第5話 狂信
「――っ」
リンダは悲鳴を上げなかった。
別に気が強いわけではない。余りの恐怖に、声帯が麻痺してしまっただけである。
「Shit!」
J・Bは舌打ちして慌ててリンダを抱き抱え、彼女の視線をそれから躱した。
「…あ…あぁAaあ――っ」
リンダはJ・Bの胸の中で漸く安心して泣き叫び始めた。
「これは一体…?」
J・Bは鏡の中の異常な光景に困惑した。
しかしやっと安心したリンダが見上げたJ・Bの瞳に宿りし光には、怖れのものは無く、むしろ不敵な強さが凛とさえしていた。
不意に、鋼の擦れる音が僅かに鳴った。
「?!」
J・Bはその音に気付き、リンダを抱えたまま慌てて手前の分岐路の左側の道に飛び込んだ。
次の瞬間、二人の姿が映えていた分岐路の鏡が炸裂し、破片が辺りの鏡と反射し合ってきらめきながら床に沈んだ。
しかし、それだけだった。
「じぇ…J・B?」
突然の出来事に、リンダはJ・Bの胸の中で狼狽しながら彼の顔を見た。
J・Bは笑っていた。何処となく冷酷に。
そしてリンダはJ・Bが盾とする壁に向かって、白くきらめく微細な糸を放っている事に気付いた。
それはリンダの右小指に結んであるそれと同じものであった。不思議な事に、その糸は壁の中に染み込んでいた。
J・Bはリンダを離して立ち上がり、再び合わせ鏡の通路に戻って何かを拾い上げた。
J・Bは消音器付きの拳銃を手にしていた。
それには、頑なにグリップを握り締めている、なま温かそうな右手首のおまけが付いていた。
「うぎゃあああっ!」
J・Bが見据える通路の奥より、男のものと思しき痛恨の悲鳴が上がった。
その声に驚いたリンダは恐る恐る通路の奥を覗いた。
通路の奥には、右手首を失って床をのたうち回る一人の作業員服姿の男がいた。
「うおお…!な、何だ…、今の閃光は?」
男は呷きながらJ・Bを睨んだ。
「『霊糸』。私の心霊体(エクトプラズム)で創り出した糸だ」
冷淡に応えるJ・Bの右人差し指から、白くきらめく微細の糸が床に垂れていた。
「説明してやろう。この霊糸は肉ではなく魂を裂く。そして肉体は魂に殉ずる。催眠術で熱傷の暗示を受け、皮膚に水腫れが生じる事があるが、この霊糸はそれと同じ現象を起こさせる。手首に満ちた魂を裂く事により、肉体も一緒に裂いたのだ」
J・Bは、ふっ、と笑ってみせた。
「……」
J・Bの傍に居たリンダは、今まで目の当たりにする事の無かった彼の不思議な力強さと そしてその笑みに宿る氷の様な冷酷さ
に、背筋が思わずぞっとなった。
「矢張りお前か、アグリッパ・コーネリウス。お前がこの迷宮の係員として働いているという情報が入ってな。もしやと思って来てみたが、正解(ビンゴ)だったよ」
「アグリッパ――」
J・Bが口にしたその名を、リンダも知っていた。
二か月前、ジョージア州で、ある新興宗教団体が武装し、教祖の自宅である教会に立てこもり、警察や軍隊と交戦するという事件があった。
その結果、教会側の人間は教祖を除いて全員死亡し、警察や軍隊側にも死傷者を出したという。
教祖は交戦中に逃亡していたらしく、TVや新聞のニュースで顔写真を公開して指名手配されていた。良く見れば、右手を無くして蹲る男の顔は、蓄えていた顎髭を全て剃り、少しやつれてはいるが、手配写真の顔に間違いなかった。
「瞳の色はコンタクトで変えているか。少しやつれたな。逃亡生活がきつかった様だな」
「……貴様ぁ、また私の邪魔をする気か!」
「仕様が無いだろう。お前みたいな莫迦野郎をこれ以上のさばらせておく訳にはいかないからな」
「莫迦野郎?この神(GOD)の代弁者たる私を愚弄しよって!」
「神?」
J・Bは失笑し、
「悪魔崇拝していた奴が言うか?愚か者(GOAT)の間違いだろ」
「Shit! 神を恐れぬ不届き者め折角、貴様らは偉大なる『古えの神々』の贄に選ばれたというのに…!」
「贄?」
J・Bの瞳が冷たく光った。
アグリッパの口元がやにわにつり上がった。
「そうだ。偉大なる『古えの神々』がもうじきご光来なされる。この腐敗した世界を粛正される為にな!」
「…あのなぁ…」
J・Bは呆れ返った。
「『古えの神々』、だぁ? ホラー小説の読み過ぎだぞ。腕の立つ精神科医を紹介しようか?」
「黙れ!」
アグリッパは立ち上がって二人を睨み付けた。
「貴様らも見ただろう?この鏡の中を?」
「「……っ」」
二人は鏡の中の凄惨な光景を思い出した。
「嫌なものを思い出してしまった」
J・Bはぼやいてみせるが、無論アグリッパをからかってるだけである。
「あれが何であるか、判っても良いのではないのか、ええ?」
「――まさか」
J・Bは仰天した。
「あれは…行方不明の…?」
「そうとも。『古えの神々』のご光来の為の贄だ!」
アグリッパは何かに取り憑かれた様に、悦に入った口調で静かに応えた。
「何…ですって?」
リンダの顔から血の気が引いた。
「ま…まさか…サリィ…は…?」
「サリィ…女か」
アグリッパは失笑した。
「女の、特に若い娘の血肉は贄に最適だ。さぞ、堪能された事だろうよ、ふっふっふっ!」
アグリッパの嘲笑にリンダは思わず眩暈を覚えて倒れそうになるが、かろうじてJ・Bがその体を抱き留めた。
リンダはわなないた。僅かに潤んでいるその眼差しは、何処か遠くを見て詫びている様であった。
「しっかりしろ! まだそいつに食われたとは限らないんだ、諦めるな!」
「!」
リンダはその声に我に返った。J・Bの叱咤であった。
しかし、怒りは無い。
美丈夫の例え様の無い力強い一喝は、かろうじて少女に無法への怒りの気力を与えていた。
J・Bは穏やかな眼差しでリンダの立ち直りを見届けた後、凍て付く氷河を思わせる冷然この上ない眼差しをアグリッパにくれた。
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