【蛇の女王】3
都築燈火は、あの忌まわしき遺伝子戦争以前、まだ地球が概ね平和だった時代に生まれた。
日本のある地方都市で、何の変哲もなく育ち―――
あの日、戦争が勃発した。
世界各地で二つの世界を結ぶ門が開き、異世界の軍勢が地球へとなだれ込んできたのだ。
運悪く、燈火の住居は門のすぐ近くだった。
門の多くは人口密集地に開かれる。
ヒトを狩り集めやすいように。だがそれだけではない。
人口密集地―――都市であるということは、神々が拠点を築きやすい重要な立地である、という面もあった。
当時十歳ほどだった燈火も連れ去られ、収容所送りとなった。
あの時、生物学者であった父は出張で街におらず、母とは朝、家を出かけた時以来、結局会えなかった。
一緒に遊びに出かけていた兄は、運がよければ逃げ延びたはずだ。
時折やってくる、新たな捕虜の語る処では、人類も神々の兵器を鹵獲し、自ら運用し出したらしい。なんと神格すらも。
人類は勝てるかもしれない。勝っていつか助けに来てくれるかもしれない。
そんな淡い希望があった。
そんなある日、燈火は兵士に連れられ、病院のような施設へ送り込まれた。
検査があり、注射を打たれたり、手術されたりしたこともあった。
そして―――
『はじめまして。私は、ヘル。今日から、あなたのお世話をさせていただきます』
『は、はじめまして! 僕は―――僕の名は―――都築燈火』
燈火は、出会った。
ヘルと名乗る、美しい眷属と。
当時彼女は燈火の監視役兼世話役だった。燈火は遺伝子を操作され、ある要人の肉体になるのだ、と。彼女は語った。
燈火はヘルを見て不思議に思った。この人はなんで心が二つあるのだろう?
それが、始まりだった。
カスミ。それがヘルの素体となった女性の名である。
黒髪が美しい、二十を過ぎた日本人女性だった。
彼女は長い時を魂の牢獄で過ごしていた。
もう一人の自分自身―――ヘルという分身が、己の肉体を奪っていたから。
孤独だった。
諦めの中にいたカスミはしかし、ある時外の世界より呼びかけられた。
『お姉さんの中にいる、もう一人とお話したいな』
―――私が、見えるの?
『うん。あなたはそこにいるじゃない』
燈火の呼びかけで生存への意欲を復活させたカスミは、全知と全能を持って、かつて諦めた事業―――肉体の制御の回復に取り組んだ。
それは成功した。―――ヘルへと呼びかける事に成功したのだ。
史上二十四番目の奇跡。
だが、彼女はここで、他の事例とは異なる挙に出た。
―――あなたは私の分身。だから―――お友達になりたいな。
ヘルという人格は殺されなかった。それ故に彼女は異常を発現せず、幾度かの定期検査とメンテナンスすら乗り越えた。
生まれたばかりのヘルという人格は、カスミを姉のように慕い、カスミもヘルを慈しんだ。
神権の簒奪ではなかった。
史上初めて、女神の姉となった女性。それがカスミだった。
その後。
燈火とカスミ、ヘルの三名は絆を深めていった。
樹海へハイキングに行き、小川で水浸しになったり。小高い丘の上から、夕焼けを見たり。施設の屋上で、流れ落ちる流星雨に感動したり。
だが、それにも終りが訪れる。燈火が、神の肉体となる日が来たのだ。
カスミは泣いた。燈火は諦めと共に運命を受容し、それを慰めた。
二人の人間に、運命を変える力はなかった。
だが。
彼らが築き上げて来た絆には、その力はあったのだ。
女神であるヘルには、それができたから。
彼女は神々を捨て、二人の人間を選んだ。
脱走を試みたのは、地球とは異なる、砕けた月がいくつも出ている晩だった。
医療施設―――地上の、神々の街の外れに建てられたそこは、門から遥か後方、最前線から遠い平和な地であった。
門を潜る。
それしかなかった。
地球への旅路は過酷極まりないものだった。
十を超える神格を、カスミとヘルは倒した。彼女たちは恐るべき手練れであった。
この時期の神格は、神のクローンがベースの個体が多数存在していた。敵は古い―――すなわち経験豊富で老練な個体ばかり。
樹海を抜け、海を渡りそして、門を目前としたところで―――奴に出会った。
蛇状の巨神に跨る、女神を模した強大な眷属に。
「ねえ、分かる?
