ふたり暮らし(BL)

 おれって先生のこと好きなのかなあ、ともう百回は考えたことをもう一回考えながら先生を見る。

 先生は全然食べない。おれの半分も食べない。食事のたびにびっくりする。そういうことを言うと先生は、年なんですよ、と笑う。でも親父は先生とそう年が変わらないけど、先生ほど食べないわけじゃない。でも先生は、僕は一日中座ってる仕事だから、と取り合ってくれない。先生のジブリのキャラみたいな古くさいかたちの白いシャツはいつだってぶかぶかだ。

 今だってバターも砂糖も控えめにしたフレンチトースト一枚を、ゆっくりゆっくり食べている。眼鏡越しの睫毛は下向きで、まばらで細くて白髪交じりだ。先生の白髪は睫毛でも髪でも細くて、白というより色がなくて透き通っている。綺麗、というものでもないかもしれないけれど、おれはついじっと見てしまう。自分とは全然違う先生。他の誰とも違う先生。

 別に先生は普通のおっさんだ。ちょっと変わってるけど、ものすごく特別ってわけでもない。かっこいいとか、そういうこともない。かっこ悪くもないけど。痩せてて、どこで買うんだっていう重たそうな眼鏡をかけてて、古くさい服をきちんと着てる。言葉遣いも動作もなんだかいちいち丁寧だ。学者だけあって話す内容はなんだかいつも頭よさそうというか、おれがわかっていることのもう一枚裏に先生が本当に思っていることがありますよ、っていう感じで、でも嫌味な感じはしない。おれと話すのも、先生は嫌いじゃないんだろうと思うし、おれのことも、まあ馬鹿だとは思っているかもしれないけど、人間として完全に軽く見てるって感じはしない。でもそれはおれが先生ができない家事をしたり先生より体力があったりとかそういうのの評価をしてくれたんじゃなくて、単に先生が誰に対しても軽く見たりはしない人なんだと思う。先生はそういう人、だと思う。ちょっと変わってて、いい人だと思うけど、でも普通のおっさんじゃない、と言うほど普通じゃないこともない。

 先生がフレンチトーストをようやく食べ終わるぐらいに、おれはコーヒーを出してあげる。ありがとうございます、と手を拭いて先生は俺を見上げる。どういたしまして、とおれは返して、先生の正面の席に座るとテレビをつけた。朝なのでニュースばっかりだ。別に決まった番組を見ているわけでもないので、ついたチャンネルをそのまま見る。先生はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。新聞のせいで先生の顔が見えない。でもよかったかもしれない。テレビつけてるのに先生の顔だけ見てたらおかしいだろう。

「今日は早めに帰りますよ」

 先生が言う。

「早めって何時」

「五時とかですかね。何か買ってきてほしいものありますか」

「いい。先生高いものばっかり買ってくるしさあ」

 先生に買い物を頼むと、近所のスーパーで98円で売ってるほうれん草を駅前の高いスーパーで198円で買ってきたりするから、急ぎのときじゃないと頼まない。冷蔵庫の中身はまだ余裕だし。

「じゃあケーキを買ってきますけど、何がいいですか」

「え、じゃあサヴァラン」

 先生は日用品の買い物は下手だけど買ってくるケーキは美味しいしそんなに古くさくない。先生は食が細いわりに甘いものは結構好きだ。

 即答するおれに先生はふふ、と笑った。目じりにくしゃっ、と細かい皺がいっぺんに寄って、普段はつめたい感じのする顔がちょっと柔らかくなる。この顔で笑われると、おれはいつも何を話していいのかわからなくなる。

「了解しました」

 うん、と人見知りの子供みたいに頷いた。先生はコーヒーカップを持ち上げて、ちょっとおれの顔を見て、それから薄い唇の端だけ持ち上げて、言った。

「僕、買い物がへたくそでしょう」

「ああ、うん。へたくそだね」

「要するに何がいくらだと高くてどこに行けば頼まれていることにちょうどいいものが買えるのか、とか、そういったことがわからないんですよね。高いものを買うのももちろん問題だし、安いからと使えないものを買うのも問題です」

 その通りだ。安いから、ともう半分だめになってるような茄子を買ってきたこともあった。

「わかってるのに上手にならないね」

「練習が足りないんですかね。まあ、それはともかく」

 先生はちょっと言葉を切って、目を伏せると、ちらっと笑った。本当は笑いとかじゃなくて別の顔をしたいんだけど、それはできないから間に合わせに笑いました、みたいな顔だ。先生は時々こんな顔をする。この顔も、おれの言葉を持って行ってしまう。

