【冥府の女王】2
話し声が、聞こえる。
どこからだろう?
「―――じゃあ、彼女の記憶は戻らないのかい?」
「分からない。いまの肉体の記憶がないらしいのは予想通りだが、前の体や神格としての記憶まで失っているのは、単に心理的なものなのか、それとも器質的な理由か。
医療設備のあるところで専門家に診てもらえればすぐ分かるだろうがね」
「ねえ、どうするの?このまま彼女の記憶が戻らなかったら」
「心もそうですが、体の方も心配ですね。いかに新鮮だったとはいえ、一度死んだ体です。異常が出ないかチェックしないと」
「そちらの方は心配ないだろう。さっきの様子を見ていたが、まがりなりにも脳の復元に成功した以上、他の部位は完璧なはずだ。きちんと機能しているよ」
「―――分かった。ありがとう。なら、しばらく様子を見よう。記憶が戻ればそれでいいけど、戻らなかったら―――」
「戻らなかったら?」
「娘だと思ってあらためて育てればいいさ。ちょっと体が大きいけどね」
「ひゅーっ。言うねえ」
「私たちにとっては二人目ですね……」
「おいおい、私が一人目か。まぁ否定しづらいが」
「決まりだね。おっと、彼女に言っちゃダメだよ?子供扱いされたら機嫌を損ねるかも」
先ほどから続く、談笑する声。
まぶたは開かない。開きたくない。もう少し。もうしばらくこの眠りに身をゆだねて……
ふと、いいにおい。
おいしそうな匂いが湯気に乗ってやってくる。
これは―――雑穀だろうか。調味料と酒で味付けされた香りが女神の食欲をそそった。
彼女は、薄目を開けた。
見れば、ストーブを囲んで床に座った男女が、椀を片手に食事をしている。
元気にジェスチャーしながら周りと話している短髪の少女。その横で呆れ顔ながらも上品に粥を食している長髪の少女。
もうひとり。ストーブの影でよく見えないが、女性だろうか?
そして、こちらに背を向けて座っている―――最も近い席にいるのは、先ほどの青年だろう。
おなかが、すいた。
まだ頭がぼーっとするが、食欲が体を突き動かす。
だから、彼女は口を開いた。
「……あ、あの」
視線が集中した。
奥の一人、姿がよく見えない人が慌ててフードを被るのが見えた。なんでだろうか。
女神は上体を起こす。
「よく眠れたかい?」
青年が口を開いた。
「はい。……まだ頭がすっきりしませんけど」
「そりゃよかった。君の分もあるよ。食べる?」
「い、いただきます……」
受け取った椀は、少し重く感じた。随分と握力が弱っていたのかもしれない。
―――そして女神は、三十五年ぶりに食べ物を口にした。
雑穀粥。味付けは酒と香草。それに塩。干した魚と少々の野菜が柔らかく噛み千切れて、弱った体にしみこんで来る。
おいしかった。
女神は無言のままむしゃむしゃ。見る間に椀の中身が減っていく。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
一息つくと、改めて周囲を見回す女神。
いまだに状況は分からない。だが、この人たちが悪い人間じゃなあない、という事だけはなんとなくわかった。
青年がにこやかに、コップの湯冷ましを差し出してくる。
「気分は?」
「いい……と思います。それで、あの……皆さんは」
「うん。自己紹介が必要だね」
「お、お願いします……」
青年は会釈。その整った容姿、落ち着いた物腰に反して、瞳に宿った強い意志はまるで炎。
「じゃあ、僕から。
僕は
「ええっ!?」
二十歳くらいだとばかり思っていた。東洋人は若く見えるとは聞いていた気がするがまさかここまでとは。若作りにもほどがある。
まさに東洋の神秘だった。
次に前へ出てきたのは肩まである長髪の少女だった。年の頃は十代後半、といったところか?
「私はタラニス。燈火さんとは三十年来のお付き合いです。歳は五十二」
―――うん、これはそういうゲーム?そうなの?
女神の脳裏に疑念。無理もない。
美しい―――とても美しい少女だった。凛々しい顔立ち。焦げ茶色の髪をヘアバンドで止め、ほんのりと桜色の唇と、流麗な顎のラインがえも言えぬ魅力を醸し出している。
「じゃ、次は私か。エススって呼んで。タラニスの双子の姉。当然同い年。……びっくりしてるけどまだやるわけ?いやまあ年齢は本当なんだけどね」
タラニスそっくりの少女だった。だが印象は随分と違う。髪の毛はショート。傍らに置かれたマフラーは彼女のものか。なんとなく猫のような物腰。
そして最後。
フードをまぶかに被り、ローブで体型を隠した人物。手袋も嵌めている念の入れようだ。
「―――私はウルリクムミ。長ければクムミでいい。……今から姿を見せる。驚かないで欲しい」
意外とハスキーな美声で告げると、彼女は手袋を外した。
「―――!?」
鱗に覆われた手首。節くれだった指。その爪は、湾曲した鉤爪だった。
「私は人間だ。少なくとも、私自身はそう思っているし、ここにいる皆も、そう言ってくれている。
―――だから、怖がらないで」
フードが外される。
異相であった。
羽毛に包まれた顔。後頭部からは鬣のように髪が伸びている。嘴を持ち、鋭い眼光の頭部は全体的に、鷲に似ていた。
女神は不思議と、恐怖を感じなかった。
その瞳に宿っていたのが、深い慈しみであったから。
「一応、年は三十七。このメンバーでは最年少だ」
最後にいたずらっぽく付け加えると、彼女―――おそらくそうなのだろう―――はウィンク。
下手くそなそれに、女神は思わず噴き出した。
「やれやれ、笑われてしまった。慣れないことはするもんじゃないな」
ちっとも不服そうじゃない感じで彼女は呟く。
「ここにいるので全員だ」
と燈火。
「はい」
そこで女神は困った。流れから行けば自分が自己紹介すべきなのだろうが、彼女は己の名前も分からない。
「僕は君の事を知っている。もちろん名前も」
青年は、ゆっくりと話す。話すべき内容を精査するように。
「君は幾つも名前を持っているけれど。全部を言っても混乱するだろうから、まずはひとつ。
―――ヘル。君はかつてそう呼ばれていた」
名前。存在を規定するもの。
確か、北欧神話における冥府の女王の名だったはずだ。
「改めてよろしく。そして、おかえりなさい。ヘル。
現世へようこそ。僕たちは君を歓迎する」
こうして、名もなき銀の女神は、冥府の女王、ヘルとなった。
「色々聞きたいこともあるだろうけど、まずは体を回復する事だ。あ、ご不浄は裏口から行ってくれ。誰か女性に付き添ってもらってね。表は、まだ片付いてないから」
「?分かりました」
幸いまだ尿意は催していない。ヘルの体調はかなりよくなっていた。睡眠と、そして粥のおかげだろう。
やがて、再び眠気が襲って来た。
「しっかり眠って。時間はたっぷりあるんだから」
「……はい」
三度目の眠りは速やかだった。
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