セラ・ミンストンとかまゆで

伊達隼雄

セラ・ミンストンとかまゆで

 商談相手と言っても、あれは男だ。お嬢様にもしものことがあったらどうしよう? 残念ながら今の私は、お嬢様を大の男から守れるほど強くはない。しかも、向こうには護衛が二人もいる。戦力差があっては不利も極みと言えよう。ここがホームグラウンドであることを除いても、勝ち目などない。


 そもそも、だ。

 なんであの男はこんなところにまで商談に来るのだろう!

 いや、まあ――お嬢様が来いと言ったからそれに従っただけなんだけど。

 だけど、普通は来ない。こんなところになんか普通は来ない。というわけで、あの男は普通じゃありません。私が決めました。きっと下心満載で来たんだ。おのれ、悪漢め。海の底に沈めてやる……!


『かまゆで』


 キッチンに我がお嬢様――セラ・ミンストンの声が響き渡る。応接間から私をお呼びだ。

 こちらからの通話をオン。


「お呼びでございますか、ミンストン」普段はお嬢様と呼んでいるが、こちらからの声は応接間の客人共にも聞こえてしまうので、礼を欠いてはいけない。気が進まないけど。

『ケーキがあったでしょう? 大原様にお出しして』

「かしこまりました」


 通話はそれだけ。私はエプロンドレスを軽く払い、冷蔵庫からケーキを取り出した。チョコケーキだ。それほど高くないお店から買ってきてそのままだったものだ。これはお嬢様、何か気に食わないことでもあったかな? フフフ。

 皿はなるべく見た目良いものを。態度も変えなければならない。スミを出すなどもってのほか。私はあくまで優秀なメイドでなければならない。人前に出る時はそうでなければ、お嬢様が低く見られてしまう。そんなのは絶対に嫌だ。

 メイド、完璧であるべし。

 ……などと思ってみても、うまくいかないのが世の常というか。

 客人へケーキを出すぐらいはうまくやってみせるけどね。


 狭い通路にはもう慣れた。つまづくこともないし、頭をぶつけることもない。手持ちの食器類を落としてしまうなどもってのほか。最初はそれで散々失敗し、悔やんだものだ。だけど大丈夫。ここに関してはもう、私はベテランだ。

 応接間の扉をノックし、失礼します、と中へ入った。まず見えるお嬢様の表情は晴れやか。既に勝負はついたらしい。フフ、客人大原はいかにも不満といった有様で、肩をプルプルさせている。


「ケーキをお持ちしました」

「ありがとう、かまゆで。大原様、こちらはかまゆで。ここでの生活で頼りにしている者です。働き者で、とても優秀なのですよ」

「かまゆでです。失礼いたします」至ってクールに、私は淡々と大原氏の前にケーキを差し出した。

「ありがとうございます」流石というべきか、大原氏は不満を消してにこやかに応じた。

「かまゆで、もうお話は終わったから、あなたは夕食と浮上用意を。ああ、それとも――大原様、夕食もこちらで?」

「いえ、とんでもない。お食事前に帰らせていただきますよ」


 一秒でも早くここから帰りたいといった感じだった。無理もないだろう。だったら来なきゃいいのに。


「失礼いたします」


 私は護衛達にも目配せしながら、応接間を出た。

 少し時間が経過し、応接間から出てきた大原氏がキッチンに顔を出した。意外。


「何か?」

「いえ、すみません、水をいただきたく……」


 重苦しさに耐えきれなくなったか。

 私はコップに水を注ぎ、大原達に配った。彼らの顔に精気が戻る。


「ありがとうございます。このような商談は初めてでして……」


 だから、そう思っているのなら来るな――などとは言えない。

 あくまで、従順で優秀なメイドを演じる。


「無理もありません。どうぞ、落ち着ける場所でお待ちください」


 これには、彼らは困った顔を浮かべるばかりだった。

 落ち着ける場所などない。それは、散々思い知っただろう。強いて言えば応接間かもしれないが、おそらくは今しがた自分たちを叩きのめした相手がいるところには帰りたくないはずだ。


「ははは……あなたは、よくここで働けますなぁ。うちのメイドでは無理かもしれません」

「私は海に慣れていますので」


 結局、彼らは外に出るまで、終始落ち着かない様子だった。


 大原氏は最後に握手を交わすと、乗ってきた船に戻り、さっさと帰っていった。

 ふう、これでお嬢様をかどわかしかねない相手はいなくなった。


「かまゆで」お嬢様が作り笑いで私に話しかけた。あれぇ? 怒ってる?

