【少女と樹海】5
そこは電球で煌々と照らされた空間であった。
「あ、おばちゃーん。ナマズのバター焼きとビール!! 五人前ね」
「あいよー」
「僕はじゃあ、枝豆も。みんなは?」
「私は同じものでいい」
「あ、私はじゃあ、チーズを……」
「お任せします。よく、分かりませんから」
夜の街も美しい。
一行がいるのは、星灯りと電球で照らされる酒場の中庭。
四角い中庭には、そこそこの数の客が入っていた。
どうも顔役の家に神々が何度も出入りしているらしいと聞いて、ならば、とここを訪れたのだ。
「しかし驚きました。神格や神があんなに堂々と街中を歩くんですね」
ヘルの発言。彼女は夕刻、街中を歩く神の姿を目撃していた。
「ああ。そこそこの規模の街ならそれこそ珍しくないよ。逆に、怪しい事をしなければ奴らだって、人間ひとりひとりをいちいち気にしたりはしない。実際、平気だったろう?」
「はい」
初めて見た神は、知ってはいたが確かにクムミとそっくりの姿をしていた。クムミの方が遥かに美しい、とも思ったが。
当の彼女は、例によってフードを目深にかぶり、ヘルの横に座っていた。
「明日はどうするんです?」
質問を発したヘルに答えたのはタラニスだった。
「あしたは、街で買い出しをします。またしばらく、人里には来られませんから」
「今度はどこに?」
「ちょっと遠いところです。現地についたら詳細は伝えます」
「はい」
おしぼりで手を拭きながら、周囲を見回す銀の女神。彼女は会計をしている客を目に止めると疑問を口にした。
「それにしても―――あ、あそこでやりとりに使っていたあれなんなんですか?ほら、昨日のリンゴの時とかも見ましたけど」
「ああ。あれは銅のインゴット。お金の代わりさ。物々交換は効率が悪いからね」
「へぇ……」
「地球みたいな紙幣―――高度な信用経済は、この世界じゃ無理だねえ」
燈火とエススの解説に、ヘルは感心する。
「まぁ、インゴットじゃ重くてかなわないんだけどねぇ。昔はコンピュータ使った決済とかあったんだけど」
「凄いですねえ。地球って」
コンピュータ決済など、彼女の想像の埒外だった。一体どのような形態なのだろう?
などと会話していると、待っていたものがやってきた。
「はいよっ! ビールおまちどう!」
どん、とテーブル上に置かれた大ジョッキが五つ。
「おお! 待ってました!」
「では旦那様、乾杯の音頭を」
「ふう。じゃあ……僕らの明日に」
「「「「かんぱーい」」」」
酒場の主人は、ドアをノックする音を聞きつけて調理道具を置いた。
「はいはいただいまー」
手を振って水滴を落とすと、ドアを開ける。
すると―――
「いない?」
怪訝な顔の店主。
「こちらです」
聞きなれた声に、主人が顔を下げると見知った女の子が、そこにいた。
「おや、フランちゃん。どうしたんだい、こんな夜更けに」
うん? 何やら頭がぼーっとするぞ。風邪かね?
