7 天使も喜ぶメンチカツ
彼女の落ち着いた優しい声に、自然と鼓動は高鳴る。
「吾妻君、何の本読んでるの?」
「あ、ああ、これ?」
名前の通り、静かな雨のようにサラサラな黒髪を俺の左手に掠めて、
「サマセット・モームの『人間の絆』だよ、結構面白いんだ」
「ああ、あの本ね。私も好きよ。傑作って言われてるの、分かる」
ううん、今日も綺麗だ。綺麗で華麗で可憐だ。胸があんまりないなんて、彼女の前では何の欠点にもならない。むしろスレンダーさが増して美しい。
澄んだ大きな目、小さい鼻、主張しすぎない唇が絶妙のバランスで整っている。透明感のある色白の頬は白いブラウスとの相性もピッタリ。
こんな人と同じクラスなんて幸せすぎる。これが天使の魔法だったとしたら、天使に芋ようかん持ってお礼に行かなきゃ!
「久瀬さん、読んだことあるんだ」
「ええ。モームだと『お菓子と麦酒』もオススメよ。最近文庫化されたの」
「そっか、今度読んでみよっかな」
「とっても面白いわ。あ、短編集なら『アシェンデン』もいいかも。スパイを扱った古典小説だけど、ワクワクしながら読めるの」
笑った顔でこっちを見る。
おおおおおおっ! 美都も朱夏もかわいいけど、やっぱり俺から見ると久瀬さんには敵わないなあ! 本のことになると饒舌になるのもかわいい。
こんな人の下着姿を見ようとしてたなんて、自分がちょっと恥ずかしい。いや、そんなことないか、見たいけどね、見られるならね!
「ユメちゃん、小説進んでる? 『囚人探偵は3度笑う』の解決編、早く読みたい!」
文芸部員はみんな、読書だけでなく何かしら文字を綴ることを活動にしている。小説、書評、エッセイ。色んなタイプの人がいるけど、久瀬さんは専らオリジナルのミステリーを書いている。トリックなんてどうやって考えるのか分からない俺にとっては、そんなところも憧れるポイント。
「
持っていたノートをキュッと持ち直して、はにかむ久瀬さん。
「ねえ、今回の謎解けた?」
傍にあった椅子に座り、期待が零れ落ちそうなくらい目を開いて朱夏に聞いた。
「ううん、今回のトリック難しい!」
久瀬さんが書く『囚人探偵』シリーズ。毎回犯人と疑われて捕まる主人公探偵が、脱走して身を隠しながら事件の真実に迫っていく。ミステリー好きの朱夏は大のお気に入り。
「なんか、解けそうだけど解けないんだ。クリスティーの作品に似た事件があったような気がするんだけど……」
「お、朱ちゃんご名答。今回のトリックは、クリスティーから拝借してアレンジしてみたの。元ネタに気付ければ、ゴールはもうすぐだよ!」
「そっか、頑張ってみる! それより、今回はちゃんと主人公が逃げ切れるかが気になる! ユメちゃん、早く解決編書いてね」
「ありがと、頑張るね。いつか、みんな以外の色んな人にも読んでもらいたいな」
「うん、読んでもらおう!」
女子2人で軽くハイタッチ。朱夏もミステリー書いてみればいいのに。「テレビのリモコンがボタンを押すたびに快感で悶えていると思えば、人生は楽しくなる」なんてエッセイ書いてる場合じゃないだろ。
「よし、オレも持ってきた本読もうっと」
「アタシ、エッセイ進める!」
部屋の中からは、ページを捲る音、パソコンを叩く音、そして時たまこんな感じの雑談が響くだけの、静かで楽しい部活。
「はい、
部活終了前。幽霊3年部員に代わって部長を務める久世さんが、ノートを見ながら文化祭について話す。
そっか、7月2週目に開催だから、ホントにもう2ヶ月ないんだな。
「1年生は入部していきなりの珠希祭ですけど、楽しんでいきましょう。文芸部は今年も『ラン・ドッグ』を発行します」
歴史ある文芸誌「ラン・ドッグ」には、部員全員が寄稿する決まりになっている。内容は自由、文なら何でもオッケー。
ちなみにこのタイトルは「乱読」と掛かってるらしい。
「試験で部活禁止になる期間を考えると、あんまり時間ないですね。原稿の締切はまだ先ですけど、直前で慌てることのないように準備しておいて下さいね」
「はいっ!」
みんなの声が部室に響く。よしっ、今年もこの時期が来たんだな、頑張るぞ!
