multi-side Lovers
台上ありん
プロローグ
2015/10/18 side”A” PM13:02
秋の暖かい陽射しがリビングの窓を通して部屋のなかを照らしていた。穏やかに吹き込んでくる風が、白いカーテンを揺らしている。片付けるタイミングを逃した風鈴が、チリンチリンと音を立てた。
もう十月に入ったというのに、窓を閉めると暑いくらいだった。「残暑」という言葉は八月か、せいぜい九月初旬の時候に使われるが、今もなおその残暑が辺りに蔓延しているように感じる。
しかし、秋はすでに、確実にやって来ている。「秋、か」とマリは心のなかでひとりつぶやいた。台所のシンクで昼食の食器を洗い終え、手に付いた水滴を軽く払った。対面型キッチンの向こうでは、娘のマリカがソファーに沈みこむようにして寝っ転がっている。仰向けになった顔の上には、手に持ったスマートフォンの画面が光っていた。日曜日の午後、昼食を終えたマリカは休日をのんびりと楽しんでいるようだ。
「ねえ、マリカ。冷たいコーヒーでも入れてあげようか?」母は娘に声を掛けたが、
「ううん」という生返事が帰ってきた。
「じゃ、ママひとりで飲んじゃうわよ」
最近、マリカはスマホゲームにずっとハマっている。いちおうこれでも高校三年の受験生で、しかも十月と言えば追い込みの時期に入っているはずなのに、ずいぶん余裕を見せている。もしひとつも大学に合格できなければどうしようと母であるマリのほうが心配しているくらいだが、我が身が受験生だったころのことを省みると、強気には出られない。
マリは氷の入ったアイスコーヒーを手に持って、マリカの向かいのソファーに座った。スマホから電子音が響いて来る。マリはストローからアイスコーヒーを少しだけ吸った。
「携帯にあんまりお金使いすぎちゃ、ダメよ」
「わかってるって。今は無課金でやってるから」マリカは右手の爪でスマホのディスプレイをしきりに叩いている。見ていると携帯電話が壊れるのではないかと不安になるくらいだ。
「今日、これからどこか出掛けるんでしょ?」
「うん。トンちゃんとお買い物に」
女の子につけるあだ名としてはずいぶんひどい「トンちゃん」というあだ名だが、これは「トモちゃん」が訛ったものだった。トンちゃんは同じマンションに住むマリカと同い年の女の子。要するに幼なじみということになる。中学で別々の学校に入学してからは少し疎遠になっていたようだが、高校はまた同じになったので、旧交を温めたという形になるのだろう。
「トモちゃんも受験生なのに、あんまり勉強の邪魔しちゃダメよ」
「わかってるよ。……あー、失敗しちゃった!」マリカはスマホのゲームアプリを閉じて、ソファーに座りなおした。
「それに、今日は遊びに行くってわけじゃないもん。ちょっと受験に必要なものがあって、一緒に買いに行こうってことになったのよ。まあ、ついでに洋服とかも見に行くけど」
「ついでのほうが、本当の目的じゃないの? ……で、受験に必要なものって、何?」
「あ~、やっぱり私もコーヒー欲しい。ママだけずるい~」
「さっきいらないって言ったじゃない。ママの飲みかけでいい?」
マリはマリカの前に、アイスコーヒーのグラスを置いた。
「ありがと。ママ大好き。いただきまーす」マリカは音を立ててアイスコーヒーを吸い込む。「えっとね、腕時計を買いに行こうってトンちゃんと話してたのよ」
「腕時計?」
マリカは今どきの子らしく、腕時計は持っていない。物心がついたころから、「ママ、今何時?」と言いながらマリのガラケーのボタンを押して時間を確認することが多かった。高校に入学するときに買ってあげようかと思ったが、「携帯があるから、いらない。持ってる人ほとんどいないし」とあっさり断られた。
ここ数十年で腕時計というツールは十代の女の子にとって、必需品から装飾品、そしてぜいたく品あるいは不用品というふうに遷移していったようだ。
「うん。受験会場によっては、壁掛け時計が設置してなかったりすることがあるんだって。だから試験終了まであと何分あるか自分で確かめておかなきゃいけないから、腕時計を各自用意しときなさいって学校で言われてね。試験中に携帯電話を取り出すわけにもいかないし」
「そりゃ、そうよねえ」
「試験中に付けていい腕時計にもいろいろ細かい決まりみたいなのがあって、通信機能があるのはダメだとか、電子音が出るタイプのものはダメだとか……。で、とりあえずトンちゃんと、いくらくらいするのか見に行ってみようってことになったのよ。駅前の電器屋さんに。ねえ、ママは知ってる? 腕時計っていくらくらいするか」
「最近のはあんまり知らないけど、時計は本当にピンキリよ。安いのだと二千円も出せば、とりあえず機能を果たしてくれるものは買えるだろうけど、高いのだと本当に目玉が飛び出るくらい高いわよ」
「へえ~」
