手のひら返し(GL)

 早く電車が来ないかな。

 手袋のない手を握る。寒い。冷えやすいから分厚いタイツは履いているけど、今年の冬は手袋をつけていない。いつも同じ時間の電車の、同じ車両の同じ場所に乗る。前からなんとなくそうしていたけれど、今は少し意識している。とんとんとローファーの踵を上げ下げしていると、電車がやってきた。

 指定の分厚いコートだと、電車の中は少し暑い。鞄を提げて、入ったのと反対のドアの角をキープして立つ。混んではいるけどぎゅうぎゅうってほどではない、人と触れ合うことは避けられる込み具合。この時間はだいたいそうだ。電車が動き出す。

 今日も、いた。

 顔は動かさずに横目で見上げる。隣に立っている女の子。永井光さん。三年一組。元陸上部。私と彼女の仲は良くない。悪いわけではない。関係が存在しない。もともと友達ではないし、さらに言うなら知り合いでもない。同じ学校同じ学年の他人。話したこともない。私の名前も知らないかもしれない。

 でも私は元から永井さんのことはよく知っていた。私が永井さんをどう思ってるとかは関係なく、みんな永井さんのことはよく知っている。目立つからだ。背が高くて、顔がきれい。陸上の中距離で全国に行ったし、大会の写真が「イケメン女子」とバズったりもした。成績だって結構いい。トップ集団には入ってないけど、平均点は楽にクリアしてるはずだ。性格も明るくて、友達が多い。声もいい。学校で人前に立つ機会も多いけど、はきはきと先生よりも聞き取りやすい声で話す。欠点らしい欠点がない。完璧な女の子。学校の有名人の永井光さん。

 どうしたって目立つ人なので、遠くから時々見ていた。後ろできゅっと結んだ黒い髪。赤っぽい色に綺麗に焼けた広いおでこ。眉毛が太目で凛々しくて、鼻筋がすっと通っている。肩と腰の幅が広くて脚が長い。永井さんはスラックスの制服で、それがものすごく似合っている。全体的にすらっとしているけれど滑らかな曲線があって、男子とはまた違う格好良さ。中学のときから高校ではスラックスにすると公言していて、永井さん効果で女子にスラックス選択の子がすごく増えたらしい。いつも人に囲まれていて、楽しそうに笑っている。遠くからでも、大きな口からきらって白い歯が見える。隅っこでこそこそ本を読んで無難に日々をやり過ごすことだけ考えている私とは、違う世界の人だ。永井さんのスラックスはかっこいいけど、背が低くて痩せてない私には似合わないので、私は一年からスカートだ。

 数少ない共通点は、同じ路線を使っていることだけど、これも最近まで知らなかった。この路線を使う生徒はそんなに多くないので電車でよく見る相手はなんとなく顔を覚えたりするものだけど、永井さんは部活をしていたので、当然帰る時間がずれる。引退してから、帰りだけ同じ電車に乗るようになった。家がどこなのかは知らないけど、私のほうが先に降りる。その間十五分ぐらい、永井さんと一緒に電車に揺られている。

 あ。

 コートから出た手の甲が、誰かの肌に触れる。誰かっていうか、永井さんだ。永井さんの手の甲。ごつごつした、私のよりずっと大きくて乾燥した、熱い肌。すぐに冷えてしまう私の手とは全然違う。

 三年が部活を引退して、二学期から、永井さんと同じ電車に乗っている。永井さんは駅まではクラスや部活の友達と歩くけど、ホームでは一人になる。階段を下りて少し行った場所で電車を待って、乗り込んで、ドアのところに陣取る。私の隣に。背が全然違うから、目も合わないし、肩も触れ合わない。

 でも、手の甲が触る。隣に乗るようになってから、毎日。

 最初は偶然だったんだと思う。九月。私の長袖と、永井さんの半袖からすっと伸びた腕が、何かの拍子にぶつかった。二人とも避けようとすると、手の甲が触れ合った。どうしてだかわからないけど、二人ともそれ以上避けようとしなかった。私が電車を降りるまで、ずっと手の甲は触れ合っていた。電車を降りて、自分の手の甲を見た。私は手が小さくて、指も手の甲も丸い。白くてつるんとした手の甲。永井さんは何を考えていたんだろう。私のこと、知ってるのかな。

