16 雨に笑えば

「わーるーい、朱夏。とりあえずかーえーるーぞ!」

「おう、かーえーろー!」


 歩道に停めてある自転車のタイヤも埋まりつつある。風は音を残して街を駆け、液体状の巨人に叩きつけられるように雨が地面に向かって走る。


 この世の終わりのような風景の中、今日買った古本と「催眠学園」、携帯と財布をビニール袋にしっかり入れて口を閉め、両手で守りながらゆっくり歩みを進める。


「どこも臨時休業だなおい」

「仕方ないよ、この雨だもん」


 いつも開店休業中の小さな喫茶店、夜遅くまで開いている定食屋、どの店もシャッターを閉めていた。


 セロハンテープと紙が少しだけ残っているけど、「悪天候により臨時休業」とか書かれていたのだろう。紙本体はもうどこか遠くに飛ばされているに違いない。



「朱夏、あそこで休むぞ」

 ちょっとだけ風が凪いで話すのが楽になった。近くの潰れた金物屋、壁から突き出しているアーケードに走り込む。


「ふう、ひどい雨だな」


 半日分、12時間分の雨を降らせてるんだ。このくらいの勢いは当然なんだろうけど。


「財布とか大丈夫だったか?」


 ムダな抵抗だけど、びしょ濡れの頭をびしょ濡れのシャツの袖で拭きながら朱夏を見る。


「あ、あのね、イッちゃん、ちょっとその、あんまり見ないでほしいな、なんて……」

「どした、どこか汚したの――」


 いつもよりちょっとしおらしい口調に驚きながら横を見る。水色のワンピースが透けて体に張り付き、白ドット柄のピンクのブラジャーがくっきり見えていた。


「わわわっ!」

「あ、わ、ご、ごごごごめん!」

 手で前を隠す朱夏。


「わ、わわわざとじゃないぞ!」


 久瀬さんの下着を透視したいなんて言ってたって、実際はこんなもん。幼馴染の下着1つでまともに話せなくなる。ううん、なんと情けない。


 で、でも、体の形ハッキリと分かったな。やっぱり朱夏の胸は色々ヤバい。あんな下着も初めて見たし、やっぱりちょっとずつ女子になってるんだなあ。小学校のときにスカートの中に顔入れてふざけてたのが懐かしい。


