第一章

1994/10/18 side”A” AM8:18

 西暦1994年、秋。

 西松山学園前停留所でバスは止まった。

「よっ!」そんな声を出しながらマリはバスから降りた。西松山学園は、海岸線から百メートルほどしか離れていない場所にあるため、校門近くでは風に乗った潮の香りがする。まだ十月だというのに、朝や夜はけっこう寒い。つい最近までは暑さにぼやけていた空が、嘘のようにくっきりと澄み切った青色を呈していた。

 バス通学をする生徒は少なく、毎朝この停留所で降車するのはマリのほかに、下級生らしき男子がひとりと、グレーのスーツを着た中年男性ひとりしかいない。バス通学をする生徒が少ない理由は不明だが、学割が適用される定期券を買うのは手続きが多少めんどくさく、その労をとるくらいなら通学に少々時間を掛けても自転車通学のほうがいいと判断する生徒が多いらしかった。

 マリは、少しでも寝る時間を長くしたいという極めて怠惰な理由からバス通学を選択した。と言っても、定期券を買ったのは高校三年に二学期に入ってからだった。それまでは、バレーボール部の朝練に間に合うように、朝六時に自転車に乗って学校に向かっていた。バレーボール部は練習が極めて厳しいことで有名で、下校もしばしば夜八時を過ぎることがあった。朝練や夜遅くなることを考えれば、マリは部活の現役中はバス通学をやりたくてもできなかった。

 今年の夏に部活を引退してから、また少し脚が太くなったような気がする。もともとダイコン脚気味だったが、今ではもう、ふくらはぎはともかく太腿は白菜のようだ、とは言いすぎだろうか。

 マリは正門から入らずに、裏門のほうに歩を進めた。正門から入って教室に至るまでには、物理準備室の前を通らなければならない。マリの担任であり学年主任でもある中村光子先生は当時としてはめずらしい女性の理科系教師で、朝のホームルームが始まるまでの時間はいつも物理準備室にいる。そして、窓の外に通る自分のクラスの生徒を見つけると、「十分前行動、早くしなさい!」と急かしたり、「あなた、ちょっと来なさい。そのスカート短すぎるんじゃないの?」などと注意をするのだった。

 どういう理由かはわからないが、少し前までは長いスカートのほうがかっこいいという風潮が女子のあいだで満ちていたはずだが、いつのまにかロングスカートはダサく、多少わいせつ感をかもし出すほどの短いスカートがかわいいというふうに変化していた。ルーズソックスという、だるだるの奇抜な靴下が、ロングスカートに代わって不良少女の象徴のようになっていた。

 かように、中村先生は常に生徒の校則違反に目を光らせて、口うるさく指導をするものだから、生徒のあいだで嫌われていたわけではないにしても避けられていた。マリも同じ気持ちだった。縁の分厚い眼鏡を掛けて、伸びた黒髪を無造作にポニーテールにしたその姿は、まさに校則が服を着て歩いているという様相だ。中村先生はたしかすでに三十歳を超えていて、まだ独身だった。男性教師の○○と秘かにデキているなどというまことしやかなウワサが囁かれることはあったにしても、真偽不明のウワサの域を出ることはなかった。

 学校の塀づたいに歩いて、裏門まであと十メートルといったところで、背後から、

「マリちゃん、おはよう」と声を掛けられた。

 振り向くとそこには、自転車に乗った女の子がいた。長い髪の毛をツインテールにして肩の後ろに垂らしている。丸くて分厚いレンズの眼鏡を掛け、いかにも地味な優等生といった装いで、受ける印象はマリと正反対だ。自転車のカゴには学校指定のカバンを入れてあるが、そのカバンの端からは収まりきらない、毛糸の編み物に使う長い編み棒が顔をのぞかせていた。