 考えてみれば不思議だったけど、家に帰ることには考えることをやめた。あれが本当にあったことなのかもわからない。夢の中で、幼稚園の友達と会ったり、違う高校に通ったりしているような、ちょっと現実寄りの変なことをしたときみたいな。近くで見た永井さんはやっぱりかっこよくて、それ自体少し夢みたいな気がした。半袖のブラウスと紺のスラックス。組み合わせ自体はおしゃれじゃないかも。でも、永井さんが着るとかっこよかった。もともとある正解を選ぶんじゃなくて、正解を自分が決める人。やっぱり、遠い人だ。

 でもそのあとも、永井さんとは電車で一緒になった。同じ電車。同じ車両。同じ場所。ブラウスだけの制服にブレザーが増えても、コートが増えても、となりに立つのは永井さん。

 そして、手の甲が触る。

 やわらかくて敏感な指や手のひらに比べて、手の甲ってわかりにくい場所だ。自分の意思では動かないし。ただ感触と温度だけがある。永井さんは腕もすらっと長いけれど、背の高さが全然違う私と手の位置が合うわけもない。なのに、毎回、触れる。

 どうしてなんだろう。

 全然わからない。理由なんかないのかもしれない。ただなんとなく。一回そうしたから、そういうふうになった。永井さんの顔を見上げる。顔は動かさずに、目だけでちらっと。身長差があるから耳のかたちがよく見える。耳から顎までの綺麗なすっきりとした線も。私がなんだか垢抜けないのはこの辺りに肉がついてぼやっとしてるからなのかもしれない。永井さんは顎の裏も綺麗。尖り気味の顎の骨があって、首にかけて少し凹んでいる。首は長くて真っ直ぐだ。陸上をするから、私よりもたくさんの空気が通った首なんだろう。筋肉を感じる。かっこいい。ちらっと見てはすぐに逸らす。目が合いたくないから。それでもそんな部分まで覚えてしまうぐらい、見慣れた。永井さんは窓の外を見ている。何を見て、何を考えているんだろう。この角度からでは睫毛の先しかわからない。長い睫毛はくるりと上を向いている。

 正面からの顔を近くで見たこともない。永井さんの目はちょっと緑っぽいからカラコンしてるのかって誰かが聞いてたけど、化粧もしてないのにカラコンなんてするわけないって答えたらしい。噂話だ。本当に緑っぽいのかもわからないし、首と顎だけじゃ本当に化粧してないのもわからない。見せて、って言えるような関係じゃない。関係じゃないのかな。見せて、って言ったら、見せてはくれる気がする。でも、どんな顔をするんだろう。わからない。わからないことだらけ。

 カーブになって電車が揺れる。永井さんは体幹が強いのか全然揺れないけど、私はちょっと揺れて手の甲が擦れ合う。指の骨のでっぱりがこつこつ当たる。そのまま離れてしまいそうで、でも離れない。自分の意思なのか、永井さんの意思なのか、二人で黙ったまま示し合わせているのか。私にはそんなこともよくわからない。

 夢みたい。

 外は寒いのに、電車の中は背中に汗をかくぐらいで。人がいっぱいいて、知らない人たちで。そんな中で、顔は知ってるけど、ほとんど知らないに等しい人と、手の甲が触れ合っている。誰も見ていない場所で、私と、永井さんしか知らない。手の甲なんていうほんの小さな面積だけで起こっている秘密の出来事。

 今日で終わる。

 明日から冬休みだ。三学期は自由登校が増える。永井さんは陸上で推薦がもう決まってる。私はこれから受験だ。学校でも見かけることが減るし、当然進路も違う。小さな秘密は、私にも意味がわからないまま、終わってしまう。意味がわからないこと、人に話せないことは、きっとすぐに忘れてしまう。子供の頃の遊びをいちいち思い出せないように。朝起きたときの夢をすぐ忘れてしまうみたいに。