「パパがそういえば、昔欲しがってたのがあったわねえ。なんだっけ、フランク・ミュラーのトールなんとかって種類の時計。宝くじでも当たらない限り手が届きそうにない値段みたいだけど、『定年退職したら退職金で買うんだ。それを楽しみに、辛い仕事も日々がんばれる』なんて言ってたわねえ。まあ、もう飽きちゃったみたいで最近は欲しいって言わなくなったけどね」
「今日、パパはまたゴルフ?」
「うん。朝六時に食パンかじりながら行ったわよ」
「まったく、日曜日に家族サービスもしないひどい父親よねえ」マリカはもう一度スマホを手にとって、「フランク・ミュラー」という単語を検索した。
「でもまあ、運動不足解消になるから、ヨシとしましょ。ゴルフ始める前は、パパのビール腹って、まるで中に赤ちゃんでも入ってるんじゃないかってくらい膨らんでたんだから」
風が部屋のなかに吹き込んできた。風鈴が音を立てる。アイスコーヒーのコップが汗をかき始めていた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん………。ウッソ、何かの冗談じゃないのこれ! いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん……。何よ、コレ。いったい何なの」マリカが素っ頓狂な声を上げてスマホを凝視している。
「どうしたのよ、いきなり」
「ほら、見てよ」マリカがまるで時代劇の印籠のように、スマホの画面をマリに見せた。「そのフランクなんちゃらっていう時計、検索してみたんだけど、なんで三百万円もすんの。何これ。ダイヤモンドでも入ってんの? にしても高すぎ」
「だから言ったでしょ。時計はピンキリだって。ママもよくわからないけど、スイスかどこかの凄腕の職人さんが作ってる時計なんだって」マリの声は、マリカと正反対で落ち着いている。
「はああ~」とマリカはまるで若者らしくないため息を吐いた。「この世には、まだ私の知らない世界があるのねえ。びっくりだわ」
マリカは理由はよくわからないが、その値段にショックを受けているようすだった。再びソファーに身を沈めたマリカを見て、マリは微笑んだ。
「あれ? あそこにあるの、腕時計じゃないの?」マリカはソファーに寝そべったまんま、固定電話機があるほうを指差した。
電話機の横に、無造作に古い型の腕時計が置いてあるのをマリカは見つけた。時計のベルトは布のようなものに巻いてある。ふだんから目にするはずの場所なのに、マリカはこんなものがあるということに、初めて気が付いたようだった。
「あ、そうよ。それ、ママが昔使ってたのと同じタイプのもの」
「へえ」マリカは立ち上がって、その時計を手に取って眺めた。
四角い形をしたデジタル式の時計。ベルトもベゼルも薄い黄色をしていて、柔らかい樹脂製のものだ。ベルトの穴には、ところどころ汚れのようなものが付いている。液晶の右側の上下に操作するボタンがふたつある。電池が切れているせいか、液晶にはデジタルの数字は表示されていない。
「ずいぶん古そうねえ。一周回って、なかなかかっこいいじゃない。いつの頃の?」
「ずっと、昔。ママが子どものころ、かな」
マリカはボタンを押してみたが、無反応だった。試しにふたつのボタンを同時に押してみたが、やはり反応はない。
「壊れてるのよ」マリカの疑問に先回りして答えた。
「やっぱりねえ。電池交換してもダメ?」
「うん。液晶が割れてるでしょ?」
マリカが液晶部分に太陽の光を当てて、軽く左右に動かしてみると、液晶の内側に大きなヒビが斜めに入っているのが確認できた。
「本当だ。ねえ、壊れてるのにどうして大事に持ってるの?」
「人からもらったのよ。私以外の人が見れば、単なる壊れた時計だけど、ママには少しだけ思い出があってね」
マリカはベルトをはずしてみた。ベルトが巻き付けられていた布のようなものは、毛糸の手袋だった。しかも片方だけ。
「はは~ん。わかった。ママ、これ昔の恋人からもらったんでしょ?」
マリカにそう言われて、マリは一瞬だけ気まずそうな顔をした。娘には悟られまいと隠そうとしたが、
「パパには内緒にしといてあげるから、教えてよ」とニヤついた顔でマリカに詰め寄られた。
あんな別れ方をしてしまったあの人を、恋人と呼ぶ資格が私にあるのだろうか。マリはいまだにその問いに答えを出すことができずにいる。両思いで、いつも一緒に遊んで、たまに抱き合って、こっそりキスをして……、そういうふたりを恋人と呼ぶのに、何をためらう必要があるのだろう。
「一般的にいう恋人というのとは、ちょっと違うかなあ」とマリはとぼけた。
「なあに、それ。つまんない~」マリカは抗議するような口調になった。「ねえ、ママが高校生のころは、どんなのだったの?」
「どんなのって言われても、ごく普通だったわよ。たぶん」