「燈火おじさまたちはいますか?」
少女の質問はある意味、予想通りのものだったから、彼は用意していた返答で答えた。
「ああ、いるよ。みんな飲んだくれてるねえ。ナマズ料理は久しぶりだって言ってたよ」
おや、おかしいぞ? 足元がフラフラとする……仕事にならねえなこりゃ。
「そう、やっぱり」
少女が帰ったら店じまいだな、などと思いつつ、主人は親切心で言った。
「用事かい? 呼んで来ようか?」
「不要です。念の為に確認しに来ただけですから。そのままお仕事を続けてくださいな。そう。そのままね……」
扉が閉じられた。
店主は意識を喪失し、ドアにぶつかる。そして痙攣―――それも数秒のこと。
彼はまるで、死者のようにぎくしゃくした動きで立ち直る。
そして、そのまま仕事に戻った。
彼の意識が戻る事はなかった。
「ありゃ? あんた、どうしたの顔色悪いよ」
声をかけて来た妻も、店主の顔を見たとたん、びくん、と震え、倒れそうになりながら――持ち直す。
その顔には死相が浮き出ていた。
高度に機械化された空間で、義眼の神はモニターを見ていた。
街を映し出したそれは、はじめ隅から、やがて全体―――ある一角を除いて、赤く染め挙げられていく。
その一角は、酒場。燈火たちがいる酒場だけが変化を免れていた。
さらに、街中に幾つか。そして、街を包囲する外周に、マーカーが浮かび上がる。その数は合計十五。
「準備完了しました」
オペレーターが告げる。
神は、部下たちへ命じた。
「始めろ」
「それにしても―――ビール初めてなんですけど、全然酔わないですね」
「そりゃね。アルコール幾ら摂取したって、私たちの体じゃ即座に分解されちゃうし」
「え……意味ないじゃないですか」
「お酒を飲んでる、っていう行為自体に意味があるのよ」
力説するエススと目を白黒させるヘル。
「姉さん、また雰囲気だけで酔ってるでしょう?」
「いつものことだ、気にしても仕方あるまいよ」
タラニスとクムミも生暖かい視線を送っている。
皆、一通り食べ終わり、お腹も一杯になってきたところ。
「さて。じゃ、あんまり遅いとフランも心配するだろうし。行こうか?」
燈火の一言でお開きが決まった。エススが叫ぶ。
「おばちゃーん。お会計お願い」
その呼びかけに、厨房から出てくる恰幅のよいおばちゃんの姿。
懐から財布を取り出し、そちらを向いた燈火の脳裏にふと、疑念が浮かんだ。
―――うん、顔色がおかしい。いや、あの動き。不自然というか―――
彼がこれまで生き延びてこれたのは、その類まれなる直観故だった。
だから、今回も彼は、それに従って動いた。
「―――伏せろ!」
この時、店主の妻の体は、ある種の化学反応の連鎖によってアンモニア、亜硝酸を経て硝酸へと変換されつつあった。更に、人体に含まれる多量の糖がセルロースへと変じて行く―――最終的に生じるのはすなわち。
爆薬だ。
彼女は爆発した。
飛び散る骨片と爆発は、神格と言えども致命傷を負わせるのに十分なだけの威力を持っていた。
直撃していれば。
燈火に押し倒されたヘルは、呆然としていた。
己の上に倒れ込んでいる燈火の体に手をかけ。
「―――あ。あ……ああ……!!」
血。
青年は、その身をもって女神を庇っていた。
彼だけではない。近くのテーブル席は死屍累々の有様だ。
離れた席に座っている客が逃げ出す様子が見えた。
「迂闊だった、敵だ!」
仲間たちの誰かが叫ぶ。
エススが警戒しながら立ち上がる。クムミが頭を振りながら膝立ちになり、タラニスは流体でできた剣を召喚。
これは、攻撃。だとすれば、次は―――
その時だ。外から絶叫が上がった。逃げた客のものだろう。
「何!?」
群衆が、酒場へとなだれ込んでくる。その顔には皆死相を浮かべて。
「にゃろぉ!!」
強風、否。エススの放った衝撃波が群衆を押し返し、直後。
大爆発が起こった。
街の一角が消滅するほどの破壊力だった。
群衆が丸ごと爆発したのだ。
「い、生きてる……?」
「なんとか!」
耳がキンキンするが、辛うじて皆無事だった。
「人間爆弾…… !」
「神格は無傷で残ったか。男の捕獲は不可能と判断する。作戦をプランBに変更。奴らがどんな
義眼を持つ鳥相の神は、冷酷に命じた。
「やむを得ない、飛ぶよ!」
「私が先に出ます、姉さんは燈火さんと!」
瓦礫の中。
タラニスの影が伸び、その身を覆い尽くし、厚みを持ち、そして這い出して来る。
強大な力の顕現―――巨神が。
純白の巨体は街のいかなる建造物よりなお、何倍も大きい。
雷を司る女神像はしかし、飛び立つことがかなわなかった。
頭部に横殴りの衝撃。
「――― !?」
タラニスは辛うじて踏みとどまり、半壊した頭部の復元に努める。
その巨体を盾に、更に三柱の女神像が出現。
夜の市街地を睥睨する四つの巨体は、確実に追い詰められつつあった。
「初弾命中。小破」
「あの二機は初期生産型のケルト・モデルか? 後から出て来たのはヒッタイト・モデルとギュルヴィ・モデルのようだが。頑丈だな」
「閣下」
「ああ。第二波。行け」
「おおおおおっ!」
タラニスは槍を振りあげた。
同時。
槍の軌道上で不可視の矢が折れ、落下し、民家を押しつぶしてから消えていく。
先にタラニスへダメージを与えたのも同じものだろう。
まさしく魔弾。
アクティブレーダーを強化されている―――気象制御用だ―――タラニスだからこそ第二射は防げた。だがこれ以上の攻撃を防ぎきれるのか?
