血は白く変じ(BL)

 東屋で泣いていると、いつの間にか日が落ちていた。春の夜風に、公園の木がざわめいている。顔が濡れ、シャツの胸元も濡れていた。顔をハンカチで拭っても、シャツを開いて胸元を拭う気にはなれなかった。湿った布の生暖かさが厭わしい。

「怪我をしているのかい」

 夜そのものが声を発しているのかと疑った。はっと顔をあげて見回すと、男が立っていた。日が没したばかりの薄闇よりも濃い闇が凝ったような、黒い髪と黒い服。僕よりも頭一つは遥かに高い位置に、白い顔が浮かんでいた。瞳と、唇が赤い。これは夜ではない。夜はこんなに美しくはない。

「血の匂いがする」

 柔らかな気遣いの奥に、別のものが覗いていた。

 血の匂い。僕は首を振った。

「そんな。血なんて」

「隠さなくていい」

 彼は音もたてずに僕の隣に座り、肩に触れた。手は雪の如く白く冷たかった。戸惑う僕の肩から胸を指が滑り、あっ、と思ううちに釦を外されていた。手が、胸に触れる。冷たい手に対し焦げるほどに熱い眼差しが、僕の肌に注がれ、赤い唇が笑みの形を作る。先ほどまでの気遣いの薄い衣は灼け落ち、欲望が露になる。

「これはなんだい」

 だがすぐに彼は三日月のような眉を歪め、僕の乳嘴をつついた。無様に赤く腫れ上がり熱を持ったそこからは、たらたらと白い雫が滴っていた。美しい男に秘密を暴かれた羞恥と屈辱で、一度止まった涙がまた溢れ出し、僕は唇を噛み締めて泣いた。彼は宥めるというにはあまりにも婀娜っぽい様子で僕の頭を撫で、それからふと呟いた。

「血の匂いがする」

 その声の中で、一度消えた欲望の火がまた燃え上がる。彼は不自然な形でかがみこむ。僕の胸元に髪の先が触れ、それから唇が触れた。

「何を」

 僕の喉から強張った声が漏れた。あろうことか冷たい唇が僕の乳を咥え、そこから垂れるものを吸い上げていた。恐ろしさと惨めさと、驚愕に僕の頭の中はかき回され、くらくらと眩暈がして、意識は落ちていった。


 乳がおかしくなったのは、一月ほど前だった。

 胸元がちりちりと痛んだ。幼い頃によく作った汗疹の皮膚からの痛みではなく、内側からの痛み。胸の内側というものをそれまで意識したこともなく、自分の平坦な胸を見て、怪訝な思いに駆られた。

 あるとき、シャツの胸元が濡れていた。暑くもないのに汗ではない。血や、血漿かと疑って傷を探したが見当たらない。甘いような匂いがする。何か零したかと思うがその覚えもない。まさか乳でも出たか、と嗤い、嗤ってから他の可能性が思い至らないことに気づいてぞっとした。

 そのまさかだった。僕の胸は乳を出すようになっていた。胸元の痛みはひどくなり、それが皮膚の一番薄い場所に及んだ。血の色を透かした小さな乳嘴。ただあるだけのはずの不要な器官が、日に日に赤みと大きさを増していった。腫れているのかと指で触れ、むずがゆさに手を離した。内側から何かが実り、皮膚を破って出てくる感覚。僕は脳髄より先に肉体でその予兆を感じ、しかし受け入れがたく、直視するのを避けた。シャツが濡れることは増えていった。

 現実に、或いは現実の形をとった悪夢に向き合わざるを得なくなったのは一週間ほど前だった。風呂から上がり、膨れた乳嘴を見ないようにさっと胸元を拭うと、ぴりっとした痛みが走った。切れたのかと目をやると、赤く膨れた粒がとうとう耐えかねたように白いものを垂らしていた。半ば予期していたとは言え、この目で見てもつくづく信じがたい有様だった。僕の意識をこのおぞましい現実に屈服させたことを誇るように、たらたらと白いものは二つの粒から流れ続けた。微かに甘いぬくみのある匂いがおぞましかった。僕はまだ湿った肌に寝間着を着込んだ。春物の薄手の胸元はすぐさまじっとりと湿り、じくじくと熱を持った胸に畳んだ厚い布を押し当てて、泣きながら一夜を明かした。

