寵姫はミズクラゲ(1)

 市杵嶋姫命の寵愛を一身に受ける女官候補みづき殿が、他の同期の候補に先んじて『玉』を手に入れたらしい――そんな話を耳にした次の日の朝、私はそれが噂でも何でもなかったことを確認した。

「報告書が上がってきていますね……」

 思わずもらした誰に向けたでもない主語の抜けた呟きに、隣で姫命への提出書簡をまとめていた同僚のよしこ殿が、そうみたいね、と息をついた。

「ただ、その報告書の御手はどう見たってちょう殿のだけど」

 確かに、と私は手のなかの書簡に視線を落として頷く。


 ――生きとし生けるものの抱く重く暗い感情、あるいは遺した無念。

 それを『玉』と呼ばれる小石に封じ、報告書とともに仕える神に提出するのが女官候補の仕事であり、また女官になるために与えられた試練。

 『玉』に封じられた『想い』と呼ばれる感情や無念が大きければ大きいほど、そして、それを数多く集めれば集めるほど、女官として伺候できる日が近くなる。


「姫命は何としてでも早くみづき“姫”を女官としてお手許におきたいみたいね――さあ、まあこ殿、さっさと目を通して押印くださいな」

「はい」

 よしこ殿に促されるまま、印章片手に目を通す。

 その報告書によれば、どうやらみづき殿は備讃瀬戸の島にて遊女の『想い』を回収したらしい。人間の男を手下にし、市杵嶋姫命のお導きのままに。

 もっとも、人間の男を手下にした件は報告書にもきちんと書かれていて、なおかつ詳細が別紙にまとめられているが、市杵嶋姫命のお導き云々に関しては私個人の想像にすぎない。

 しかし、報告書とここ数日の姫命の動静を照らし合わせれば一目瞭然、間違いなくこれは姫命のお膳立てだろう。

 一女官がお膳立てしたとあれば由々しき問題だが、姫命が、となれば一女官がどうこうできる問題ではない。筆跡がちょう殿のものというのもこの際見逃すべきだろう――と、私は黙って末尾に女官候補管理者の印章を押す。

「しかし、こんなあからさまに寵を受ける女官候補がいるなんてイヤな話よねぇ」

 押印したその報告書を受け取って一番上に重ね、やや緩慢な所作で角を整えたよしこ殿は、ぼやくようにそう言った。

 きっと今回だけでなく今後たびたびこんな報告書が上がってくることになるだろう――そう思うと本当にうんざりしてしまうが、幸いなことに寵愛を受けているのは女官“候補”。私もよしこ殿も女官だ。

 一度女官になってしまえば、たとえば八百万の神々に裏切りを働くというような暴挙にでも出ない限りその地位は揺るがない。となれば、自分が女官候補だったころの待遇は忘れるに限る。

「高見の見物を決め込んでしまうのが一番ですよ」

「もちろんわかってるわ。そりゃああたしだって高みの見物決め込めるものならば決め込むけれど――」

 不満げに口を尖らせたよしこ殿は書簡の束を抱き込むようにして、文机に片肘をついて掌に頬を乗せた。

「――でも、あたしがおあずかりしている候補がねえ、ふてくされてるのよ」

「かき殿ですか?」

「そうそう」

 よほどうっとうしいのだろうか、よしこ殿、何とか笑顔を作ろうと努力しているようだが頬は引きつり、口角だけが吊り上っている。

「あの娘、出来はいいのだけどね。それ以上に自尊心が強くて手に負えない――まあ今更だけどね」

 よしこ殿が預かる女官候補かきは、その名の通り元々は海のミルクと言われるあの牡蠣、マガキだ。

 土地柄というべきか、ここ厳島の宮には前身がマガキだという女官が数名いるが、その女官たちが「あの娘はちょっと……」と揃いも揃って口を濁すのがかきだった。

 かきが女官候補となったのは昨年。『玉』の回収率は高くここ一、二年のうちに女官になるだろうと目されているが、そこに“この先、何事もなければ”という但し書きがつくほど性格に難がある。

 自分が一番で、かつ特別な存在でなければイヤだという、とても養殖だったとは思えないほどの我の強さで、おそらくそこが姫命の目に留まったのだろう。しかし、姫命はどうしてそんな我の強い元養殖牡蠣に「かき」と安直な名をお与えになったのか……いや、たぶん、姫命の御性格からしてあえて狙ってお付けになったのだろうが。

 ともかく、女官候補となってすぐに「かき」という何の捻りのない名前を与えられた自尊心の強い元マガキは、その自尊心をさらにかたくなで強固なものに育て、女官候補の親分というかお局というか、そういう存在になっている。

