【冥府の女王】3

 ふと目が開いた。

 時刻は深夜を過ぎ、もうすぐ早朝が近い。

 体はすっかり元気になり、もう起き上がれるほどだ。

 周りを見れば、女性陣はベッドに。燈火一人がヘルの足元、ベッドへもたれかかるように座り込み、マントにくるまって眠っている。

 ヘルは彼らを起こさないよう気を付けながら、ゆっくりと立ち上がった。

 皆疲れているのか、熟睡している。目を覚ます者はいない。

 彼女らを起こすのも気が引けて、女神は一人、裏口から外へ出た。

 

 柄杓ですくった水で両手を洗うと、ヘルは天を見上げた。

 美しい。無数の星々が夜空を埋め尽くす光景は、どこまでも幻想的であった。

 奇妙に小さな月は、まるで幾つにも砕けたかのように連なって見えた。

 時々空を走るのは流星―――ではなく、一体何なのだろう?

 彼女自身はまだ知らなかったが、その視力は20。2.0ではない。人間の限界をはるかに超えた視力で捉えていたのは、人工衛星のガンカメラだった。

 幸いな事に、今はまだ夜。光源はなく、人工衛星に発見されるほどの光量はなかった。

 周囲を見る。

 外から見れば小さな家だった。裏手すぐには、巨大な樹木ばかりの森―――樹海がせまっている。

 この土地は、樹海と人界との境界線上にあるのだろう。

 ふと気になって、家の表側へと向かう。片付いてないとはどういう事なのだろう?

 軽い気持ちで回り込んだ表の道は、確かに片付いてはいなかった。

 

―――控えめに言って、そこは地獄だった。

 

 ヘルは絶叫した。

 民家に杭で磔とされた死体。焼け落ちた家。巨人に踏み潰されたかのようなぺちゃんこの家畜。血が混じった水たまりには蠅が舞う。

 寒冷なためか、腐臭はそれほどでもない。

 明らかな殺戮の痕跡だった。

 そうだ。あのおいしそうな香草のにおいは、これを隠すためだったのではないか?

 最初、表玄関から出ようとした際、彼らは慌てていたじゃないか?

 疑い出せばきりがない。

 何を信じればいい?誰に助けを求めたらいいの!?

 訳が分からない。

 寄る辺を―――その記憶を持たぬ女神は、素足のまま駆けだした。

 

「くそ、迂闊だった!」

「森に駆け込んだようだ、手分けをしよう。だいじょうぶ。すぐ見つかるはずだ」

「まずいよ、もうすぐ日が昇る」

「やむを得ない、間に合いそうになかったら、雲を呼んでくれ。多少不自然でもいい」

「分かりました!」

 悲鳴は勿論、家の中にいた一行の耳にも届いていた。

 彼女の心のために隠していたことが裏目に出た。

 蘇ったばかりのヘルの精神は、まだガラスのように脆い。肉体が弱れば心も弱くなる。現実に耐えられる強靭さを彼女が得るにはまだ、時間が足りていなかった。

「またこんなミスを―――くっ」

 燈火は、夜の森へ走り出した。

 

