第一章【冥府の女王】

【冥府の女王】1

 女神が死より蘇った時、そこは彼女の知らない世界だった。

 

 まず目についたのは天井。

 板を葺いた屋根の下に梁が見える。粗末な作りだった。

 体にかけられているのは毛布だろうか。後頭部のごわごわとした感触。

 視線をぐるりと右にやると壁。ついで脚の方を見ると、寝台に横たえられた己自身。

 そして、彼女が左に視線をやると―――

 随分と心配そうにこちらを見る人たちの姿があった。

「……やぁ。おはよう」

 視線が合った青年の第一声が、それだった。

 語尾がわずかに震えている。その瞳にあるのは大きな不安と小さな期待。

 それに答えようとして、女神は何と答えるべきか分からなくなる。

 それだけではない。口がうまく動かない。いや、そもそも私の口はこんなだったか?喉は?視界も違う。手も、足も、いや、体全部が。

―――これは私の体じゃない!

 彼女の全身を包む違和感が絶叫した。困惑と恐怖が身をすくませる。

 その時。そっと、頭を抱かれた。

「だいじょうぶ。三十五年ぶりに目が覚めたんだ。体だって、悲鳴くらい上げるさ」

 女神を抱きしめながら青年は語った。

「ごめん。君を起こすのに、こんなに時間がかかってしまった。けれど、君の事は絶対、今度こそ絶対、僕が守るから……」

 そうだ。かつてもこんなことがあったような気がする。

 誰か、とても大切なひとに抱かれ、安堵と幸福に包まれていたかのような。

 不思議な安心感が女神の身を包んだ。

 落ち着いてきた彼女の中で、疑問が次々と膨らむ。

 その中でも最も重要なものが、口をついて出た。

「……私は……誰?」

 彼女には、何も分からなかった。名前も。どこで生まれた?歳は?

「……あなたは、だれ?」

 聞かれた青年の顔が強張った。彼は質問で返した。

「……自分が誰か、分からない?」

 青年へ頷く。

「……疲れているだけさ。きっと、休めば思い出すよ」

 そうなのだろうか。

 きっと、そうなのだろう。確かに彼女は、とてもとても疲れていた。

 さっきまで戦っていたのだから。壮絶な死闘を。

―――誰と?

 女神は飛び起きた。

 毛布を跳ね飛ばし、青年を振り払いながら全身の激痛をこらえ、立ち上がろうとする。

「ちょ、ちょっと待って!?」

 静止の声も聞こえない。

 思い出せない。何も分からなかったが、一体今はどうなっている!?

 板張りの床を素足で踏みしめ、ふらつきながらも歩き出す。

 一間しかない家だった。スペース自体は広いが、寝台が幾つかと棚。木箱。石積みのストーブ。かまど。水がめなどが置いてある。

 入口らしき扉の前で、倒れ込みそうになるのを水がめに手をついて免れる。

 ふと、その水面が目に入った。

 プラチナブロンドの長い髪。血のように真っ赤な唇。瞳は蒼く、瞼は二重。鋭い目つき。顔の造形は美しく、麗人と言って差し支えない。

―――これが、私の顔?

 違う。私の顔はこんなじゃない。思い出せないが、違う!!

「落ち着いて。大丈夫。だいじょうぶだから……」

 背後から抱きしめられた。

「君は生まれ変わったんだ。ここには君を傷つける者はいない。みんな優しくていい人ばっかりだ。ね。だから、安心して……」

 聞いた覚えのある声だった。

―――そうだ。彼だ。彼がいたから、私は……

 不安が収まっていく。全身の力が抜け、へたり込む。意識が遠のいていく。

 だが、もう怖くなかった。

 女神は、安堵の中で再び眠りについた。

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