槍を突き出し、タラニスは雷霆を射点へ投射。
恐るべき威力は、大気を砕き、そして山すらも破壊した。
―――山だけを。
スナイパーは既にそこにはいない。いや、そもそも奴は見えない。不可視の神格か!?
巨神像たちが地上に視線を写すと―――街の人々で溢れかえっていた。
何事かと慌てて出て来た様子ではない―――その動きはぎくしゃくしており、まるで動く死体だ。先ほどの群集のように。
「なんてことだ。街がまるごと、奴ら……!」
いつもは冷静なはずのクムミの声が震えている。
ヘルは視界の隅で何かが動いたのに気付いた。
民家の屋根から住民が跳躍している―――人間というよりかは昆虫じみた動き。その跳躍は、八十m以上に及び―――
反射的にヘルは、手でそれを叩き落とした。虫を払うかのような無意識の動きだ。
「あ―――」
勿論そんなつもりはなかった。あまりのことに意識がマヒしていたのだ。
だがそれが彼女を救った。
爆発。
あのままの軌道では、視界が潰されていたはずだ―――巨神のセンサーは頭部に集中している―――が、人間を五十mの巨体で払いのけた精神的ショックは大きい。
「ヤバイヤバイヤバイ…… ! 足元!」
エススの叫びに視界を落とすと、群衆が集まり、まるで鼠の群れが殺到したかのように彼女の足にとりつき―――
一斉に爆発。
それは女神像に致命傷を与えるには程遠い威力であったがしかし、二足歩行で支えられたバランスを崩すには十分だ。
足元は、人型兵器の宿命的な弱点である。
「クッ!」
クムミは咄嗟に彼女の背中側へ。
それは、衝撃波を伴ってやってきた。
街の上空を飛翔、今まさにエススを串刺しにしようとした巨大な投げ槍が、庇ったクムミの右肩を引きちぎる。
落下した腕は街路で跳ね飛び、死相を浮かべた人間たちを押しつぶし、衝撃でレンガや家屋の支柱をまき散らした。
「あああああああっ!」
「動揺から立ち直る隙を与えるな。畳みかけろ」
「了解」
「あ……ガハッ!? ゲホッ、ゲホゲホッ」
「燈火!? 意識が戻った!?」
己の体内で吐血する燈火をエススは気遣う。
「……う」
「何!? 何を―――」
「エスス……嵐を呼ぶんだ……狙撃と相を防げ……」
「分かった、分かったから無理しないで!!」
その日、この地方の降水確率は0であった。
しかしその予想に反し、急激な気圧の低下が起こり、そして―――
ぽつり
水滴が、壊滅しつつある市街地に落ちた。
ひとつぶ。ふたつぶ。
それは最初奥ゆかしく、しかし数秒のうちに激しい流れとして。
同時に、大気の流れも荒々しくなっていく。
こちらは数十秒ほどで、秒速五十mを越え、更に凶悪化していく。
不可視の矢が、雨を裂いて飛ぶ。それはもはや不可視ではない。
タラニスは第三射を危なげもなく切り払った。
「嵐を呼んだか。―――狙撃は中止。指揮所の護衛以外、全神格でかかれ」
「了解」
嵐は、神々の戦いにおける防御の常套手段だ。不可視の相を無効化するだけではない。特にエネルギーを投射する類の相は大幅に減衰され、近接戦闘を余儀なくされる。
跳躍してきた人間爆弾を振り払おうとして、クムミは違和感を覚えた。
その顔に浮かぶのは死相ではない―――人間とは異なるが確かに感情、そして生命力を感じる―――
「!?」
振り払おうとする巨神の手に苦も無く飛び乗ると、そのまま腕を疾走する人間―――否、神格!