 ……っていかんいかん、気を逸らせ! 雨の音を聞いて精神統一だ。



「ま、まあイッちゃんなら、見られてもヤじゃないけどさ」

「…………へ?」


 何だ? 今、何て言った? なんかスゴく気になるニュアンスのことを言われた気が。

 朱夏の言葉が脳内をスーパーボールみたいにバウンドする。


 と、次の瞬間、勝ち誇ったような口調に変わった。



「……なんてね! そりゃあ、幼馴染だもん、今更恥ずかしくないし! アタシもっと恥ずかしいイッちゃんのカッコ、何回も見てるし!」

 ……なんだ。そういうことか。


「そんなこと言ったらこっちだって、いっぱい恥ずかしいカッコ見てるからな!」

「ククク、お互い秘密を握ってるというわけですな」

「ああ、もはや運命共同体だぜ、仲良くやろう」


 少し黙った後、2人で噴き出す。こんな天気の中、何言ってるんだか。


 良かった、いつもの朱夏だ。突然変な言い方するから焦るじゃないか。

 頬を赤くして深呼吸する朱夏。なんだなんだ、笑いすぎたのか。


「しっかし、しばらく止みそうにないな」

「うん、二の腕に増えるワカメ張っておけばペタッて張り付いてイイ感じに興奮する!」

「お前どんだけワカメ好きなんだよ!」

 ホントにいつもの朱夏だな。さっきの緊張返せよ。



「でも確かに、さっきより強くなって……ハ、ハ、ハックシュン!」

 手で口を押さえながら大きくクシャミする。


「寒いか?」

「このワンピ結構薄くてさ。上着持ってくれば良かったよ」

 言いながらまたクシャミをする。


「ちょっと待ってな」

 水色のシャツを脱いで、雑巾絞りする。

 ドジャアッと水が切れて、ヨレヨレの上着が出来あがった。


「これ着てろ。暖かいってわけじゃないけど、着てないよりマシだと思う」

「え、え、いいよ、イッちゃんも寒いでしょ?」


「いいんだよ、大した距離じゃないから。その代わり、ここから全力で走るぞ。帰ってシャワー浴びて、『催眠学園』読もうぜ」

「……うへへ、ありがと。おう、読もうぜ読もうぜ!」


 ニンマリして、シャツに腕を通す。

 パアッとした表情は、見てるこっちもアドレナリンが出る。天性の才能だな、きっと。


「よし、んじゃ行くぞ!」

「おう! イッちゃん、ダッシュ!」


 1歩歩くたびにバシャバシャと水たまりが揺れて踊って、車も自転車も走ってない道路を追い風に乗って走る。


「朱夏、あと5~6分か!」

「うん、そのくらい! かっ飛ばせ!」

「うおおおおおおおおおお!」


 久瀬さんのために晴天をお願いしたのに、結局こんなどしゃ降りになって、魔法なんて全然思い通りにならなくて、それが無性に可笑しかった。





「イッちゃん、これありがと」

 朱夏の家の前で、グジャッと絞ったシャツの塊をもらう。


「どういたしまして。風邪ひくなよ」

「また行きたいね、古本市。陽ちゃんやユメちゃんやミッとんとみんなでさ!」

「こんな天気だったら勘弁だけどな」

「いやあ、これはこれで楽しかったよ、わははは」

 ちょっと背伸びをして肩を叩いてくる朱夏。


「またな」

「うん、また月曜!」

 シワだらけの服を着て、まだ勢いの衰えない雨の中を家に向かって疾走した。




「ただいまー、うおー疲れた。美都、ちょっといいか」

「あ、は、はい」


 玄関先でドアの方を向きながら座り込み、靴を脱ぎつつ美都を呼ぶ。

 うう、靴もグショグショだ、早く洗わなきゃな……。


「美都、お風呂溜めてもらっていいかな? かなり雨に当たったからさ」

「分かりました。あ、一悟さん。ちょ、ちょっと、あの、こっち見ないで頂けると……」

「あ、どうしたんだよ――」


 振り向いたまま、時間が止まる。


 美都のジャケットが濡れていた。下に着ている白衣も、緋袴も、そして肌襦袢も濡れて、透けていた。


「な、み、美都! なんでそんな濡れ――」

「か、帰りにちょっとハムカツ買おうと思ってスーパー寄ったら濡れちゃって……」


 肌襦袢がピッタリと体にくっついている。そうすると当然見えるわけですよね、花柄ピンクのブラジャーが。


 ううむ、朱夏の身体もスゴいけど、美都のもやっぱり年上お姉様ボディーだなあ。袴も白だったら下も見えてたんだろうな、ううむ、惜しい。


 と、ここまで考えて思い出した。

 朱夏と美都には大きな違いがある。


「……一悟さん、いつまで見てるんですか!」


 美都の方がヒステリーを起こしやすい。

 そして、美都の方が何をするか分からない。



「いや、ごめん美都! ちょっとその、朱夏と比べちゃって……あ、や、違う、その……」

「比べたってどういうことですか!」

 人間の口というものは、突発的な事態に追い込まれると、真実を告げやすいらしい。


「一悟さん、覚悟っ!」

 美都が手に持った天使の輪から、ゴウッと炎があがった。


「これで終わりにしましょう!」

「何をっ! 何を終わりにするの!」

 お前のその攻撃は何パターンあるんだ!


「うおりゃ!」

「待て待て待て待て!」

 慌ててドアを開け、家の外に逃げる。庭一面、水浸し。


「永遠にさよならです!」


 カチャ ガチャッ


 美都さん鍵かけたあああああ!



「ちょっと! 入れて美都! ごめんね美都! 寒い! 寒いっての!」

 豪雨の中、俺の叫び声は虚しく玄関前で木霊こだました。




***




「一悟さん、大丈夫ですか?」

「……ダメだよ全然」


 日曜日。布団に横になって、ゼーゼー息をする俺。

 昨日の美都のお仕置きは効果覿面てきめんで、しっかりと高熱の風邪をひくことができた。


「み、美都、風邪が治る魔法、申請してくれないか?」

「なるほど、遊びたい盛りの中学生・高校生には、風邪やインフルエンザが治る魔法はありがたいですよね。参考になります!」


 嬉しそうにメモ帳にボールペンを走らせる美都。いや、それは後回しでいいからさ……。


「は、早く申請してくれ……」

「はい、任せて下さい!」


 カタカタとパソコンを叩く音を聞きながら、グルグル回る天井を見ないよう目を瞑る。


「あ、今ちょっと月末の業務で生産部がバタバタしてるそうなので、なるべく魔法申請は避けてほしいそうです。経費で落とせるみたいなんで、風邪薬買ってきますね!」

 ピンピンしている美都が小走りで玄関に向かう。


「なんのための魔法だよ……」



 魔法ってのは、やっぱりどうにも思い通りにならないらしい。

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