***
「美都、ご飯できたぞー」
「あ、はい、今行きますー!」
グレーのジャケットを脱いだ美都が、トテトテと歩いてテーブルにつく。
天使との同居生活が始まったけど、俺の生活がおもいっきり変化したかと言えばそうでもなく、一緒に食事をする人が増えたくらい。
まあ美都の服装にはまだ慣れないけどさ。やっぱり巫女服の上からジャケットって合わないと思うの。
「一悟さん、今日のご飯は何ですか?」
「根菜の煮物、自家製コールスローサラダ、あとは惣菜の――」
「メンチカツですよね! わっほいわっほい!」
バンザイして喜ぶ。天使のくせにメンチで喜んでくれるなんてありがたいというか。
「あれ、メンチ2個しかないですよ?」
白皿に盛られたのを見て、美都が心の底から不思議そうに聞く。
「んあ? 2人だから2個だろ」
そのためにいつもより多く買ってきたんだぞ。
「この地方ではメンチは1人2個って決まってるんじゃないんですか」
「そんなアホみたいな風習があってたまるか!」
箸を渡しながらツッコむと、美都は少し黙った後、キラキラした目でこっちを見つめた。
「一悟さん、若い子って食欲旺盛ですよね? 魔法で食べ物が増えたら嬉しいですかね?」
…………コイツは…………。
「……分かった分かった。じゃあ魔法で申請してくれ」
「はい! リサーチ結果にも追加しておきます。恋愛以外でも、食事が増える魔法は若者にウケがいいって!」
「いや、8割くらいお前が望んだことだからな」
奥の部屋からパソコンを持ってきてパチパチと打つ美都。ホントは母さんの部屋だけど、いないときには美都に貸すことにした。
しばらくすると、「よし」と言いながら画面を閉じる。
「部長、承認早い! 一悟さん、承認おりて、魔法生産中です。もうすぐ増えますよ!」
美都が叫んで1分ほど過ぎた後。メンチの白皿をモクモクと煙が包み込む。
やがて、霧が晴れるように現れたメンチは見事に4つに増えていた。
「おお、やっぱり魔法ってすごいな、ホントに一瞬で増えた!」
「さ、一悟さん、冷める前に急いで食べましょう。いっただきまーす!」
茶碗を持つ美都。いや、だからもう少し感動に浸らせろよ。
「うん、うまい!」
ハムスターのように頬にレンコンを詰め込みながら、美都がしみじみ言う。
うーむ、魔女っ娘、巫女、ちょいドジに加えて食いしん坊属性まであるとは。
「一菜さん、料理上手なんですねえ」
「まあな。中学の頃から作ってたし」
イチ姉は昔から、お互い出張続きの両親に代わって料理を作ってくれていた。今も週末に帰ってきては大量のおかずを作っていく。
7~8種類のおかずは冷凍庫で保存し、毎朝そこから適当にチョイスしてお弁当の1段目を作って、夕飯も主菜・副菜を適当に選ぶ。
この生活も1年続いていて、1人の夕食は寂しくもあったけど、口に運ぶ料理はいつものイチ姉の味付けで、しんどくならずにやれている。
この前イチ姉が帰ってきたときには美都の存在がバレないか心配したけど、荷物を全部まとめて外に出てしまえば案外痕跡を隠すのは簡単で、問題なく姉弟2人の週末を過ごした。
「一悟さん、煮物おかわりです」
「ダメダメ、今日の分はこれだけ。明日の弁当の分がなくなるだろ」
「ちぇっ、けちー。召された後イジワルしてやるー」
ううむ、なんて怖い脅しなんだ。
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