【冥界のほとりにて】

 青年がたどり着く場所は、いつだって屍山血河の頂だった。


 風が運ぶのは血。燃えかす。肉。汚物。それらがないまぜになった、かつて人間だったものの痕跡。すなわち死臭である。

 元々はそれなりに裕福な集落だったのだろう。井戸が複数掘られ、家々はしっかりした作り。道は踏み固められ、畑は次の種まきに向けてだろうか、よく耕されていた。

 けれども、それは残滓だった。かつて生きていたであろう人々の。

 土塀は崩れ去り、家屋は焼け落ちていた。畦道あぜみちに転がっているぬいぐるみの持ち主がどうなったか、想像するのも身の毛がよだつ。まもなく訪れる夜の帳も、それを覆い隠し切れてはいない。

 焼き討ちの跡だった。

 太陽に代わって顔を出しつつあるのは月。奇妙に小さなそれは、ひとつではない。いびつに連なる幾つもの月は、まるで元はひとつだったものが崩れてできあがったかのようだった。その光に照らされて浮かび上がった森は、硝子のように光を乱反射して美しい。

 そこは、樹海のほとりに築かれた村だった。


「人狩りか―――」

 男は顔を覆っていた布を外し、そして呟いた。

 端正な顔立ち。日に焼けた姿はまだ青年と言っていい若さだったが、老成されたその物腰と相まって奇妙な風格を感じさせる。

 身に着けているのはターバン。目の粗い布のマント。杖。背嚢。頑丈そうな衣類。長靴。

 旅装であった。

 彼が立っている場所は、集落の外縁である。人界の向こう側、樹海から男はやってきたのだった。

 闇に包まれつつある世界であっても、彼の目はしっかりと捉えていた。死を。いや、破壊と殺戮の痕跡を。

 集落の中心部へと歩を進め始めた彼の行く先に転がっているのは死体。妙に少ないそれが、そのまま犠牲者の少なさに繋がらぬことを男は知っていた。

 この場におらぬ者には、死よりもおぞましい運命が待っていたから。

 その時だった。

「燈火。来て!」

 若い女の声が響く。

 鈴が鳴るようなそれを聞いて、男は飛び出した。


 女の屍だった。

 身に着けている衣は粗末なもの。胸のあたりに広がる赤い染みの中心には、大きな穴が穿たれている。

 まだ温かい。恐らく苦しみ抜いたうえで亡くなったのであろうその表情は、お世辞にも安らかなものとは言えなかった。

 樹海の入り口。月光に照らされるこの場所まで逃げ、そして力尽きたのであろうか。

 それらのことを検分した人物は、深くフードで覆い隠された顔を上げた。

「―――旦那様」

 ハスキーな美声。顔は見えずとも、その美貌は容易に想像させ得る声である。

 その場にいるのは彼女だけではなかった。他にふたり。どちらも旅装を纏う、若い女である。ひとりは長髪にヘアバンドを付けて、そしてもう一人は短髪で首にマフラーを巻いていた。よく似た顔立ち。姉妹かもしれない。

 彼女らの視線を受けてこの場に現れたのは、青年だった。

 フードの人物は彼に告げる。

「適格だ。年恰好も近い。実用に耐えるだろう」

「分かった。ありがとう」

 男は遺体のそばに跪くと、懐から琥珀のごとき質感の塊を取り出した。

 透き通った碧のそれに納まっているのは、銀色の蝶。片方の翼が裂けている姿はどこか痛々しい。

 男は両手でそれを掴むと、力を込めた。

 ひび割れた碧の琥珀を慎重に、しかし素早く剥がした彼は、中から取り出した蝶を、遺体の耳孔に近づける。

―――奇怪な事が起こった。

 震えた。琥珀に閉じ込められていた蝶が、たった今蘇ったかのごとく動き出したのである。

 そのままは身震い。体にこびりついた琥珀の破片を振り払い、眼前に広がる昏い穴―――耳孔へと潜り込む。

 その光景を、固唾をのんで見守っていた一同が再び動き出すまで、どれほどの時が経っただろうか。

 やがて男が告げた。

「さあ。準備をしよう。還ってくる彼女のために。

せめて今夜だけは、平穏を」

 いずれは明ける夜が、始まった。

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