 翌朝は夢だったように胸の痛みも滴りも収まった。安堵のため息をついたが、ふとしたときに胸は熱を持って乳を零した。生まれた時から母はなく、父は幼いころに亡くし、学校を出てからは粗末な家で遺産を食いつぶして暮らす僕は、外の世界ばかりか自らの肉体にも怯えて過ごすこととなった。

 乳汁は常に滴るわけではなかった。ほんの少しだけ胸の先が熱を持ち痒みがあることは、服を着ていれば見ないふりをできた。濡れるシャツと肋骨と胸の間の疼きと生ぐさい甘みのある匂いをひと時耐えれば、すぐさまこの悪夢が過ぎ去るのだと思い込むことにした。これは僕という生き物の習性だ。そして、実際に困難が過ぎ去ったことは一度もなかった。手が付けられないほど悪化して、受け入れざるを得なくなるだけだ。

 溺れる夢を見た。鼻先で大きな男が死んでいて、傷口から出る血漿が零れて溢れて、息ができない。この男は誰だ。灰色の肌。がっしりとした大きな体。見ているだけで鼻先が痛むような、殴打に向いた骨ばった拳。父だ。父が死んでいる。

 起きたら寝台ごとぐっしょりと濡れていた。自分が溺れてはいないこと、子供ではないこと、父が、とうに死んでいることを思い出した。粗相をしたのかと疑って、乳汁のせいだとわかったのはしばらく経ってからだった。甘い、腐り始めたような豊かな匂いをさせながら、僕は医者に駆け込んだ。

 かかりつけに行くのは憚られて、偏屈で知られる医者の元に行った。年老いた妙に頭の大きい医者はむっつりと口を結んだまま僕の要領を得ない話を聞くと、開いたシャツの胸を覗き込み、無造作に僕の胸に触れた。ふむ、と言い、僕の痩せた体を隅々まで観察して、最後に告げた。

 体質だ。

 病気ではなく、単にそういう体質なのだと言う。たまにそういう男もいる。薬を出すこともできるが飲み続けないといけないし強い薬なので副作用がある。乳汁以外の不調がないのなら飲まない方がいい。そのうちに大量に出るようなことは落ち着く。訥々とした医者の説明をまとめると、そういうことだった。

 生まれつきいくらか女に近いんだろうな。

 僕に聞かれるとは思っていないような口ぶりでそう言った。医者にとって、目の前にいる僕は、自分で見聞きし、感情を持った人間ではないのだと言われた気がした。女に近い。だが女ではない。僕はなんだ。

 医者と同じぐらいむっつりとした中年の看護婦に金を払い、背を丸めて俯いて、人のいないほうへと歩いた。人通りは少なかったが、それでも誰にも見られたくないときには、一人一人を大きく感じる。男。女。女。赤ん坊。男。わからないのは赤ん坊だけで、自分の脚で歩く人間はみな男女の別がはっきりとわかる。僕はなんだ。この胸の張りはなんだ。この脚の間にぶら下がるものはなんだ。男と女というくくりの中にいられれば、それらの生臭さを見ないで済む。男の性。女の性。その奥ゆかしい言葉にくるんでおしまいだ。僕はそのどちらにもいられず、剥き出しの生臭い器官を直視しなくてはいけない。生きていくというのは、こんなにも見苦しいものか。

 ろくに食事をしていないので眩暈がしてきた。家まで耐えられそうもない。ふらふらと公園の東屋までなんとかたどり着くと、そのままそこで泣いていた。涙って滑稽だ。こんなに泣くのは、僕がいくらか女だからか。女が泣いても滑稽ではない。僕が泣くのが滑稽だ。僕は水分の滲み出てくる滑稽な袋だ。僕の惰弱な精神に、この袋は重すぎる。涙ぐらいでは軽くならない。