「はい」

「笑ってた」

「え?」

「ケーキを出した時、一瞬ニヤリと。肝を冷やしたわよ」


 嘘……。

 私は思わず、自分の顔を押さえる。失敗していた。表情を作れていなかった。

 足がガタガタと震える。手が震える。身体の芯から震える。

 涙が出てきた。ゾクゾクと全身の熱が引いていく。

 やだ、どうしよう。やっちゃった。


「大原は慣れない環境で気づかなかったみたいだけれど、慣れてる奴もいるんだから、気をつけなきゃね。ここには私とかまゆでしかいないんだから」

「も、申し訳ありません……」


 謝ることしかできない。ダメだ。本当に涙が溢れてくる。

 お嬢様の仕事の邪魔をしてしまった。メイドとしての務めを全うできなかった。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、私のせいでお嬢様の評判が――


「えいっ」


 突然、私の視界が青く染まった――


 久しぶりの感触。温かく、冷たく、やわらかで、苛烈で。

 神秘に満ちた、ありふれた、青の世界。


 要するに、海に落とされた。


「そーれっ!」


 落ちた私に向かって、お嬢様は飛び込んできた。それを受け止めると、そこには笑顔のその人がいる。商談用にきめた服は水でびしゃびしゃ。化粧は崩れるし髪もだらっだら。だけど、今度は作り笑いじゃない。怒ってない。


「かまゆで、失敗しちゃったね。叱られちゃったね。怖かった? ねぇ、怖かった?」

「こ、怖かったですよ、そりゃあ……」

「今のは? 落とされて怖くなかった?」

「あ、それは全然」海は故郷だし。

「そうだよね、フフフ、そうだよねー!」


 何が面白いのだろう。お嬢様は笑って私に抱きつき、そのまま泳ぐように命じた。


「かまゆで」

「なんです?」

「タコに戻っていいよ」

「嫌ですよ。せっかくのメイド服が破けますし、私は今の姿の方が好きです」

「タコのかまゆでも好きだなー」


 それはつまり、今の私も好きでいてくれるということだ。

 当然かなぁ、とも思える。この姿を選んだのは他ならぬお嬢様なのだから。


 もう十年になる。まだ十代だったお嬢様は、あの日、死にかけていた。身を投げた先に、私がいた。

 それからが大変だった。わけが分からなくなって、故郷へとお嬢様を連れて行って――そこから先は思い出すのも気が重くなるほど、大変だった。結果、私はお嬢様と共に海の社会から人間社会に出ることになったのだけれど、お嬢様は、今は再び海の中を根城にしている。

 人間嫌い、らしい。

 それでも商談で活躍するのだから、世の中分からないものだ。

 今では、ああやって海に飛び込むことになんの抵抗もないのだから……。


「お嬢様は、飛び込みは怖くないのですか?」

「んー……もう二十四だしね。それに、かまゆでがいるもの。かまゆでが受け止めてくれるから、いいんだ。かまゆで、私が飛び込んだら、ちゃんと受け止めてね。どんな時だろうと、絶対に」


 そろそろ夕陽に海が照らされる。

 だからというわけではないが、私は、そうだ、嬉しかったので――


「お嬢様、少しお待ちを。服を脱ぎます。お手数ですが、持っていていただけますか?」

「いいよ。早く早く」


 私はエプロンドレスが好きだ。メイドである時が好きだ。

 だけど、お嬢様のためならば――そう思えてこそのメイドだ。

 ゆらゆらと、長い髪が海面に漂う。人の素肌で海水を感じる。


「それでは、戻ります」


 タコと人を行き来する間は、眠気のようなものに襲われる。身体を強引に変化させているからだろうか。私が下手なだけだろうか。他のタコや、生き物は、どうなのだろうか――?


 身体をうまく使う必要はない。普通に泳いでいるだけでいい。私の上に乗ったお嬢様は、海の上を大変楽しんでらっしゃる。泳ぎはそれほど得意ではないのだけれど……まぁ、いっか。楽しければ。


「かまゆでー、今日はねー、大成功だったよー。かまゆでとは大違いだねー」


 それはそれは、何よりです。

 同時に、ごめんなさい。


「かまゆで、かまゆで、今日の夕食は何?」

「イカスミパスタですよ、お嬢様」

「ワイン出そうよ、ワイン」

「用意してあります」

「かまゆでは本当にいい子だねー」


 ゆらゆらと、海を。

 それにも飽きてくる頃、私は船の上にお嬢様を戻し、人の姿に戻った。

 夕刻だ。丁度いい。


「かまゆで、今日は甲板で食べよう。もうずっと潜りっ放しだったから、さすがに景色にも飽きてたし」

「かしこまりました、お嬢様」


 良かった。失敗はさっきの遊泳でチャラということらしい。

 せっかくの海上。お嬢様と一緒の食事は楽しみだ。景色が違っていて、しかも、美しければ尚更だ。


 私は、潜水艦パールの中に戻り、テーブルとイス、セットに食事を甲板へ運び込んだ。


 ここはお嬢様と私の城。屋敷。家。

 人嫌いなお嬢様が、自分を保っていられる海に最も近づけるところとして買い取った、潜水艦。

 お嬢様と私は、海の中こそが日常。


 海の上は、たまの贅沢。

 さぁ、食事にしましょう、お嬢様。私のセラ。難儀なるミンストン。



 コツン。

 ワイングラスの響きは、潮風に流れていった。

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セラ・ミンストンとかまゆで 伊達隼雄 @hayao_ito

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