28 彼女はいつだって幸運に囲まれている
「くそっ……待てよ……」
息を切らしながら、ショッピングモールを出て住宅外に向かう。
高校生3人が数分走っても追いつけず、100メートル先を行く犯人との距離は縮まらない。
キャスケットを目深に被りくすんだ白のジャケットを着ている名も知らぬ犯罪者は、相当な脚力と持久力がある。
「誰か、捕まえて! そいつ、ングッ、ひったくり!」
俺の後ろを走る朱夏が、
彼女の掠れた声に気付く人はおらず、周りに人も少なく、捕まえてくれるスーパーマンは現れそうにない。
中学まで陸上をやってたとはいえ、引退して日は長い。
犯人は無言のまま走る。逃げるために、手かがりを残さないために、黙り込んで走る。
「おい……誰も来な……いのかよ……」
横で並んで走る陽が、天を仰ぎながら口を開く。
追っているのは俺達だけ。後は警察にお任せなのか、無関心なのか、もう追い付けないと諦めたのか。
陽も朱夏も、そして俺も、ストライドが小さくなってきた。どんどん距離は開いていき、今曲がられたらもう見失ってしまうかもしれない。
「捕まえろ……誰か捕まえろ!」
こんなものか。走って捕まえるなんて漫画の世界だけの夢物語で、不幸はそんな簡単に覆らなくて。所詮こんなものか。
下を向きそうになったときに後ろから聞こえた、聞き慣れた声。
「オッケー! 一悟、逃がさないよ!」
俺の姉貴。イチ姉。
何でイチ姉がここに? いつから追いかけてきたんだ? 浮かぶ幾つもの疑問は、疲労にかき消されていく。
「一菜さん!」
朱夏が叫んでいるのを耳にしつつ、横に並んだ彼女の顔を見る。
俺達と同じ距離を走ったとは思えないその爽やかな表情は、苦痛に歪んでいるであろう自分を叩きたくなるほどだった。
「お、アイツだな」
すぐさま俺と陽の前に出て、ペースを速める。
「頑張れ、一菜さん!」
声援を送る陽と一緒に必死で追いかけようとするが、枷を付けたかのような足はもう上がらない。イチ姉の加速と三人の失速が重なり、遠く遠く離れていった。
「イチ姉、頼むっ!」
追いつくのを諦め、エネルギーを声に変えて飛ばす。その精一杯のエールに返事するかのように、イチ姉も叫んだ。
「うりゃっ!」
「ぐわっ!」
遥か先に遠くに見えるイチ姉がタックルをかまし、2人はドサッと地面にうつ伏せになる。韋駄天の犯人の上に、イチ姉が覆いかぶさっていた。
遂に止まった目標物に向かって、3人で力の限り走る。
転がっている犯人は観念したようで、横になったまま動こうとしない。30代前半くらいに見える茶髪の男性。胸元には、女性もののバッグが2つ。1つは蜜ちゃんが持っていたであろう、キャラメル色のショルダー。
「ありがとうございます、一菜さん!」
陽と朱夏、2人で声を揃えてお礼を言う
「なんのなんの。ふう、にしても結構足速いですね」
黙ったままの犯人にあっけらかんと言う。
「イチ姉、何でここに?」
「ああ、私もショッピングモール行くって話してたじゃん? で、ひったくりの話ちょっと遅れて耳にしてさ。『あっちの方行った!』って教えてくれた子がいたから走ってきたわけよ」
遅れてスタートしたのにすんなり追いついたのか。
「でも急にタックルなんて危ないだろ。抵抗されたらどうする気だったんだよ」
「ん、まあ刃物でも持ってれば振り回して威嚇するだろうと思ってたしね」
何もなかったんだし良かったじゃん、とピースしながら笑った。
「よし、こうしてても仕方ないし警察呼ぼっか。モールにいた人が電話したかもしれないけど、この場所までは分からないだろうし」
「あ、ああ……」
こんな状況にもたじろがず、警察に電話するイチ姉。
警察が来てからもハキハキと受け答えし、俺でさえ始めからイチ姉がいたかのように錯覚してしまう。
「ありがとう、ありがとね」
警察とほぼ同時に、ひったくりにあったおばさんが来た。しっかり握手しながら、イチ姉にお礼を告げる。
そしてもう1人。
「お姉さん、ありがとうございます! 助かりました!」
「蜜ちゃん、久しぶりだね。大人っぽくなった!」