 そこまで話すと、

「可愛い袋だよ」

 と、彼は笑った。傷口のような赤い唇が横に広がる。それを見た時の肉体の疼きが、自分でも煩わしい。

「やめてくれないか」

「どうして」

 全てわかっている顔で、何もわからないような声を出す。僕はごろりと寝返りを打って彼に背を向けた。反応しかけている下肢と、じわじわと張っている胸。男と女の反応が僕のなかでぐちゃぐちゃに混ざりあい、羞恥に顔が熱くなる。羞恥は、男に属するものか、それとも女か。わからない。

「よし、よし。機嫌を直したまえよ」

 湿った自己嫌悪にぐずぐずと浸っていたいのに、彼がそれを許してくれない。骨のように白い指で、僕の体をなぞると、どうしても心が浮き立ってしまう。僕のなかにいるねじくれた心の子供が彼に懐いてしまう。

「もう食事の時間かい」

 心も体も彼に懐いたまま、情愛を知らぬまま年を重ねた唇だけが皮肉る。彼は僕の釦を外す。

「そうさ。私はいつでも渇いている」

 上等だが埃臭い寝台に背を押し付けられて、痩せた胸が露になる。青白いと思っていた自分の肌は、枯れた白い花弁を思わせる彼に比べると脂っぽく黄色い。牛酪の色に似ている。血管がみどりや青やむらさきに透け、その真ん中に赤くぽつんと乳首がある。僕の胸は、こんなふうではなかった。だが自分の胸を熱心に見つめたことなどないので、こんなふうではなかったときの有様を思い出すことがもうできない。もう思い出せもしないものに執着している。

 彼は微笑む。彼の笑みは貴族めいて優雅だが、赤い瞳だけが、渇きを隠すことができない。獲物の僕を欲しがっている。その目で見つめられると、胸が熱くなる。胸の先がちくちくと痛んで、白いものをとろりと零す。

「可愛いね」

「可愛くない」

 こんなものはただの粗相だと情けなく思うのに、その目と唇で可愛いと言われると、受け入れてしまいたくなる。乳が出ることも、美貌の男に突然日の差さない屋敷に連れ去られたことも、そもそも自分が生きていることさえ、本当は了解なんかしていないのに。

 彼の唇は血の色をしているが、つめたい。舌もつめたい。心臓を貫くつめたさだ。歯は凶器に似た硬さ。僕の理性は強張るが、僕の体は緩んで、彼の咥内をあたためるように乳を流す。彼は目を閉じ、僕の胸に枯れた白い薔薇のような美しい顔を預ける。萎れずに枯れた薔薇だ。黒い巻き毛が僕の胸をつやつやと黒い水のように流れる。僕の胸で安らいでいる。奇妙なことに、動いているときより目を閉じて安らいでいるときのほうが、生きているように見える。

 乳は血からできるのだと言う。僕の血が乳となり、彼の口に流れる。彼の傷口に似た唇に、僕の血が白く変じたものが注がれ、彼の肉体のどこかへ落ちていく。彼の肉体。彼には肉体があるのだろうか。これはただの美しい男のかたちをした空虚に過ぎないのかもしれない。獣のように渇きながらも満たされることはなく、僕から溢れる熱はそのまま闇へと落ちていく。彼の髪がつめたい。触れてみる。枯れ草のように乾いた感触。撫でていると、僕の皮膚の脂を奪って、柔らかく鞣されていく。僕は幼い獣を胸に抱いている。僕が愛着し、向こうからも愛着を示されてはいるものの、いつでも僕を食い殺せる獣。つめたく鋭い牙。

 彼は胸に頭を預けたまま、僕を見た。

「何を考えているの」

「特に何も」

 僕の思索というにはとりとめのない考えがばらばらと頭の中に散っていく。血を奪われるためか、ぼんやりとしてしまう。ぼんやりとしていないことなど、生まれてこのかたなかった気がする。

