31 魔法があれば、魔法があっても
静まり返る部室。待っても待っても、何度電源を入れ直しても、いつもの起動音は聞こえてこない。
「……久瀬先輩」
反射的に「部長代理」の肩書に
「原稿のデータは……みんな家よね」
久瀬さんが見渡しながら聞くと、全員が無言で軽く頷く。
原稿のデータが完全に消えたわけじゃない。ただ、昨日までのうちにUSBでこのパソコンにデータを移し、ここで編集していた。元のデータは、部員の家のパソコンの中。
それに表紙や目次、編集後記はこのパソコンで作っていたから、漆黒のモニタの中にうずくまったまま。
「何で、何で……何で…………」
「一悟さん……」
誰にでもなく呟く俺の問いかけに、美都が名前を呼ぶ。その声は、やけに遠く聞こえた。
なんだ、なんでこんなことになったんだ。確かに古いパソコンだったけど、何もこのタイミングで使えなくなることないじゃないか。
どうすればいい、どうすればいい。印刷所に持っていくまでもう10分もない。原稿を取りに帰ってもらう? 久瀬さんのパソコンにメールで送ってもらえばいい?
或いは職員室の先生宛にでも送ってもらおうか。いや、どのみちダメだ。印刷所には散々交渉して18時にしてもらったんだ。家まで1時間以上かかる人もいる。間に合うわけがない。
どうしたらいいんだろう。どうすればいいんだろう。終わりなのか、あんなに頑張って準備してきたラン・ドッグを発行できないのか。
大体なんで壊れたんだ。今まで大丈夫だったじゃないか。誰か叩いたりしたんじゃないのか。クソッ、なんでこうなるんだよ。
煙のように実体のない苛立ちが心に積もって、吐き気すら覚える。
「…………ああああああっ!」
周りに朱夏や久瀬さんがいるのも構わず、声をあげる。そうでもしないと、膨れ上がった自分への怒りで体が破裂でもしそうだった。
なんでバックアップを取らなかったのか。このパソコンが危ないことは知ってたはずだ。それなのに対処しなかった。バカだ、自分のバカさ加減に呆れる。バックアップを取るか、今年の春に無理してでも新しいパソコンに替えておけば良かった。
新しいパソコン。
そうだ、あのとき美都の提案を聞いておけば良かった。魔法で安心を手に入れられたはずなのに、自分達だけの力で作りたいなんて言って、今こんな苦境に立たされている。
何だ、俺のせいみたいなもんじゃないか。俺のせいか。俺のせいだ。俺のせいなんだ。
そして、脳内は勝手にイチ姉を映し出す。イチ姉に比べて俺はどうだ。肝心なときにこんな不運に見舞われて、まるで彼女と真逆で、こんな惨めなことがあるか。
ふいに襲ってきた切なさ。ラン・ドッグを発行できないという絶望感と不幸な境遇に、喉の奥がキュッと締まり、圧縮された空気は泣き声に変わりそうだった。
「うあああ、どうしよう!」
朱夏が叫び声交じりに髪をグシャグシャ掻き毟る。
「ユメちゃん、どうしよう! ラン・ドッグ出せないよ! あんなにやってきたのに!」
「落ち着いて朱ちゃん。とりあえず印刷所にキャンセル入れよう。今からじゃどうやっても間に合わないし、待たせるのは悪いから。その後にこれからどうするか考えなきゃ」
そう言っている久瀬さんも、明らかに動揺していた。
ざわつく部室。萎れる陽、険しい顔の美都、泣き顔の後輩、完全なパニック状態だった。
「もしもし、本日印刷を予約していた珠希高校の文芸部ですが……」
久瀬さんが電話している横で、何かをしようにも何もできずに立ち尽くす。
自分が昨日パソコンを新しくしてれば、こんなことにはならなかったのだろう。
積乱雲のように立ちこめている想いに頭を押されて俯く。
しかしその時、ふと、ある考えがよぎった。
「美都、ちょっといいか」
「え、あ、はい……」
廊下の外に呼び出す。
「魔法でパソコンって直せるのか?」
「ええ、直せますよ」
即答する美都。
なんだ……なんだ、簡単じゃないか。こんな、こんな楽な方法があったんだ。
魔法申請して、たまたまパソコンが直ったことにして、いままでの悲痛なムードをかき消そう。今なら印刷所にもお願いし直せるかもしれない。
「よし、それじゃ――」
言いかけて止まる。なぜか次の言葉が出てこない。
心のどこかが
本当に直していいのか。
直せれば全て解決だ。何も気にせず、何も気にかけず、ラン・ドッグは完成するだろう。
でも、それでいいのか。自分達の失敗を魔法でチャラにして、のうのうと製本して良いのか。いつか回想して「素敵な思い出」と言えるのか。朱夏や陽や久瀬さんと笑って話せるのか。