私は他の眷属のように肉体を奪われたわけじゃあないの。
ただ、首輪はつけられていた。
従えば快楽が、逆らえば苦痛が。
犬のように服従が組み込まれたの。
貴方たちのことを初めて知った時、私、あなたたちが妬ましかった。
何故。どうして。同じ人間なのになんで、あなたたちは自由になって、私は自由になれないのって。
ねぇ、都築燈火。
どうしてあなたは、お姉さまを救ったのに私を救ってくれないの、って。
勿論無理だったのは分かっている。
けどね。けどね」
アスタロト。そう名乗る彼女は、自ら巨神の外へ姿を見せた。
その双眸は、何もなかった。虚ろが支配しているその異形に、燈火は心底恐怖した。恐怖しつつ―――それすらも救おうと叫んだ。
「なら―――なら、僕たちと門の向こうへ行こう!自由になるんだ!君だって自由になっていいんだ!!」
「もう遅いの。私はお父様には逆らえない。
お父様に付けられた首輪は、私の心が完成した時に外れた―――そう、外れたの。
でもね。見えない檻が私の心を阻むの。
私を縛る鎖は、私の魂そのものに深く、もう食い込んでいるんだから……
だからね?
私を止めたければ、私を殺して」
彼女は泣いていた。肉体は涙を流していなかったが、その魂は慟哭し、血の涙を流していた。
ヘルの後継機であるアスタロトは強かった。途方もなく。
二つの巨神を同時に操る彼女を倒すことはできなかった―――門を目前として、二人は敗北を余儀なくされた。そして。
「……ねえ、燈火」
「うん」
「私は、もう死ぬ。助からない」
「うん」
巨神は均一構造だが、原則的に武装と甲冑は外部構造体である。故に破壊されても次々と代わりを出せばそれでよい。そちらまでに神格が遍在するわけではないのだ。通常は。
それを逆手に取り、槍へと遍在。抜け殻の巨神を残して、三人はアスタロトから逃走する事に成功していた。それはまさしく絶技だった。
だが。
―――カスミ/ヘルの頭は、半分消し飛んでいた。蛇に散々振り回され、巨神の損傷が限界を超えたためだ。それでも意識があったのは、眷属の驚異的な生命力のおかげだった。
それとても、無限ではない。
「私の中から出てくる神格を持って行きなさい。きっとあなたの役に立つ」
「うん」
同乗していた燈火が無傷だったのは、まさしく奇跡であったろう。
銀の女神とその姉は、命を懸けて少年を守ったのだ。
「ありがとう。私を見つけてくれて。私を解放してくれて。……そしてヘル。あなたもありがとう。私に付き合ってくれて。
元気でね、二人とも……」
それだけを言い残して、彼女は事切れた。
頭部の断面から這い出て来た銀色の蝶は、まるで死んだ彼女たちの魂のようでもあった。
それがヘルの本体だった。彼女は、自らを分泌液の結晶に閉じ込め眠りについた。
樹海の中、穴を掘って、遺体を埋めた。
泣いている暇はなかった。生きなければならなかった。死んだ彼女のために。
復讐しなければならなかった。
己自身のために。
その日の夜。彼は門が閉じるのを、遠くから見た。
地球側から撃ちこまれた熱核弾頭が、こちら側にある門の展開施設を焼いたのである。
退路が断たれた事を、彼は知った。
もう助けは来ない、という事を、彼は本能的に察した。
◆
「……これが、君の―――神格と、僕にまつわる物語。あとは知っての通りさ。この世界を放浪して、仲間を集めて……。」
そして、都築燈火という青年の長い語りは、終わった。
かつて食堂だったであろうスペースで、皆はあんこう鍋を囲んでいた。
潮汐力発電が復活して電気が通うようになったこの施設は、綺麗にすることこそ骨が折れたが、それを差し引けば快適だった。
皆が黙って話を聞いていた。
フランも、そして当事者であるヘルも、既に知っているはずの双子やクムミも、いつしか箸を止めながら聞き入っていた。
ここにいる皆が、壮絶な物語を背負っていた。
いや。
この世界に住むすべての人々が、物語を背負っているはずだった。
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