寵姫はミズクラゲ(6)

 裙を翻し、衣が肌蹴そうな勢いで、さらに、

「待たんかいそもぉッ!」

「気にしないでくださぁい!」

「気にしているわけじゃないってのがわからんのかおんどりゃ!」

 などと声を上げながら疾走していた我々を止めたのは、回廊を撃ち貫くように降りてきた三条の光だった。

 その光、ほどなくして人のかたちとなる。左右に膝をついて控えるのは御側付きの女官、そして、一際輝く中央の御柱は市杵嶋姫命。

 “御光臨”だ。

 厳島の宮に“御光臨”する神々は宗像三女神に限られ、さらに我々市杵嶋姫命付きの女官がその御姿を先触れなく拝見できのは主たる市杵嶋姫命のみ。

 ――にしても、疾走していてその目の前に降りてくるということはまずないだろうが。当然のことだが普通は頭を垂れてお迎えするものである。

 後生大事に持っているくずきりの器を抱くようにしてぽかんと立ち尽くすいそもの首根っこを掴んでぐいっと押し下げ、そして、私も頭を下げた。

「まあこ、いそも、楽しそうであるな」

 御側付きを介されるかと思ったが、それは姫命の御声。

 直接いただいたことに恐縮しつつ、それ以上に回廊を無闇に疾走していたことに関するお咎めを覚悟しながらさらに腰を折ると、軽やかでわずかに艶を含んだ笑い声が回廊に響いた。

「よい。この市杵嶋に用なのであろう」

 やはりそれを御存知で、こちらへ御出でになられたのか。

 そもそも姫命は――いや、八百万の神々は我々のようにかたちに縛られることがない。

 我々は依代となる容がなければ自我を保てず、はては空に融けて失せるしかないが、神々はその名だけでここにあることができるのだ。

 その御名が我々のなかにある限り、実体に依って“御光臨”なさることも、大気と一体になられることも、すべてはその御心のまま――風のように空間に満ちて我々の動向を掌握されるくらい、いとも簡単にやってのけられる。

 特に今、市杵嶋姫命は「みづき」という単語に非常に敏感であらせられる。たぶん、我々がこうして駆け出さなくとも、あれだけ「みづき」「みづき」と言っていたらきっとそのうち私の局に“御光臨”されていただろう。

 できれば局を飛び出す前に御出でいただきたかった、とおそれ多くも思いつつ、いそもの首根っこを掴んだまま無理やり膝をつく。

 緊張感のないいそもは、いやぁん、だの、いたぁい、だの喚いているが、まったくもって聞く段ではない。

 とにかく隣は徹底黙殺して私は謹んで申し上げた。

「姫命、こちらにおりますいそもが姫命にお話をと」

 正直なところ、いそもの口を開かせたくなどないのだが、いそもが何を言うつもりか姫命はすでに御存知。隠し立てするわけにはいかなかった。

「許す。まあこよ、いそもを放してやれ。いそもよ、遠慮なく言うがよい」

「ありがとうございますぅ!」

 解放してやると、いそもは無駄に元気よく言った。いつも通りといったらいつも通りだが、あっけらかんとした口調に何となくいやな予感、と思ったら――

「えっとぉ、命様ってぇ、みづきちゃんのぉ、どこが美味しいと思ってるんですかぁ?」

 ――あの、いそもさん、局飛び出す前と全然違うこと言ってませんか?

 確か、みづき殿はもうミズクラゲではないからかわいがっても美味しいものにはありつけないとかそんなことを言うつもりだったと私は記憶していた気がするのですが。

 案の定、聴いたのと違う気がするが、と姫命がボソッと呟かれるのが聞こえたが、しかし、そこは市杵嶋姫命。私があたふたとフォローの仕方を考えるより早く、さらりとおっしゃった。

「みづきはな、この市杵嶋が手ずから育てたミズクラゲだ。言っておくが食らおうとして育てたわけではないぞ、いそもよ」

 いそもを見事に牽制された市杵嶋姫命。

 朗々と心地よく響く御声でさらに続けられた。

「三十年ほど前だったか海中を漂うミズクラゲの美しさにふと魅せられてな。その際見つけたヌラプラ幼生の一匹に戯れに意識を与えてみた」

 初耳だ――私は顔は伏せたまま瞠目する。

 もちろん、三十年前というと私は人の容を得て女官云々以前に影も形もない頃で知る由もない。しかし、姫命の主だったご動向というのは女官候補の頃にある程度教えられている。

 戯れといえども、一生物に意識を与えるとなると、それは決して些細なことではない。

 もしやこれが市杵嶋姫命が一女官候補に御執心のその理由、か?