マリは娘の姿を眺めた。ショートカットの髪型で、胴回りに比して肩幅がやたら広い。腕が細長いのに太ももやふくらはぎは標準より太くて不恰好。色白の顔に、少しつりあがった目尻が耳の先のほうへ向かって伸びている。目の上には濃い黒眉毛。それらの特徴は明らかに母から受け継いだものに違いないとマリは我ながら思った。マリカの身長は160センチほどだから母であるマリより5センチくらいは低いが、それを除けば昔の自分と瓜二つだ。
「そうねえ。高校生のころのママは、きっと今のマリカちゃんとそっくりねえ。今でもたまに、あなたの姿を見てると、昔の私がタイムリープして目の前に現れたんじゃないかって思うくらいよ」
「本当? ママってこんなにかわいかったの?」とマリカは自分の両の頬に手を当てた。
「自分で言いますか。……まあ、そんな自信過剰なところも、昔の私に似てるっていえば、似てるかもしれないけど」
マリカは手袋に壊れた腕時計を巻いて、もとにあった場所に戻した。
「でもさ、ママだってパパと結婚する前、恋人のひとりやふたりはいたんでしょ? ちょっとくらい教えてよ。本当に、ほんとーに、パパには内緒にしとくから」
「いない。ひとりもいないわよ。母親の恋愛遍歴を知りたがるなんて、悪趣味ねえ。だってそもそも、ママはパパと結婚したの、二十歳のころなのよ。独身のうちに恋愛なんて、する暇なかったわよ」
「ホント? 私にそっくりだったってことは、高校生のころ、何度かコクられたことあるでしょ。かなりモテたんじゃないの?」
「全然、モテなかったかなあ。ママは高校生のころ、バレーボール部のキャプテンとかしてたから、どっちかって言うと男勝りというか粗雑っていうか、とにかくあんまりおしとやかなモテるタイプじゃなかったかな。あのころは、小柄で弱々しくてお嬢様みたいなアイドルが流行ってたころだし」
「そっか。それじゃ、その時計くれた人のこと、教えてよ。プレゼントくれるなんて、かなりいい仲にはなってたんでしょ。どんな人なの?」
マリは話すべきかどうか悩んだ。うまくごまかしてもいい。マリカのひいおじいちゃんが誕生日に買ってくれたのよ、などといいかげんなウソを言っておけば、この場は平和に収まるだろう。でも、誰にも、配偶者であるマリカの父にも言ったことのない、あの不思議な話を、娘には聞いておいてほしいという気持ちもあった。
「聞いても、あまりおもしろくない話よ。それにたぶん、誰も信じてくれない話」
「うんうん。私は信じる」マリカは身を乗り出し、首を縦にぶんぶんと音が出そうなくらいに激しく振って、母の話に興味を示した。
「そうねえ、どういうふうに説明していいのか……。上手に順序立てて話せればいいけど」
そのとき、部屋のなかにピンポーンというインターホンの音が鳴り響いた。
「あ、たぶんトンちゃんが来た」マリカはスマホをポケットに突っ込んで立ち上がった。「ごめんね、ママ。話の続きはまた後ってことで……。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。お金は持ってるの?」マリはマリカの背中に声を掛けた。
「うん、だいじょうぶ。今日はとりあえず見に行ってみようって話だから」
玄関のほうから、「おまたせー」とか「ねえトンちゃん。フランクなんとかって時計知ってる? いくらすると思う? びっくりするわよ~」などという声が聞こえてくる。
「車に気をつけるのよ」と玄関に向かって言うと、「はーい」という返事あって、扉が閉まる音がした。
強い風が窓から部屋へ入って来て、風鈴が激しく揺れた。マリは娘の飲み残したアイスコーヒーを一気に全部飲むと、氷がコップのなかでぶつかるカラカラという音がした。
安堵のため息が口から漏れた。マリは立ち上がって、さっきまでマリカが触っていた腕時計を手に取った。片方だけの手袋を右手にはめて、腕時計を左手首に巻いた。懐かしさが身体の内側から込み上げてきて、全身を巡っていく。
いつの間にか、三十九歳になってしまった。光陰矢のごとしという言葉の意味を、あらためてしっかりと噛み締める。多少若く見られることはあっても、もうすでに立派なおばさんだ。目もとにはしわ、頭には白髪、少し運動すると膝の内側が痛くなって、筋肉痛は二日遅れでやってくる。
高校三年の秋と言えば、マリにとってはもう二十一年も前。あの年は、今年とは正反対で、十月でもすでにかなり寒くなっていた。
生涯忘れることのできない、最も悲しくて、最も幸せだった日々。もう一度あの日に戻りたいと思う。それは永久に叶わない。でもきっとあの人は、どこかで別の世界で今でも幸せに暮らしていると、マリは確信していた。
この自分が今、かように幸せであるように。
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