 夜の森を駆け抜ける女神。

 夜だというのに、昼間のようによく見える。素足で小石や木の棘を踏み付けているというのに、足の裏もなんともない。そしてその速度。

 驚異的な速度だった。時速六十キロは超えていただろう。

 人間離れした能力を発揮して、ヘルは家から遠ざかりつつあった。

 その時だ。

 呼び声。

 それは、ヘルを探す者。

 あの優しい人たちの声を振り払って、女神は疾走した。

 遮二無二に走った先。

 遠くの空に朝焼けが見えた。

 まだ、太陽は昇っていない。だが地平線の彼方までに広がる樹海が目に入った。

 全てが見て取れるその場所は、崖の上だった。

 追い詰められた―――そう感じたところで、背後に気配。

 ヘルは、振り返った拍子に足を踏み外す。

 落下しそうになった彼女を―――その手を掴んだのは、見覚えのある手だった。

 男の手。

 燈火だった。

「あ……」

「はい、つかまえた」

 青年は、ヘルを引っ張り上げるとその場に座らせる。

「大丈夫かい?」

「……」

 おびえたヘルの表情を見て、燈火は傷ついた顔をした。

「見たんだね?」

 女神は首肯。

「すまない。最初に話しておくべきだった。見たら、びっくりするだろうと思ったから」

 青年は、自らもヘルの横に座ると、朝焼けへと視線を向ける。

 その様子に、ヘルは自らも気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

 言葉を選び―――口にする。

「これは―――どういうことですか?」

 ヘルの問いかけに、燈火は表情を引き締めた。

「僕らが来たときにはすでにああだったよ。僕たちはこの村の者じゃない。旅人だ。

僕らは火事場泥棒をするために来たんだ。

目的は財物じゃない。


―――死体だ。


目的に合った新鮮な遺体を手に入れるため」

 告白は衝撃的だった。とても、その風体からは似合わない発言。

 だが、次の言葉はもっと凄まじい破壊力を秘めていた。

「理由は、死者を生き返らせるため。

ヘル。君の新たな肉体とするために、条件が合う遺体を漁った」

「―――!」

 あまりの内容に、女神は返す言葉もない。

「本当は生きた人間の方がいいんだ。

けれど、そんなことはできない。生きている人間の体を奪って君を蘇らせるなんてことをすれば、僕らは奴らと―――この村を焼き払った悪魔どもと同じになってしまう。

だから―――ギリギリの妥協として、条件の合う新鮮な死体を探して、そこに君を。君の魂とも言えるある機器を封入した。脳に組み込んだんだ。

それは期待通りの性能を発揮し、二重の意味で君は生き返った。肉体的にも、魂という意味でも。前世の記憶が戻らなかったのは誤算だけれどね」

 彼は、そこでいったん言葉を区切った。ヘルがその内容を受け止めるのを待っていたのだ。

「これが君に話さなきゃならなかった事。その一番重要な事項だ」

「私は―――私は何なんですか。死体から生まれた化け物なんですか!?」

 激情に駆られて立ち上がる銀髪の女神。光に照らされるその姿は、どこまでも美しかった。

「違う。君は人間だ。まぎれもなく、優しい心と、高潔な魂を持つ、誰よりも勇敢で素晴らしい女性だ。

誰にも否定なんてさせない。それがたとえ神々であろうとも」

 同じく立ち上がった青年の瞳にあるのは、強い確信。ヘルを真正面から見つめるそれは、どこまでも深く澄んでいた。

「神……わたしの、名前……生き返ったことと何か関係が……?」

 そう。冥府の女王。それを意味する神の名が、死から蘇ったことと何か関係を持っていても不思議ではない。彼女の想像を、しかし燈火は否定した。より恐るべき事実でもって。

「直接にはない。けれど。君を―――ヘルという存在を作り上げた神々は、こう願っていた。

"この地上に冥府を現出させよ"と。

君のいる場所が冥府となる。それほどの力が、君には与えられている」

「わたし……」

「君は都市破壊のために生み出された。望むだけで、どんな大都市だろうがひとたまりもない。ほんの数十分で灰塵と帰すだろう。そこはまさしく冥界が現出した光景となるはずだ。

だが僕は、君がそんな事をしないひとだと知っている」

「なんで……なんでそんな事、断言できるんですか……?」

 ヘルは、力なく言った。打ちのめされた彼女の顔は、半笑いになっている。ほんの四半刻にも満たない時間で、彼女を包んでいた優しい世界は崩壊し、過酷な現実が突きつけられていた。

「何故なら、君は―――」

 燈火がなんと言おうとしたかは分からない。

 無粋な邪魔が入ったからである。

 

轟っ!!

 