「もういいの」

 彼の唇に零れる白いものを拭う。自分から出たものとは言え、そのぬくみが不快だ。つめたい舌が指先を舐める。彼の舌は厚い。獣ではない。

「ああ。でも、もう少し撫でていておくれ」

「どうして」

「心地がいいんだ」

 先ほどのとりとめのなさとは違う義務感で撫でる。彼に乳を与えることを望んでいるわけではないが、そうでないときの彼のほうが困る。胸に憩っていた小さく物騒な獣は足音も立てずに去ってしまった。軽く微笑んでいる唇の全容が見えてしまうと、僕は平静ではいられなくなる。この反応が、煩わしくてたまらない。僕の体の上のつめたい体。これはただ男のかたちをした別のものだ。空虚。闇。あるいは死。夜の隅で誰にも見られることなく朽ちていく屍骸。

 だが、美しい。

 目を閉じる。埃と、甘いものの底に生ぐさい匂いがする。つめたい何かが乗っている。そこに意識を向けると、瞼の裏の闇が瞬き、流れ、夥しい色の奔流になる。

「眠いのかい」

 首を振る。

「あんたの話もしてくれ」

「私の話かい」

「僕だけが話すのは不公平だろう」

 本当はそんなこと欠片も思ってはいなかった。公平だの不公平だの、そんな概念が彼には似つかわしくなかった。人間が必死に均衡をとろうとしている秤をあっさりとひっくり返してしまうような存在に見える。対等なように振舞うのはただのままごとだ。

「確かにそうだ」

 だが彼は僕のままごとに付き合うつもりらしい。笑った口元から牙が見えた。大きく、尖っている。白く光る凶器。それを使うことなく、彼は語る。

 彼は異国で生を享けた。美しい父親と厳格な母親。父は彼が生まれてからも放蕩に明け暮れ、母のまだ幼いと言っていいほど若い弟の家で亡くなり、母は親戚付き合いをやめた。それがどういう意味なのか幼い彼にはよく理解できなかった。父に似た面差しの彼を母は愛し、厳しく躾けたが、無駄だった。

「可哀想なひとだよ」

 哀れみの色はすでに薄れているのに、その言葉だけが唇に残っている。そういった調子だった。

 最初は家庭教師だった。老人と言ってもいい年齢の男。厳格な母の眼鏡に叶った厳格な、ほとんど感情があることさえ疑われるような男だった。誘惑は簡単だった。誰に教わらなくとも彼は他人の欲望のありかとそのそそり方を知っていた。全てが終わったあと、老人は泣いていた。その頭を幼い彼が撫でてやると、老人は彼を悪魔だと呼んだ。彼は誇らしさに微笑んだ。その頬をしたたかに打つと、すぐさま体調を理由にして教師は職を辞した。

 幼い彼はあらゆる男女の寝台を征服していった。遊びというには深刻で、欲望というには冷静すぎる、それはある種の義務だった。母に課された義務を遂行するように、父から受け継いだ放蕩の血統を示す必要を感じていた。彼は放蕩の王として生まれつき、寝台が幼い彼の玉座だった。母と住む館の使用人にだけは手を付けなかったが、彼の成人を前に母は亡くなった。病みついた床で、灰色に褪めたつめたい指で、彼の指を締め付けるように握り、正しく生きろと言って死んだ。医者を呼んだあと、母の感触が残る指で、その医者と寝て、葬式までに屋敷の使用人全員と寝た。

「犬とも寝た」

「嘘だ」

 ぎょっとして出した声が我ながらあまりにも子どもじみていた。彼は楽しそうに音高く笑った。その声も子供じみていて、僕はふと、彼と最初に寝たという家庭教師のことを思った。こんな声で笑う子供に誘惑されるのはどんな気分だろう。気の毒だ。

「嘘だよ。犬とは寝ない」

 彼はなだめるように言ったけれど、それこそが噓かもしれない。そもそも、最初から本当のことを語っているのだろうか。彼が零すおかしな物語のひとつひとつを手に取ってその真贋を見極めるほどの気力がない。すべて本当らしく感じるし、同程度には嘘くさかった。