「や、おはよう。カズコちゃん。今朝、ありがとね。起こしてくれて」とマリが言った。

 カズコは自転車から降りて、マリの横に並んで自転車を押して歩き始めた。横に並ぶと、カズコの背の高さがいっそう引き立つ。今年の夏までバレーボール部のキャプテンだったマリは、165センチの長身だったが、カズコはそれよりも8センチも高い。平均的な男子と同じくらいだ。しかしあまりその身長が自己主張しないのは、控え目な性格が実寸よりも身体を小さく見せているからだろう。

「ううん。でも、どうしたの? 朝、電話で起こしてくれなんて」

 それは昨日、マリがカズコにお願いしたのだった。明日、朝ひとりで起きる自信がないから、七時半に電話を五回だけでいいからコールしてくれと。

「いやあ、昨日からさ、ウチのお母さん、お父さんのとこに行っちゃって、今家にひとりなんだ。だから、起こしてくれる人がいなくて」

「へえ。お父さんって、単身赴任でシンガポールに行ってる?」

「うん、そう。お父さんがちょっと体調悪くして寝込んでるらしくてね、身の回りの世話するためにお母さんもあっちに行っちゃったんだ」

「お父さん、だいじょうぶなの?」

「いやいや、たいしたことないよ。ギックリ腰だって。大げさなんだから。お母さんにも、ほっときなよ、そのうち治るでしょって言ったんだけど、お母さん、何やらうれしそうにテキパキ準備してさっさと飛行機の予約取っちゃった」

 それを聞いてカズコは手を口に当てて、「ふふふ」と小さく笑った。

「それじゃ、マリちゃん今は家でご飯、自分で作ってるの?」

「昨日の夜はお母さんが作ってくれてたのがあったけど、今日から、そうなるなあ。まあ、なんとかなるでしょ。お母さんがそれなりにお金くれたから、いざとなったらコンビニでどうにかなるわよ。……コンビニエンスって、どういう意味だったっけ?」

「便利」とカズコが即答する。

「さすが受験生。自力の優等生はレベルが違うわねえ」

「マリちゃんも受験生でしょ」

 マリは自分の左手首の腕時計をちらりと見た。デジタル時計の液晶は、午前八時二十一分を示している。薄い黄色い樹脂の腕時計だ。

「そういや今日、ウチのクラスが第一次進路指導なんだ。カズコちゃんのクラスは?」

「昨日、終わったよ」

「どんなのだった?」

「どんなのって、志望大学をみっつ挙げて、成績表と大学の偏差値を付き合せて、ここなら合格圏だとかもうちょっと上を狙えるとか、そんな話をするだけ。あと、二次進路指導では面接の練習をするから、きちんと準備しときなさいって言われた」

「面接の練習?」

「うん。中村先生とふたりでやるんだって」

「え、ウソ。進路指導って、ウチの担任がやるの?」

「知らなかった?」

「あちゃ~」と言いながらマリは頭を抱えた。「あのカタブツと、密室でふたりきりなんて、想像するだけでも胃が痛くなりそうだわ。余計な説教されるに決まってるし」

「そんなことないよ。一通り形式的なことやるだけ。それに中村先生ってぜったいに悪い人じゃないよ。たしかに厳しくて融通効かないところあるけど、ちゃんと生徒のこと考えてくれてる、いい人だよ」

「まあ、それには同意するけど、私も嫌いってわけじゃなくて、ただ単に苦手なのよ、あの先生……。このスカートの丈、きっと小言、言われるなあ」マリはスカートのすそをつまんでヒラヒラと動かした。

「マリちゃん、一年生のころから、とりあえず成績ずっといちばんでしょ。何も心配することないって」

「まあね~。うまくごまかせればいいけど」

 しゃべりながら歩いているうちに、ふたりは学校の裏門まで辿り着いた。カズコはハンドルから左手を離して、手の甲の角度を変えた。腕時計の液晶がカズコの視線と垂直を向いた。午前八時二十四分。いつもどおりの時間だった。ホームルーム開始まであと六分。カズコの腕時計も薄黄色いデジタルで、マリのものとまったく同じ形をしていた。

「それじゃ、私自転車置き場に行ってくるから」とカズコが言った。

「うん。またね」マリは手を振って教室に向かった。

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