第6話 出現

「何故、この遊園地の迷宮を選んだのだ?」


 J・Bの詰問に、アグリッパは口元をつり上げ、懐から薄汚れた一冊の古い革製の本を取り出した。


「全てはこの本の導きだ」

「それは……」


 J・Bは愕然となり、瞠目する目でその本をじっと見つめた。


「……禁断の聖書(ネクロノミコン)か」

「ほう。知っていたのか?」

「……ああ。以前、バチカンの法王庁がその本の魔力を恐れて焚書した時に立ち合った事があるが、矢張り、他にもあったのだな…!」

「何と愚かな…」


 アグリッパは口惜しがった。


「この本の素晴らしさを認めぬとはな…」

「その本は何処で手に入れた?」

「ブエノスアイレス大学図書館で保管されていたものを贋物と差し替えてやった。もっとも、これがあそこから無くなろうが誰も気が付くまい。何せ、以前そこでこの本を見ようとした者が魔力によって失明した事もあるのでな。この本は選ばれた者のみに閲覧が許されているのだ」

「選ばれた者、だと…?」

「そうとも。私は夢で啓示を受け、この世を粛清する使命を受け、啓示に従ってこの本を手に入れ、教会を興した。一度は貴様らに邪魔されたが、この本から神の召還の地として、多くの鏡を自在に操れ、かつ、贄となる人間共を楽に手に入れられるこの場所が最適だろうという事を教えてもらったのだ」


 淡々と語るアグリッパの瞳には既に正気の色は無く、狂信の光が湛えていた。


「……矢張り、二か月前、あの教会に怪物を呼んだのは貴様とその本だったのか」

「怪……物…?」


 リンダは今の二人の会話から、到底信じ難い想像を思い浮かべた。

 つまり軍隊まで出動したのは、教会側と闘う為でなく、その怪物を倒す為だったのではなかったのかと。


「あの怪物は、お前の信者達も皆喰い殺したのだぞ」

「ほう。さぞ、信者冥利に尽きたことだろう」

「……矢張り、あの時軍隊に任せず、この私の手で仕留めるべきだった。……狂信者が」


 J・Bの小指が動いた。

 アグリッパの右腕が肩から落ち、血煙が舞った。

 しかし、アグリッパは苦悶を上げる事なく、二人を見て笑っていた。


「何をしても無駄だ。あと一人の贄を召した後、『古えの神々』はこの地にご光来される。さあ、どちらが選ばれるかな?」

「実に光栄だが、我々は辞退させてもらう」

 J・Bは再び小指を動かした。今度の狙いは、狂笑するアグリッパの首であった。しかしこの男なら、首を落とされても笑い続ける事だろう。床に落として向こう側を向いてくれれば幸い、とJ・Bは思った。――刹那。


「――ぐうおおおおおおお!!?」

「「?!」」


 J・Bとリンダは驚愕した。

 アグリッパの身体が突然歪み始めたのだ。


「こ…これは一体…?」


 J・Bは慌てて放った霊糸を戻して呆然とした。


「が…ば…あ…なじで…い…に…じ…え…の…お…が…み…よ…?」

 アグリッパの身体が血煙りを上げて潰れていった。宛らそれは、見えない何者かの巨大な顎に咀しゃくされている様であった。


「――まさか!?」


 J・Bは慌てて隣の合わせ鏡の中を見た。

 鏡の中では、巨大な黒い顎がアグリッパの身体を喰らっていたのだ。

 ばき。ぐしゃ。べき。ぼき。ごり。ぼり。

 リンダは耳を両手で押さえ、J・Bの胸の中に顔を埋めて怯えた。

 二人の前に居た、神の代弁者たる男の姿は既に存在していなかった。

 紅く染まった只の肉塊が闇の中で蠢き、かつてそれが二本の腕で抱えていた禁断の聖書を床に残して闇に還って行った。

 鏡の中では、黒い顎が満足げにげっぷしていた。


「血の臭いで選ばれたのか。貴様の神も全てに平等であったな」


 J・Bは失笑すると、両手を掲げてその掌から白い泡を吹き出させた。そして、白い泡は掌から零れ落ちて滴り、無数の白く煌く微細の糸となって虚空に舞った。


「やれやれ。この間は軍隊が何とかしてくれたが、今度ばかりは私独りで何とかするしかなさそうだな。霊糸を超自然的存在相手に本気で使うなんて八年振りだが、それに相応しい相手だから良しとするか。リンダ君、下がっていたまえ」

 リンダに軽くウインクしてみせたJ・Bは鏡の中の顎を見据え、大きく深呼吸する。そして虚空に漂う無数の霊糸を、鏡の中目掛けて一斉に放った。

 鏡の中に居る黒い顎は、次元を超越した無数の霊糸に捕らえられて、動きを封じられた。

 だが、黒い顎はそれに抵抗してもがいてみせ、全て霊糸がJ・Bの指先から張り詰めてしまった。


「何て奴だ」


 J・Bは霊糸を引いて顎を押え込もうとする。


「……精神体を引き裂く霊体の糸を以てしても、傷一つ付けられぬとは。邪悪なれど、神の名を冠するのは伊達ではないか。――何だ、あれは!」


 J・Bは鏡の中を見て仰天する。

 鏡の中に映える無限の鏡の回廊がいつの間にか消え失せており、代わりに、顎の背後には、血の様に紅く染まった不毛の荒れ地が広がる異形の世界が存在していたのだ。


「…魔界…か…っ」


 J・Bは戦慄を禁じ得なかった。額には冷や汗が躙り始めている。こればかりは他の者が見ても同様だろう。

 唯一の例外は芸術家ではなかろうか。この風景は魂を売り渡してでもカンバスに写し描きたくなる、そんな狂気を駆り立てるものであった。

 無論、そのタイトルは『魔界』以外無い。


「――あれは」


 突然、リンダがその風景を見て声を上げた。


「どうした?」


 顎を全身の力で押えていたJ・Bは、魔界を指して興奮しているリンダの尋常ならぬ様子に気付いた。


「サリィ! サリィがあの荒野に居たのよ!」

「何だと?!」


 J・Bは慌てて魔界を凝視した。

 その時、一瞬の気の緩みが、J・Bの指先の力をも僅かに緩ませた。

 すると、魔神の顎は霊糸に抗って暴れ出し、二人の周りの鏡や床が激しく揺れ出した。


「きゃあっ!」

 リンダが床に撥ね飛ばされた。何と、彼女は合わせ鏡の中へ落ちてしまったのだ。


「リンダぁっ!?」


 J・Bは魔界へ落ちて行くリンダの姿を見て絶叫した。

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