 それに多分、覚えておくのがつらい。

 俯いた。永井さんの手と触れ合っている手の甲を、見ないように目を逸らす。

 永井さんのことを、特別に好きだったわけじゃない。特別に興味があったわけでもない。遠い人だから。仲良くなれそうもない。同じ学校の中の別の世界の人。でも、見ていた。みんなそうだと思う。私だけじゃない。みんな見てる。だから、私も見る。みんなの中にいたら、見る理由がある。見ていたっておかしくない。全国大会の写真だって、知ってる人がバズってるんだから、保存してたっておかしくない。そして、永井さんは私を見たりしない。誰も私のことをちゃんと見たりはしない。目立たない、目立とうともしない、地味な女子。見る理由なんかない。見られても、どうしたらいいのかわからない。できることなら見ないでほしい。前髪は学校を出る前に整えても電車の湿気でうねってる。おでこのにきびも隠せない。ほっぺたのそばかすも。コンシーラーの使い方もよくわからないままの高校生活だった。見られたくないものしかない。見ないで。それなのに。

 どうして私はいつも同じ場所に乗っていたんだろう。どうして今年の冬は、手袋をしなかったんだろう。寝る前にハンドクリームだけは毎日塗って。電車の中だって、勉強したり、スマホ見たり、すればいいのに。どうしてしないんだろう。わからない。何もわからない。わからないまま始まった。わからないまま続いた。このまま、何もわからないまま終わってほしい。

 いつもの通り、電車は走り続ける。私と永井さんは目も合わない。もうすぐ、私の降りる駅に着く。きっといつもの通り、私はなんでもないふうに降りる。当然、触れあっていた手も離れるだろう。いつもの通り、最後という特別さもなく、それでおしまい。家に帰って、お昼を食べて、勉強して。永井さんのいない冬休み。永井さんのいない三学期。たまに、遠くから、見てるだけ。目立つ人だから。卒業式でもきっとそうだろう。そして、それも終わる。見ることもできなくなる。同じ学校でも、同じ電車でもなくなる。夢と現実の区別もつかなくなる。そのまま忘れる。電車の中で起きていたことも、自分が何を考えて、何を望んでいたのかも、全部。

 もう、終わってしまう。

 電車が徐行する。駅につこうとしている。この駅で終わり。永井さんの手の甲と、私の手の甲は、まだ触れあっている。触れあっている部分が同じ温度になって、うすく汗をかいている。変な位置にあったから、手首が少しだるい。このまま離れたほうが、ずっと楽。

 でも。

 でも、嫌だ。

 電車が止まる。ドアが開く一瞬前に、くるり、と、私は手首を返した。永井さんの手の甲を、手のひらでつかもうと思って。最後だから。それでどうなるかはわからない。怒鳴られるかもしれない。それでも、そのまま降りたくなかった。

「え」

「え」

 手の甲はつかめなかった。永井さんと、目が合った。

 本当に、緑っぽい目をしていた。

 ドアが開いた。人の流れを邪魔しないように、永井さんはホームに出た。

 私の手をつかんだまま。

 永井さんが初めて私に向けた手のひらは、しっとりとしていて、熱かった。手を繋ぐというか、手を掴み合ったまま、私たちはホームに出る。改札に向かう人の波から外れて、二人で立っている。吹きさらしのホームは寒いはずなのに、剥き出しの顔は耳までまるごと熱くて、風が気持ちいいぐらいだった。私は何が起こっているのかよくわからないまま、永井さんの顔を見上げた。正面から見る永井さん。遠くからや、横から見上げるより子供っぽい。おでこの、私とおんなじところににきびがあった。メイクはしていないんだろう。ちょっと困ったような顔。

 電車が、行ってしまった。次の電車は十分ぐらいしないと来ない。

「名前……」

 全校生徒の前でもよどみなくはきはきと話す声が、今は風に掻き消えそうなぐらい小さい。

「……聞いても、いいかな?」

「名前も知らなかったの?」

 笑ってしまうと、永井さんも笑った。

「勝手に調べたら悪いと思って」

 生真面目なところは、遠くから見ていた印象と同じだった。私は名前とクラスを教えた。連絡先を交換しようとして、二人ともスマホをポケットから出した。そこで、手が止まった。二人とも。片手ではうまくスマホを操作できない。

「手」

 私が言うと、永井さんは笑った。

「離したくない」

 私も笑った。さっきまで躊躇ってたのに、急にずうずうしくなる永井さんと、同じことを考えていた私が、面白かった。

 ホームは寒い。風もつめたい。話したこともない相手とスマホ片手に向き合って、変なふうに手を繋いだまま、二人で突っ立って、笑い合っていたV

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