彼が振り上げた手の真上に、巨大な―――四十mはあろうかという大剣が出現する。その先が向くのは勿論、女神像だ。
クムミが身を捻るのと、大剣の先端が発光するのは同時。
女神像の左肩が消し飛んだ。
クムミの腕を奪った神格は巨神を召喚。
商店を踏み潰して実体化しつつある五十mの巨体へ、ヘルは踏み込んだ。
大剣が彼女の槍を受け止め―――爆裂。
槍が発する超音波は、あらゆる物質の分子間結合を分解。大型の戦闘艦艇でも一撃で蒸発―――粉砕ではなく―――させる超絶的な威力を持つ。核兵器すら児戯に思えるレベルだ。
それに耐える事は、いかに神の剣でも不可能だった。
「やらせるかああああああああ!」
武器を失った巨神の胴体に槍が突き刺さる。
一拍置いて、その表面が波打ち―――
爆発した。
「ヌアザ、大破。データリンク途絶しました」
「音響兵器か?」
「おそらく」
「分かった。全神格に注意するよう伝達しろ」
「はっ」
空間が揺らめく。
四柱の女神を半包囲するように、多数の巨体が実体化しつつある。
その数は十あまり。
絶望的な状況だった。
リーダーは重傷で、三倍の敵に包囲されており、クムミは両腕を失い、ヘルは初陣。さらに町中に人間爆弾が潜んでいる。
「……頭を潰すんだ……農園……丘陵の陰にいる……」
うなされるかのような燈火の言葉。
その言葉に即座に反応したのはタラニスだった。
彼女は左腕を指示された方向へ向ける。
「!? 総員退避!」
―――何故分かった!?
まさか魔法の域に達した直感である、などとはいかに神でも思いもよらぬ。
神は咄嗟に部下へ命じたが間に合わない。
強大無比な神の雷は、丘ごと指揮所を吹き飛ばした。
「やった!?」
神格たちに動揺が走った。指揮官を倒した―――かと思ったその時。
雷撃で舞った粉塵が暴風と豪雨で流され、そこに立っていたのは―――
「……やってくれたな」
そこに屹立していたのは二体の巨神。女神像と男神像が一体ずつだ。
声は男神像から響いた。
咄嗟に召喚された巨神に守られ、指揮官たる神は無事だった。
無事なのは彼だけで、指揮所にいた部下は全滅していたが。
そして彼は部下想いの男であった。
「部下の仇はとらせてもらう」
「仇――― ? ……ふざけないで! 街の人を、こんな、こんな爆弾なんかに……!」
内側からあふれ出す激情を、ヘルは抑える事ができなかった。
死んだのだ。
街の人々はみんな、死んだのだ。
あの尊い人々の営みは二度と、帰ってこない。
「不良品めが。ヒトに戻れたつもりか? 貴様らなんぞは壊れた機械に過ぎん。危険な分だけ害虫にも劣る」
彼は戦いで無駄口を叩くことはない。唯一の例外は復讐であった。この戦いは彼にとって報復へと変わっていた。
「ははは、愛する男の子を孕む事すらできず、この地上を時が果てるまで彷徨い続けるだけの化け物だ、貴様らは!」
「あ―――」
「この街の住人が死んだのは貴様らのせいだ。危険な伝染病が蔓延すれば、拡大を防ぐために家畜を処分するだろう。それと同じことだ」
「わたし……私たちのせい……そうなの……?」
「ヘル、あいつの言葉に耳を貸しちゃダメ!!」
神の言葉に違和感。
そうだ。そもそもからおかしかった。
何故私たちのことを知った?