 ヌラプラ幼生というのはクラゲの初期形態。受精したミズクラゲの卵は母体のなかでそのヌラプラ幼生へと変化し、今度は岩にくっついてポリプという形態を取る。まるで植物のようなポリプは成長すると分裂し、エフィラという形態を取る。それから海中を漂いながらさらに成長を続けて成体となり、そして、その生活環を繰り返す。しかし、意識を与えてもポリプの段階で分裂して消え失せるだろうし、成体の寿命は平均二年ほどだったか、その間に知恵を付けられるほどクラゲは高度な生物ではないと思うのだが――

「最初は何の期待もしておらんかった。ただ、この市杵嶋の前で舞い踊ってくれた礼、それくらいの気持ちだったのだがな。けれども、ヌラプラ幼生からポリプ、エフィラと経てクラゲとなってもわれが与えた意識は残り、それどころか大きく育って記憶と知恵をも育んだ。やがて母体となったその成体からまた一個のヌラプラ幼生にそのままそっくり意識も記憶も知恵も移り、さらにポリプになってもエフィラになっても分散することなく一個に留まり続け、そして、再び母体からヌラプラ幼生へ。それから三十年余り、そのミズクラゲはとうとう吾を知り、吾の前で舞うことを覚えた。そのあまりの愛らしさにこの市杵嶋、そのクラゲを眷族にすることに決めたのだ」

 ――ああ、なるほど、そういうことだったのか。

 ふわりと海を舞うミズクラゲは確かに美しい。

 姫命はそれを甚くお気に召され、意識を、はては人の容まで御与えに。

 これでみづき殿が姫命の御寵愛篤い理由はわかった。そして、これはどうやら一過性ではないということも。

 みづき殿になり代わりたいという輩はこの話を聴けば歯噛みするだろう。私の記憶では市杵嶋姫命に人の容を与えられる前から愛された者はいなかったはずだ。

 これはなり代わろうと思っても不可能。

 私はさらに深く頭を垂れて申し上げた。

「しかと心得ましてございます」

 ――そう、その他大勢はその他大勢らしく振舞わなければならない。

 幸い私の答えに姫命は御満足くださったらしい。

「まあこよ、よろしく頼むぞ」

 やさしい御声でそうおっしゃったあと、

「して、いそも。この市杵嶋がみづきを側に置く理由、わかったか――いそも?」

 ……ん? 何でそこで急に疑問形に?

 訝しく思いつつこそっと傍らで膝をついているはずのいそもを見、

「い、い、いそもォォォオオオッ!」

 市杵嶋姫命の御前であることを忘れて声を張り上げた。


 いそもの奴、寝ていた。

 こくりこくりと舟漕いで。くずきりの入った器抱いたまま。大して長くない話であったにもかかわらず。

 いや、そもそも寝られるか? この状況。

 まさかとは思うが食べ物の話ではなかったから寝たのではあるまいな、このすっとこどっこいめは。


「このッ! 起きんかいそも!」

「まあこさぁん……もうたべられません……」

「何をだぁぁぁあああッ!」

 ――はてしなくどうしようもない失態。

 女官になってから、いや、人の容を得てから初めてだ。というか、こんな日が来るとは思わなかった。主の前で絶叫など。

 さらにおあずかりしている女官候補が主の前で眠りこけるなどというこれまた前代未聞の失態もあったから、文字通り首が飛ぶことを覚悟したが、しかしながらどうしてか姫命からのお咎めはなかった。

 あとで人伝に聞いたところ、市杵嶋姫命はたっぷりお笑いになっていたそうだ。


 そして、それからしばらくして、どうしてかみづき殿がちょくちょく私の局に御出でになるようになったが、その理由は考えないようにしている。

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