AM8:30
チャイムが教室のスピーカーから響くと同時に、担任教師である中村先生が教室に入ってきた。そして、
「はい、みんな席に座って。勉強するなとは言わないけど、勉強しながらでいいからちゃんと聞きなさい」と教壇で出席簿を開きながら言った。中村先生は教室を一通り見回す。「欠席してる人、いないわね」
朝のホームルームの時間なのに、生徒のうちの幾人かは机の上に分厚い教科書を広げている。受験生である三年生は、起きている時間はすべて勉強するというフル稼働モードに入っている生徒が少なからずいた。授業と授業のあいだの休憩時間やお昼にお弁当を食べながらも勉強する者は、当然のようにどこのクラスにも散見された。「学校に行くための通学時間がもったいない」という理由で、出席日数が足りていることを良いことに、学校を欠席して家で勉強するという、本末転倒の猛者も居るくらいだった。
マリと同じクラスで成績が常に学年三位の司馬マサシは、一秒を惜しんで勉強している。つい最近まで、マサシは野球部に所属していて、県大会でベスト8まで行った。甲子園は叶わなかったが、俊足の一番打者、学業のほうは成績優秀という、絵に描いたような文武両道だった。野球部現役のころは丸刈りにしていた髪の毛が、最近少しずつ伸び始めていて、パイナップルのような型になっている。
文武両道といった意味では、マリとマサシは似たようなタイプかもしれないが、マリはまったく勉強をしない。それでも成績は常にトップだった。ときどき、「逢沢と司馬が付き合い出したら、きっとお似合いだ」などと冷やかされることはあったが、まったくそういう対象には見ていない。ちなみに、成績学年二位はカズコだ。
「みんな知ってると思うけど、来週から中間テストが始まります。どの教科の先生も、受験を意識して試験問題を作るようだから、本番だと思って気合いれて勉強するように」中村先生の、その性格を表すような野太い声が教室に響いた。「気を抜くにも、諦めるにもまだ早すぎるわよ。これからが勝負だと思って、しっかりがんばりなさい」
「はーい」と誰かがおちゃらけた返事をした。小さく失笑が聞こえる。
「それと前々から言ってたけど、今日は一時間目から三時間目まで、ひとりひとりと進路相談の面談をします。面談の担当は私、中村がやりますから、出席番号順に物理準備室に来てください。面談を待っている間は前に伝達したとおり自習時間になってますから、大きな声を出してほかの人に迷惑を掛けるようなことは、ぜったいにないように」
マリはあくびをした。昨日、母が不在なのを良いことに夜中までテレビを見ていて睡眠時間がいつもより少なかった。朝、カズコが電話で起こしてくれなかったら、本当に遅刻していたかもしれない。窓から校庭をのぞいてみると、朝の光で真っ白く輝いたグラウンドに、急いで教室に駆け込んでいる下級生らしい男子生徒の姿が見えた。
「物理準備室に来るときは、今から配る紙に記入して、持ってくるように。少しでも面談を効率よく終わらせなきゃいけないから、きちんと全部埋めて来てね。何せ、三時間で四十二人ぶんやらなきゃいけないから、一人当たり四分くらいしか時間取れないのよ」
マリは自分の面談がいつくらいにやってくるだろうかと大まかに計ってみた。逢沢という苗字のマリは、女子でいちばん出席番号が早い。クラスは男女同数だから、ちょうど真ん中になる。おそらく二時間目の途中、十時過ぎくらいだろうか。
中村先生が配ったプリントが手もとに回ってきた。第一志望から第三志望までの進路と、学部学科を書くようになっている。そのほかに「推薦希望 あり・なし」とあり、どちらかにマルをつける様式になっている。
クラスのなかでは、それにどのように書くかを近くの席の人と相談し合う囁き声が聞こえた。
マリはカバンの中からペンケースを取り出して、シャーペンを手に持った。そして、そのプリントに、「第一志望 松山文科大学 文学部国文学科 第二志望 松山文科大学なら学部学科はどこでもいいです」とだけ書き、推薦希望には「あり」にマルを付けた。松山文科大学は市内の私立大学で偏差値は決して低くないが、学年トップの成績ならまちがいなく合格するといったところだ。
ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。
「それじゃ、出席番号一番の阿部から、順番に来てね。うるさくしたらダメよ」中村先生はそう言って教室から出て行った。
やはり眠気は取れそうにない。自習のあいだ、ずっと寝てよう。そう思って机にうつぶせになると、
「逢沢」不意に声を掛けられた。顔を上げると、いつのまにかマリの席の近くにやってきていた司馬マサシがいた。
「どうしたの?」
「いや、あの、もしイヤじゃなかったら、逢沢の第一志望を教えて欲しいなと思って」スポーツマンらしからぬ、控え目な口調だった。マサシの顔は、夏の日焼けが黒々と残っていた。
「なんでよ。まあ、見たければどうぞ」眠りを妨げられたマリは不機嫌そうにプリントをマサシに手渡した。
マサシはそれを凝視する。眉間にしわを寄せて、プリントから離した視線を今度はマリに向けてきた。
「余計なお世話かもしれないけど、逢沢ならもっと難しい大学を目指せるんじゃないのか。ずっとぶっちぎりの学年一位なんだから。それに逢沢なら、普通に受験しても合格できるだろ。推薦は、ほかの合格ラインギリギリの人に譲ってあげても……」
「本当に、余計なお世話ねえ」マリはため息まじりに言った。「家から通える大学に行きたいのよ。一人暮らしするのめんどくさいし、理由はそれだけ。悪い?」
マサシにライバル視されていることをマリは自覚していたが、マリのほうでは相手にしなかった。迷惑ですらある。努力家で文武両道のモテ男がいくら努力したところで、マリにかなうはずはない。
「私より良い大学に行って勝った気になれるなら、好きにすれば?」喉元までそんな言葉が出そうになったが、飲み込んだ。こんなつまらないことで、わざわざ角を立てることはないだろう。
「いや、ごめん。ありがとう」そう言ってマサシは自分の席に戻っていった。
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