どうして燈火を私たちが愛している、なんて分かる?
そこでエススは気づいた。
―――ち、違うよっ!? 燈火は悪くないよ、私たちが子供産めない体なのが悪いんだからっ!
―――え……皆さま。
「まさかあんた、フランを……!?」
「あぁ。この娘はお前たちの友人であったな? ―――紹介しよう。死の神チェルノボーグだ」
骨の色をした女神像が、男神像を守るように立ちはだかる。
その背には幾対もの翼。
両手に構えるのは、長柄の大鎌だった。
「ははは、この娘、我が眷属となる事を恐れて狂乱しておったぞ! ははは、あの表情、貴様らにも見せてやりたかったわ!」
「てんめぇ……!」
「楽しんでもらえたかね、この娘の成したことを。この娘に与えた権能は広域の生体を操作するものだ。本来は生態系の改造用なのだがね。やろうと思えば人体を爆弾にして操る程度、造作もない」
「……悪魔ぁ!!」
「悪魔? 違うな。私が、我々こそが神なのだ。この世界の秩序にして正義!!」
―――おのれ。おのれ!!
多くの神々が死んだ。この私がともにいながら!
この場にいる中で最も新しい神である少女は、怒りと恥辱で胸がはりさけそうだった。
そうだ。そうに違いない。
でなければこの涙はなんだ。この悲しみはなんだ?
巨神の中に遍在する彼女―――神格チェルノボーグの肉体。それは確かに彼女のものだった。
少なくとも今はまだ。
己の内側で、ゆっくりと目を覚ました存在に彼女はまだ、気づいていなかった。
駄目だ。このままでは駄目だ。
今は敵はこちらに付き合って長話をしているが、時間が経てばたつほど不利になるのはこちらの方だ。
敵は増援を呼ぼうと思えば幾らでも呼べる。
死力を尽くせば敵の半分は殺せるかもしれない。だがそれで終わりだ。皆殺しにされる。
―――増援?
ふと閃いた。
途切れそうになる意識を辛うじて繋ぎ、燈火は、かつてフランだった神へと手を伸ばし、声を上げようとして―――意識を失った。
「燈火? ねえ、燈火!?」
その様子はエススとデータリンクしているヘルにも伝わった。
―――燈火さん、何をしようと?
この状況を打開しようとする何かなのは間違いない。
彼女はそれほどまでに、彼を信じていた。
視界の隅に仲間たちの姿が映る。
燈火を呼び続けるエスス。槍を構えるタラニス。両腕が半ば復元しつつあるクムミ。
皆素晴らしい女性たちだった。こんな場所で死んでいい人たちじゃあない。
はっとした。
青年はこう言っていた。神格の支配を打ち破るのに必要なのは確信だ、と。
ヘルは通信回線を敵眷属群へとつなぐ。
「聞いて―――聞いてください」
データリンクされた眷属同士の中に、緊急通信が割り込んでくる。
「貴方たちの中にもし人の心が残っているなら、絶望しないで!」
「何? 何を言って―――」
神は、突如流れ込んできた通信に戸惑った。
「見える? あなたたちの前にいるのは、戦っているのは、神の支配を打ち破ったひとたちなんです」
その言葉に不穏なものを感じた神は、総攻撃を命じようとして―――
「あなたたちだってできるはず。
体を取り戻すことが―――動かし方が変わってしまっただけなの。あなたの魂と肉体は繋がっている」
ヘルの脳裏に浮かんでいたのは、牢獄と化した肉体から出口を探る光景。
それは夢幻か真実なのか。
「今いる場所は迷宮。だけど、出口のある迷宮なの!」
その言葉に動かされた眷属はいない―――否。
敵の中で最も新しい巨神―――死の神チェルノボーグが、その身を震わせた。
「フランさん……!」
ヘルは思い出した。
双子は調整を受けるたびに心がすり減っていった、と。ならば新しい眷属、まだ調整されきっていない不完全な神格ならば。
心がすり減っていない神格ならば。
破局は唐突だった。
―――許さない。絶対に許さない。私はお前を許さない。
自らのものではない思考。
なんだ、これはなんだ!?