あと一歩で解決できるはずなのに、欲しくもない秘密を抱えてしまう気がして。申請することが最善だと理屈では分かっているのに、望まない幸運のような気がして。
望まない幸運。この言葉で、不思議とイチ姉のことが浮かんだ。
本当のところは分からないけど、イチ姉には魔法がかかったことがあるような気がする。陸上の大会で自己ベストを出したときか、演劇で脚本と演出を担当することになったときか、高校に推薦で入ったときか、ひったくり犯を捕まえたときか。いつかは分からないけど、天使から幸運をもらったような気がする。
でもそれは、イチ姉が望んでいたことなのか。
自己ベストが出れば、先輩から嫉妬されて知らない監督から期待されて。
演劇の大役を任されれば、クラスメイトに無責任に重圧を背負わされて。
「……イチ姉、辛かったのかな」
大きく話題を変えて独り言。それでも美都は思考の経路を読み取ったようで、フッと穏やかに笑った。
「辛かったと思いますよ。期待されっぱなしなんて」
まるでハードルのように置かれた期待を、イチ姉は毎回乗り越えてきた。
比較されることに耐えられなかった俺は部活から逃げたけど、イチ姉は誰からも何からも逃げずに、文句も弱音も言わずに周りに応えている。
「ひょっとしたら私達天使は、一菜さんに魔法をかけたかもしれません。花織か陽咲か分かりませんけど、成功すれば賞賛や喝采を浴びるような舞台を用意したのかもしれません。でも、そこからずっと結果を出し続けられるようにする魔法なんてありませんから」
思い出してみれば、いつもイチ姉は必死だった。大会の前は夜遅くまで練習して、文化祭のときは喚きながら脚本を直して、生徒会では朝になるまで資料を作っていた。そして、ハードルを超えたらもっと高いハードルを用意される。
過剰な期待、机上の評価と共に。「アイツは才能があるから」「運が良いから」そんな言葉で片付けられるのは、どんなにしんどいのだろう。
「多分、みんなそうなんですよ。『たまたまうまくいった』なんて人、すぐに化けの皮剥がれちゃいますもの。そう思われないように、期待外れにならないように、一菜さんだって他の人だって全力で食らいついているんだと思います」
イチ姉を羨むといつも「そんな良いもんじゃないよ」と笑って返していた。それはきっと、謙遜ではなくて本心に違いない。弟の俺に見せた、彼女の本心。
今もイチ姉は一生懸命戦っている。俺は逃げるために魔法を使うのか。借り物の幸運で、偽物の思い出を作り上げるのか。
やれないはずがない。イチ姉が自分の力で道を切り拓いてきたのだとしたら、双子の弟の俺に出来ないはずがない。
「一悟さん」
今まで見たことないような優しい大人の目で、美都が俺を見た。
「魔法、申請しますか?」
「いや、しない。自分達で何とかするよ」
今度はあどけない表情でニパッと微笑む。
「ふふっ、多分そう言うと思ってました」
手にしていたパソコンを鞄に戻しながら、美都は続ける。夕焼けに包まれた巫女服はジャケットの下でもしっかり朱色に染まる。
「この仕事を始めてから、色んな人の願いの声を聞いてきました。魔法でも絶対不可能なことから、自分がちょっと頑張ればできることまで、本当に色々。でもなんとなく分かってきたんです。自分達がやりたくてやってることって、トラブルがあっても助けを求めたり何かに縋ったりしないんですよね。『自分達が始めたことだから、自分達で何とかする!』って、そんな強い想いをいつも感じます。スポーツ選手がケガをしても、神様に祈るだけじゃない、絶対リハビリして戻ろうって闘志を燃やす。役者志望の人は、何回オーディションに落ちてもめげずにまた受けに行く」
回想するように目線を上げる。頭上の輪も傾いて輝き、何だか天使のように見えた。
「一悟さんにとって、それはここなんですよね。陽さんや朱夏さんや悠雨さんがいるこの部活が好きで、自分達の手で作ったラン・ドッグを読んでもらえるのが楽しみで、そこは魔法を持ち込みたくない世界なんですよね」
「……だな」
心に暗がりをつくる積乱雲にスッと晴れ間が差し込み、口元が勝手に綻んだ。
さて、魔法のない世界で、どうするか考えるとしよう。
美都からメモ帳とボールペンを借りて、1人作戦会議を始めた。
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