 天空から降下してきたのは、そそり立つ山脈とも錯覚させるほどの巨体。

 腰に剣を帯び、手に槍を携えた武神。それを象った、ペール・ブルーの彫刻である。

 人類が用いている単位に照らし合わせれば、それは五十メートルもの大きさがあった。

「―――神」


―――それは巨神だった。


 神々の尖兵。あるいは従者。かつて人間だったもののなれの果て。

 すなわち、神々の眷属たる破壊兵器であった。

 立ちすくむ銀の女神を守るように、青年はその身をさらした。しかしその体格差は、象と鼠以上にある。

「ほう。残り物がないかと思って戻ってみれば―――こんなところにサルが二匹も潜んでいたか」

 不気味なまでに、奴の声は広がった。操る眷属のものであった。

 彼の本体は小さな小さな機械生命体に過ぎない。しかし、人間の肉体を乗っ取ったそれは、奪った脳の思考力を用いて、途方もない力を発揮する。

 そう。今まさにコントロールされている、巨大な流体の塊のように。

 吹きすさぶ強風の中、奴は、顔を燈火たちに近づけた。

 崖の上に出ている頭部は、それだけで馬小屋ほどもある。恐ろしく精緻な兜の奥、こちらを見つめる瞳は根源的な恐怖をかき立てた。

「あの村を焼いたのはお前か?」

 燈火はひるまず叫んだ。その表情は引き締まってはいたが、恐れは微塵もない。

「だったらどうする?」

「どうもできないな。少なくとも今は」

 青年の答えは、道理であった。人が神に打ち勝てるはずもない。何のテクノロジーも持たぬ生身の人間には。

 燈火は、続けて言葉を投げかける。

「提案があるんだが」

「ほぉ?」

「見ての通り、デートの途中なんだ。一世一代の告白をしようとしていたところでね。見逃してくれないかな?」

 恐るべき胆力と言えた。正気であるならばという但し書きがつくが。

 ヘルには、青年が恐怖のあまり狂ったのではないかとさえ思えた。

「フン。ここまで私を馬鹿にしたサルは初めてだ」

「あまりサルサル言わないでもらいたいね。君も元は、そのサルだったじゃないか」

「よくもまあ、そこまで減らず口を叩けるものだ。だが、その体が半分になっても、おしゃべりな口を開けるかな?」

 眷属が立てた指先に、まばゆいばかりの火球が浮かび上がった。彼らに与えられた超常の能力のひとつであった。

 対する青年の返答は以下の通りである。

「ああ、もうおしゃべりでいる必要はなくなった。ありがとう。長話に付き合ってくれて助かったよ」

 青年の目は、眷属を見てはいなかった。その彼方。深き藍に染まった天空、晴れ渡った空の向こうに浮かぶ監視衛星と、それを遮る位置に流れて来た雲を見つめていた。

「何?何を言っている?」

 困惑する眷属に向けて、宣告が下された。

「お前を始末する準備が整った、ってことさ。

―――みんな、こいつを殺せ」

 

―――燈火たちの視界から、眷属の姿が掻き消えた。

 

 伸びあがった巨大な岩の塊が、まるで生き物のように彼の脚へ喰らい付き、そして大地へと引きずり込んだからである。

 腰まで地面にめり込んだ眷属はパニックに陥った。

 脱出の糸口にしようと、混乱した彼は虚空から火球を掴みだす。

 それを地面に叩きつけようとして。


―――眷属の腕に大気が絡みつき、いともたやすくそれを捩じ切った。


 腕を失った眷属の視線の先。そこに浮遊していたのは、その顔を兜で覆い隠した、優美なる女神像であった。

 武神像の勇壮さとはまた違う。天才と言われる芸術家が、身命を注いで削りあげたかのような美しさ。

 腰に剣を帯び、戦衣を身に纏って、甲冑と矛で武装した、炎の色の巨像だった。

 眷属は、一体何が起きているのかを悟った。

「馬鹿な―――何故だ!何故同族が人間風情を守る!?」

 返答は真上から来た。

 

「私たちは人間です。神々の道具なんかじゃない!」

 

―――武神像の肩口を貫いて、純白の槍が突き込まれた。

 

 槍の持ち主。その全身を構成する原子が励起する。

 駆逐艦にも匹敵する質量が発する膨大な起電力。

 それが槍を通じて眷属に流れ込み、瞬時に暴発した。

 条件次第で最大級の熱核兵器にすら耐える強靭無比な構造体は、しかしたやすく耐久限界を迎えた。

 粉々に砕け散った眷属の亡骸は、まるで雨のように大地へと降り注ぐ。かと思えばそれは、大気へと溶けて消えて行った。

 眷属の命を奪った電撃の主は、純白の女神像。炎の色の女神と瓜二つの造形をしていた。

 その横に浮かび上がってきたのは、こちらも優美な、しかし姿の異なる暗灰色の女神像である。

 陽光に照らされる、これら三柱の神像は揺らぎ、そして虚空へと消えていく。

「ああ―――!」

 ヘルは見た。

 炎の神像の姿が縮み、エススへと変じるのを。

 純白の彫刻から、タラニスが舞い降りてくるのを。

 暗灰色の女神像が、ウルリクムミの肉体を吐き出すのを。

 そして青年は、女神が発した最後の質問へと答えた。

「彼女らは、神々によって殺戮機械へと作り変えられた人間―――眷属だ。いや、眷属だった。だが今は違う。彼女らは、自らの意志と肉体とを取り戻した。

 ヘル。君もそうだ。かつての君は眷属だった。けれど、人としての全てを取り返したんだ。だから僕は断言する。君は人間だ。神々の奴隷なんかじゃない。僕の、大切なひとだ」

 告げると、青年は女神を抱きしめた。

 

 太陽が照らし出す夜明けの世界。

 そこは、人類のものではない。

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