死を司る女神は混乱していた。思考が湧き出し、そして制御できない。
―――私は許さない。私は―――"
思考が千々に乱れて行く。いや―――何か彼女の中を占める巨大なものが、彼女の存在そのものを蹂躙し始めたのだ。
激情。魂を殺すのが諦観であるならば、神を殺すのは強い意志。
人類史上二十八番目の神権簒奪が今、起こりつつあった。
骨色の巨神が転倒。しばらく痙攣し、動かなくなる。
―――ヘルの言葉が届いたのだ。
「なっ……っ!?」
鳥相の神は絶句した。
危険だ。
何が起きているのかは分からない。
だがこの女神たちは危険だ!
フランの魂は慟哭していた。
―――苦しかった。哀しかった。
顔見知りの人々をこの手で殺すのを止められなかった。
こんな思いをあの人たちも―――いや、それだけじゃあない。全ての、眷属にされた人々はしてきたのだろうか?
だとすれば、許される事ではない。
神―――否。あれは悪魔だ。
殺さなければならない。滅ぼさなければならない。消さなければならない。
―――だから、お前は死ね!!
死の女神―――眷属チェルノボーグの自我。それは断末魔すらも残さず消し飛んだ。
同時に、主を失った巨神が制御を失う。
動け。動け!!
だが、構造を維持するので精一杯。戦えない。これでは―――神を殺す事ができない。まだ生きているあの人たちを救えない!!
自我の再構築が必要だった。砕いた眷属の魂。その全てを吸収するための。だが、そのための時間が今はない。今戦い、おじさまたちを救わなければ私はまた肉体を奪われる。連れ帰られ、またあいつが生き返ってしまう!!
どうすればいい?動くものは、使える武器は―――!
あった。
見つけてしまった。
視界の隅。
自らが殺し、動く死者へと変えてしまった人々。
街の人々が、こちらを見ていた。
魂のない屍のはずなのに、じっとこちらを。
フランは―――かつてそう呼ばれていた女神は命じた。
逝け―――と。
頷いた。
死者の軍勢が、確かに頷いた。
「―――っ! かかれ!」
鳥相の神の命に従い、十体を優に超える巨神が女神たちへと襲い掛かった。
弓を構えた不可視の女神像が、熊の毛皮を纏った漆黒の闘士像が、透き通った甲冑を纏い槍を手にした戦士像が、それぞれの得物を手に踏み込み、あるいは矢を放ち、あるいは己に与えられた相の異能をもって挑んで来る。
まさしくその瞬間、神像群の足元で爆発が生じた。
踏み込もうとした瞬間に足元が爆発すれば、運命はただ一つ。
すなわち転倒であった。
矢が狙いを外したところに雷撃が命中し、斧を持った闘士はたたらを踏んだところを矛に両断され、槍からは光を発することなく、その持ち主ごと隆起した岩盤に押しつぶされた。
フランの命に従い、死者が跳ねた。人間離れした跳躍力で死者たちが跳ねた。
老婆が、少年が、鍛冶屋の親方が、恰幅のいい商人が、みんなみんな、眷属たちへと飛びかかり、とり付き、その体組織を急激に変質させ、化学的エネルギーすべてを開放――自爆した。
使える武器は無数にあった。何しろ町一つ分の死者だ。
その全てが、神々の軍勢へと襲い掛かった。
チェルノボーグは、死者の挙動を自動化していた。その行動を直接制御するのは現実的ではないからだ。コマンドさえ送ればあとは、死者たちが自律的にそれを実行する。故にフランは命じるだけでよかった。
少女には見えていた。コントロール下にある、すべての死者の視覚が。五感が。敵にぶつかり、そして途切れる一つ一つの肉体感覚を、拡張された彼女の頭脳は全て受け止めていた。
―――ごめん―――なさい―――
殺してしまった人々よりも、まだ生きている友人たちの方が大切だった。
だから使う。
母と父がこちらを見ていた。
それは彼女の正気を守るために生じた狂気が見せた幻覚だったのかもしれない。
両親は微笑み、そして敵に挑みかかり、そして―――
「何が―――まさか!?」
義眼を持つ神は、己が座乗する神格から、痙攣している女神像を見やった。
「まさか―――チェルノボーグ、貴様か!?」
―――なんということだ。まさか神格の故障は感染するのか!?