褒められて笑う蜜ちゃん。昔と同じようにお姉さんと呼びながら、楽しそうに笑う。
「蜜、良かったな! オレはお前に何かあったらあの犯人をどうしてくれようかと……」
「もう、お兄ちゃんは黙ってて! お姉さん、ホントにありがとうございます。吾妻さんや反野さんも、ありがとうございました」
「あ、いや、俺はほら、何にもしてないから、へへ……」
ペコッと頭を下げる蜜ちゃんに、何も言えない。これ以上言えることがない。
本当に、何もできていないから。
「いやあ、お見事だね」
「ホント、よくこんだけ走って捕まえたよ」
「いえいえ、たまたま陸上部なもんで」
2人の警官に褒められるイチ姉。その場の全員が、彼女に感心し、彼女を称賛する。
こんなステキな姉がいる。それをとても誇りに思い、そして弟の俺は何となく居場所を探してしまう。
「モール来てひったくり捕まえるなんて、なんかスゴい運だな、イチ姉」
「そうかな? どっちかっていうと運悪いんじゃない?」
一悟もひったくり犯見たんだし運良いのかもよ、と冗談っぽく笑うイチ姉に、オブラートに包んだ皮肉を投げ返す。
「いやいや、俺は小学校の陸上大会のときから思ってたよ。イチ姉は『持ってる』って」
「だーかーら、そんな良いもんじゃないっての」
俺の肩をトンッと叩くイチ姉。
でも「持ってる」以上に良いことなんてそうそう有りはしないじゃないか。
「そんな良いものじゃないよ、ホント」
呟くように彼女が繰り返した言葉は、脳で咀嚼することなく消えていく。
陽や朱夏や蜜ちゃんやにさらっと挨拶をし、警官に説明を終えて買い物に戻ったイチ姉とも別れる。
美都と琴さんに合流しないで帰ると連絡して、静かに家路についた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
トテトテと玄関まで迎えに来てくれる美都。
「随分遅かったですね。先に帰ってるのかと思いました」
「ああ、ちょっとな」
まっすぐ家に戻る気になれず、イヤホンで耳を塞いで、ふらっと近くの住宅街を回っていた。
「でも、一菜さんが捕まえたんですね! 無事蜜さんのバッグも取り戻せて何よりです。ひったくりって聞いてビックリしましたよ!」
「しかもちょっと桜から聞いた話じゃ、時原陽と反野朱夏でちゃんと書店デートしたらしいじゃないか。まあ久瀬悠雨も一緒だったらしいが。タマコンの狙いも半分は達成できたというわけだ」
「浅葱さん、お疲れさまでした!」
美都と琴さん、2人でハッピーエンドのストーリーを明るく話す。
何も間違ってないけど、今の自分にはちょっとキツかった。
「美都」
「はい?」
「魔法って、やっぱり残酷だよ」
「……へ? 一悟さん、今回のひったくりは魔法じゃないと思いますよ?」
軽く首を傾げる美都に、肺の中の空気を全て吐き出す。
「そうなのかもしれないけどさ」
疲れた。体も心も摩耗して疲弊した。
「……イチ姉は幸運だな、ってさ」
「ううん、そうですかね……って一悟さん、あの、浅葱さん帰るそうですよ!」
「タマコン、世話になったな。また夕飯食べに遊びに来るぞ」
「ああ、ありがとうございました……」
気力のない会釈をして自分の部屋に戻る。ベッドに伏して、枕を顔で潰す。呼吸が浅くなり、思考が朧げになっていく中で、静かに静かに、心は沈んでいった。
この町の人にかけられた全ての魔法を、美都が把握しているわけじゃない。陽咲神社の天使も魔法を使ってるだろうから、調べることもできない。
でもきっと、イチ姉には幸運の魔法がかかっている。小学校のときから今日まで幸運に恵まれている彼女は、これまでに何度も、その恩恵を受けているに違いない。
いつだって皆から注目され、良いタイミングで良いことに巡り合う。誰からも称賛されるイチ姉が自慢で、自慢で、同時に鈍い嫉妬で胸の奥が淀む。
消そうと足掻くほど、その感情はアイスティーに落としたミルクのようにじっとりと混ざり合っていった。
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