「おそらく、悲しかったんだろうね」

 彼は僕を見て微笑んでいた。その顔を見返した。赤い唇が、血に似た物語を零す。零した端から血は乾き、痛みは遠いが、跡が消えない。

 母に隠す必要がなくなった彼を止めるものは何もなかった。もともと未来というものを信じたことがなかった。母のために、信じたふりをしていただけで。花は美しく咲いたらおしまいだ。彼の肉体はまさしく咲き誇るように美しく、それを愉しみ、他者に分け与えることこそが善行だった。肉体を細切れにして分け与えることはできないので、代わりに人生を分け与えた。尊厳、未来、何と呼んでもいい。人を人たらしめるものを。惜しげもなく。

 そんな日々を過ごすうちに、一人の男に出会った。男からは灰と埃の匂いがした。

「寂しかったんだろうね」

 と彼はその男について語った。男は長い時間に倦みきっていて、旅の道連れに彼を選んだ。彼は深く考えず、それを受け入れた。男は彼の首筋に牙を突き立て、彼は今の彼になった。

「これは失敗だった」

 男は彼を束縛した。それは母の支配よりももっと彼の性質に合わなかった。外形的なものだけを求めた母と違い、男が欲しがったのは彼の心で、元来そんなものは持ち合わせていないのだから、応じられるはずもない。彼は男のきりもない要求、哀願、怒り、脅迫に疲れ果てた。この日々が永遠に続くことは耐えられない。そして彼は決断した。決断の結果がどういう行動を引き起こしたのかは語らなかったが、男は彼の前からいなくなった。彼の黒い睫毛の影で、赤い瞳が鈍く光った。

 彼は一人になった。旅は続いた。夜から夜へと渡る、きりもない影踏み遊び。厭くこともあるが、もう道連れを作る気にはなれなかった。

「そして、君を見つけた」

「都合のいい食糧として」

「そう。都合がよく、可愛らしい」

 彼は満足げに微笑んで、僕の顎を撫でた。親愛の情というよりもその先の何かを示唆させる動きだったが、本当にその意図があるというより、それ以外に他人への触れ方を知らないのではないかと思った。僕は首を振って避けた。

「僕があんたに惚れたら、どうするんだ」

「うん」

 彼は曖昧に頷いて、それから微笑んだ。

「どうしようかね」

 本当に、そんなことはまったく考えていなかったようだった。彼の赤い瞳にはその瞬間瞬間、征服すべき相手がいるだけで、本当の意味で他人の感情になど関心を持ったことがない。

「あんたはただ、他人から奪うだけなんだな」

「うん」

 大人の言葉にわからないながらも相槌を打つ子供のような無心さで頷く。

「それ以外に何かあるかな」

 青いほど白い、すでに枯れてしまった花の顔色で、困り果てた子供の笑みを浮かべる。

 僕は何を言っていいのかわからない。どう思ってもいいのかもわからない。僕の理性を超えた、僕の中の、だが僕の手の届かない場所で、何かが疼く。ちくちくと胸が痛み、赤い乳首から、白いものがとろりと溢れる。胸に顔を預ける彼の唇に触れる。彼の睫毛が閃き、その下で赤い星が瞬く。舌が伸び、子猫のように与えられた乳をちろりと舐め、彼は笑った。

「君がもし、私を愛したら」

 僕は顔をそむけた。聞きたくなかった。聞きたくなる自分を認めたくなかった。自分でもわからないこの肉体の変質、この化け物じみた男との出会い、その変化にいつの間にか順応しつつあることを、認めたくなかった。まだ、孤独でつまらない男であった自分にしがみついていたかった。胸が痛む。その痛みに、慣れつつあった。認めたくはなくとも。

「私も、君を愛してみよう」

 聞いてしまった。僕は指先で、乱雑に彼の髪をかき混ぜた。

「まだ、先の話だ」

「そうかな」

 僕はため息をつく。彼はすでに自分の勝利を確信している。正しい。僕はただ敗北のときを引き延ばすことしかできないだろう。だが僕が彼にひれ伏したとき、彼もまた僕のものになるだろう、淡い予感があった。それを確信に変えたとき、僕は彼に肉体の一部ではなく、僕自身を与えることになるだろう。まだ淡い、だが甘美な予感。

 窓を覆う分厚い布の隙間から、空が橙色に燃えるのが見える。昼が夜に征服されて、燃え落ちていく。埃臭い屋敷を包んで、世界は夜へと近づいていく。

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