「やむを得ん、アレスよ、チェルノボーグを破壊せよ!」
神格に命が下った。
女神たちは何が起きているのかを、即座に理解していた。
街を埋め尽くしていた死者の軍勢が突如、敵眷属群に襲い掛かったのだ。
「切り崩せぇ!」
エススの叫び。
一体一体の爆発は大したことはない。眷属の巨体に致命傷を与えるには程遠い。
だが牽制するには十分すぎる。
爆発で視界を潰された眷属の胸へと槍を突き刺すと、タラニスは全力の雷撃を流し込む。上半身が蒸発。さしもの眷属と言えども即死だ。
クムミの操るいくつもの岩の咢が地中より身を起こす。建造物の残骸を跳ね飛ばしながら伸びたそれは巨神を磔にし、そこへ刃が突き込まれ、何度も何度も引き回す。
眷属の絶叫。
エススが咆哮を上げ、己の相を振り絞る。
「おらぁあああああ!」
渾身のハリケーン。ゴミが、看板が巻き込まれて飛び交う。四本ものそれが神格を捉え、ミキサーのようにすりつぶし、破壊する。
自らも槍で神格を唐竹割にしたヘルが、今まさに剣を振り下ろされようとしている骨色の女神像に気付いた。
―――ああ。ここまでですのね。
センサーに捉えられている敵の刃に、フランは己の運命を悟った。
―――でも、これで皆さまは助かるはず―――お願いします。仇を、私たちの仇を、討って―――
「させる、もんかあああああああああああ!」
投じられる槍。
それは衝撃波で市街地と大地を軽々めくり上げ、音速の実に十二倍もの速度で飛翔。男神像―――神の座乗するアレスの胸板を貫いた。
「おおおおおおお!?」
槍を受けた眷属は吹き飛び、何百メートルもバウンドしてようやく止まった。
アレスは指揮官警護用にカスタマイズされたオリュンポス・モデルと呼ばれる神格であった。
その強靭さと反射神経はずば抜けている。でなければ、八百トンを超える長槍を受けて生きていられるはずもない。
だが。
一歩。
二歩。
三歩目で音速を超え、揚力で浮き上がりそうになる体を翼が逆に大地へ抑えつける。
ヘルの操る銀色の女神像は、超音速で敵首魁へと駆け寄った。
「くっ、ここは引くぞ―――!」
命令に従い、よろけつつも立ち上がったアレスは飛び上がろうとする。
まだ距離はある。
迫る女神像から主人を守ろうと、生き残った眷属たちが立ちふさがった。
いや、立ちふさがろうとして、もはや残りわずかとなった人間爆弾がその体に取りついた。
爆発。
バランスを崩し、あるいは視界を塞がれ、そこへ岩の龍が、風が、雷撃が襲い掛かった。
まるで自分たちの仇を討て―――そう、死者たちに言われている気がして、ヘルは勇気づけられる。
「おおおおおおおおおおおお!」
もはや敵の首魁は眼前だ。
敵の胸に生えたままの槍をつかみ直す。返しがついた槍は主の命がない限りは抜けぬ。
ヘルは己の内から力を絞り出した。
その体が脈打ち出す。
キィィィィィィィィ……
重低音。
それは凄まじい勢いで高くなりまた低くなり、調整され、敵の固有振動数と同調し―――
一拍後。
敵神は粉々に砕け散った。
完膚なき破壊である。
勿論、即死だ。
そのほんの数十分後、神々の救援部隊が見たのは、跡形もなく消し飛んだ街と、原型をとどめない周辺の地形だけだった。
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