ってると思う?」
「うーん……こっち?」マリは先生の一方の手を指さした。
「正解」と言って中村先生は右手を開く。ヒゲをはやした男の肖像が彫られたコインだった。
「あなた、今さっき、右にするか左にするか、迷ったでしょ?」
「はい」
「迷った結果、右を選んだ。でも、ひょっとしたら、左を選んだかもしれない。その可能性はあったわね」
「はい」
「で、実は左を選らんだあなたも、今この空間と並行して同時に存在してるのよ。別の宇宙に」
「うーん……。ということは、私がふたり居るってことになるのかな?」
「そう。そういうことね。正確に言えば、ふたりだけじゃなくて、とてもたくさん。無限のあなたがどこかに居るってことよ」
マリは納得したようにうなずいた。
「ね、雲をつかむような話でしょ」中村先生はく、笑いながら言った。「でも、ひょっとしたら、研究が進んで何十年後かには、マルチバースを当たり前のことのように受け入れてるかもしれないわね。人類はつい最近まで、太陽のまわりを地球が回ってるってことも知らなかったんだから。もしそういう研究したいなら、物理学科に行けば? あなたなら楽勝でしょ。松山文科大学は理学部物理学科って、あったかしらね」
「いえ……」
マリはまた腕時計をちらりと見た。液晶は午前十時二十五分を示していた。一人当たり5分が目安の面談時間は過ぎた。マリは先生に礼を言って帰ろうと椅子から腰を浮かそうとした。
「あれ、その時計」マリの視線に気付いた中村先生が言った。「同じ時計をしてた生徒がいたような。たしか、2組の島田カズコさん。昨日、面談したばっかりだったから覚えてるわ」
ドキリと心臓が鼓動を打った。
「あ、えっと……」口ごもってしまうのは仕方ない。「カズコちゃんは……島田さんは、私の友達なんです。家が近くだし。この時計はだいぶ前に一緒にリサイクルショップで買ったんです」
「へえ、そうなの。彼女も背が高い、スタイル抜群の成績優秀美少女よねえ。性格はあなたとは正反対みたいだけど。ふたりが仲良いなんて、意外だわ。女どうしでオソロの時計なんて、ずいぶん仲良いのね。そういや島田さんも、国文科志望だったわよね」
オソロという古めかしい言葉が、焦ったマリの気持ちを少し和らげてくれる。
「小学校のころからの、友達なんです。ふたりとも一人っ子だから、いつも一緒に遊んでて」マリは立ち上がった。
「はい、じゃ面談はここまでね。ほら、これ持って行きなさい」中村先生はさっき印刷した松山文科大学の情報が書いてる紙をマリに手渡した。「友達、大事にするのよ。人生いろいろあるから、ずっとは一緒にいられないかもしれないけど、離れ離れになっても、思い出を大事にしていけるように」
「はい、ありがとうございました」とマリはきちんと礼をして振り返った。
「逢沢」マリの背中に先生が声を掛ける。
「はい」
「テスト終わるまでに、スカートの丈もとに戻しときなさい」先生は、いつもの厳しいときの口調に戻っていた。
「失礼します」逃げるように物理準備室を出た。
ドアを閉めると、マリは大きくため息を吐き出した。
「人並み外れた観察眼を持ってるとは思ってたけど、ここまでだとは思わなかったわ。さすが、あの若さで学年主任までなってるだけのこと、あるわ」小さく独り言を言う。
並行宇宙、マルチバース。先生はそれを学会ではトンデモ扱いされてると言っていたけれど、マリにはそれがきっと存在すると確信していた。何よりも、この自分自身がその証拠だ。ぜんぜん勉強せずに頭も良くない私が、ずっと学年トップを維持できているのも、この世界がマルチバースだからだ。どこか別の宇宙に、成績が悪いまんまの私や、たまたま失敗して一度だけ成績がガクンと落ちた私が、きっと居る。
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