「かき殿が同じ女官候補で姫命の寵の篤いみづき殿を受け入れるはずもなく……ですか」

「あたしの名前にすら文句付けるような娘だもの、当然でしょ」

 ちなみによしこ殿は元々シロギスで、漢字でキスと書いた場合の旁の“喜”が「よしこ」という名の由来だそうだ。どうも名付けがさほど御得意ではいらっしゃらないらしい市杵嶋姫命がお付けになったなかでは比較的凝った名ではあるし、そうでなくともかきよりはよほど凝っている。それが原因でよしこ殿はかきから嫌がらせを受け、苦労している。

「遅かれ早かれみづき姫に対して何かしら仕出かしそうだから頭が痛いわけよ」

 これまでにあったかきの絡んだ騒動を思い起こしてみても、これといった傾向はなく予想が難しい。

 強いて言うならば、よくも悪くも賢いため、手もとにある材料を最大限に活用して、臨機応変に対象を追い詰めるというのが特徴か。

「厄介ですね」

 正直なところみづき殿がどうなろうが知ったことではないが、みづき殿が害されれば姫命はお怒りになられるだろう。それがおそろしい。

 もっとも、かきがみづき殿を害して姫命がそれに気付いて何らかの処断を下されたとしても私には直接の影響はない。が、しかし、かきを預かるよしこ殿は処分されるだろう。そうなるとよしこ殿の仕事――宮内の伝達の一部を私が代理として担うことに――と、

「……どうかしましたか、よしこ殿」

 視線を感じてふとよしこ殿の方を見遣ると、唖然と表現するのが最も相応しい表情でこちらを見つめていた。

 私が眉をひそめると、逆によしこ殿は表情をゆるめ、笑う。

「まあこ殿って賢いのにたまに抜けてるよね」

「どうしてです?」

「今、みづき姫を妬んでいない女官候補はいないのよ?」

「は、はあ……」

 確かに女官候補というのは大なり小なり野心を持つものだ。

 私とて候補の時分は同じように女官を目指していた候補たちに敵愾心を抱いたことがある。その頃にみづき殿のようなのが傍にいれば敵視もしただろう。

 けれども今はそういう話ではなかったような――

「はあ、じゃないでしょ? まあこ殿だって女官候補をあずかる身じゃない?」

「……女官候補」

「いそも殿よ」

「いそも」

「元アサリの。まあこ殿、あずかっているのでしょ?」

 いや、確かにいそもは私が市杵嶋姫命よりおあずかりしている女官候補でありますが。

「アレは少々違う気が……」

 脳裏をよぎぎるのは大口開けて豪快に笑ういそもの顔。

 ちなみに私といそもは瓜二つだが、私はそんなはしたなく笑わないと誓う。

 あの破壊的な喋り方、破壊的な食欲。本能におそろしく忠実で、きっとフロイトもびっくりのイドの魔人。いや、元はアサリだが――アレは色んな意味でダメだ。

 だが、何をどう勘違いしたのか、よしこ殿は袖を口許に当ててくすくす笑い声を立てた。

「あら、まあこ殿、いそも殿はそんなことはしないって? 信頼しているのね」

「い、いや、信頼というかアレのどこを信頼しろと……。信頼以前の問題だと思うのですが」

 取り乱しつつそう答えると、どうしてかよしこ殿は、あらもしかして、と袖を口もとから離し、眉をひそめた。

「信頼以前ということは、もしかしてまあこ殿、すでに何かしらの手を打っているってこと? いそも殿がみづき殿に害なすことがないようにしっかりと釘を刺してるとか」

「いや、そういうわけでは……ないのですけれども……」

 アレにそんなものはいりません、と言うのは簡単だが、説明するのが面倒というか非常に嫌で曖昧に言葉を濁す。

 よしこ殿も会話の潮時を感じたらしい、そろそろ刻限ね、と書簡を抱えて局を出て行ってその話は終わったのだが――実際、アレに釘などいらないと思う。


 試しに私は自分の局に戻ってからほとんど居候のように居ついているいそもに訊いてみた。

「いそもさん、あなた、同じ女官候補のみづき殿に対して何か思うところなどはないのですか?」

 どこで買ってきたのか、くずきりらしきものを啜っていたいそもは、ふとその手を止めて、眉をひそめて首を傾げる。

「えー、みづきちゃんですかあ? 別にぃ、何もぉ」

 むしろ何でそんなこと訊くんですか、と言わんばかりの表情に応えて、

「いや、聞いた話、みづき殿を羨む女官候補が多いそうなので」

 そう付け加えてやると、いそもは心底驚いたというような顔をし、唾を飛ばさんばかりの勢いで言った。

「ええぇぇぇ! どうしてですぅ? あの子ミズクラゲですよぉ? 美味しくないどころか食べられないのにぃ!」


 ──ああ、きっと、いそもはみづき殿をうらやまない。

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