「妻にも同じことで、よく怒られたので、ちょっと思い出しました」

 うん、とおれはまた人見知りの子供みたいになる。でも気持ちはさっきと全然別物だ。

 妻。先生の奥さん。写真でしか見たことのない人。いかにも先生の奥さんって感じの、優しそうなおばさんだった。それ以外のことは、あんまりよく知らない。

 すごく知りたい、とも思うし、全然知りたくない、とも思う。どうしたら満足するのかも、どうしてそんな気持ちになるのかも、おれにはよくわからない。

 先生は新聞を持ち上げて、また読みだした。顔が見えない。顔が見たい。


 先生はおれの親父の同僚だ。考古学をやっててしょっちゅう発掘とかに出かける親父と違って、哲学をやってる先生はそんなに家を空けないし、学者というイメージから思いっきりはみ出してる親父と違って先生は学者らしく静かだけど、この二人は昔から結構仲がいいらしい。

「お前赤ん坊の頃に抱っこしてもらっただろ」

 二か月前、親父に先生と引き合わされたときにそう言われたけど、もちろんそんなことを覚えているはずもなく、先生もちょっと呆れたように笑った。先生は今でも痩せてるけど、そのときはこの人やばいんじゃないかなあ、と自分のことを差し置いて心配になるぐらいがりがりで、笑った頬に縦に皺が深く入っていた。顔色も悪くて、病気なんじゃないかと思った。

「しかしまあ、おおきくなりましたね」

 不健康そのものの見た目に比べて、その声はあたたかくて柔らかくて、おれはその瞬間、先生を、なんていうんだろう、ただの心配な人だと思うのは、やめた。それはたくさんものを考えて、たくさん人を思いやってきた、ちゃんとした人の声だったから。家族以外のそういう声を、おれはそのとき本当に久しぶりに聞いて、それで自分が、本当はずっとそういうふうに話しかけられたかったんだということに、気づいてしまった。

 おれの親父は学者先生で、母さんはエッセイストで、兄貴は医者で姉貴は大学院生だ。要するにみんないい大学を出てて賢くて、人から尊敬されるような仕事をしている、か、しようとしている。おれは小さい頃から全然勉強ができなくて、それを怒られたことはなかったんだけど勝手に恥ずかしいとは思っていて、だから高校を出たらすぐに家を出て、前からバイトしてたホテルのレストランに就職した。料理の仕事は俺に向いていて、最初は楽しかった。でも上の人が変わって、仕事中にどなられたり殴られたりが増えて、段々おれはおかしくなって、仕事はやめて、家に帰った。家のみんなのように出来ないと出て行ったのに、外の世界でもうまくできない自分が、本当に情けなかった。それでも家のことをしたり、近所のお年寄りの頼まれごとをしてだらだら過ごしていると、親父に先生を紹介されて、奥さんを亡くした先生の家にハウスキーパーとして働くように言われた。最初の一週間は通いで、問題がなければ住み込みで。生活費は先生持ちで、高校生のバイト程度の給料も出す。親父はおれにああしろこうしろと指図することはほとんどないけれど、口にだしたらそれは絶対なのだ。家でだらだらするのもいい加減暇、というか、情けなさと申し訳なさでおかしくなりそうだったおれにとっても、そんなに悪い申し出じゃなかった。

 最初の一週間、おれは先生の家に毎日通った。広くはないけどおしゃれで日当たりのいい家。家に比べて広い庭は手入れが行き届いていて白やピンクの薔薇が見事に咲いてて、綺麗にしてるんだな、と思ったけど、中に入って驚いた。外側から見た幸せそうな雰囲気と全然違って、人が住んでる気配さえなかったからだ。暗くて、沈んで、湿った匂い。おれはとりあえず全部の窓を開けた。空気を全部入れ替えなくちゃと思ったから。それから散らかってはいないけど埃まみれの家をひたすら掃除した。掃除の合間に、洗濯をして、飯を作った。先生にできる家事は庭の手入れだけだった。

 先生とおれはうまくやったと思う。一週間で、先生の顔から病人っぽいやばい雰囲気はなくなった。先生はおれの作ったものを、量は食べなくてもゆっくり丁寧に味わってくれて、美味しいと言ってくれた。ずっと忘れていたけれど、おれはそういうことがしたかったんだ、と思い出した。誰かにおれの作ったもので腹を満たしてもらって、ちょっとでも嫌なこととかを忘れてもらえるような、そういうことが。もうずっと、おれにとって料理の仕事は出来上がった皿だけで終わってて、その先にあるものを見てなかった。先生はおれに、いろんなことを思い出させてくれる。

「嫌になりませんでしたか」

 すっかり綺麗になった家で、ぴかぴかに磨いた窓ガラスに目を細めて、先生が訊いた。窓の外では、薔薇が綺麗に咲いていた。

「先生は?」

 先生は口元だけでそっと笑った。

「ちっとも」

 それで、おれたちは一緒に暮らし始めた。先生と暮らすのは、楽しい。楽しい、っていうのがどういうことだったのか、おれは少しずつ思い出している。きれいな色の新鮮な野菜を切ったりとか、シンクをぴっかぴかに磨くとか、晴れた日の洗濯物がきもちよく乾いたりとか、テレビでやってる映画のよくわかんないジョークを先生が説明してくれたりとか、二人で夕飯を食べたあと、食器洗わなくちゃと思いながら満腹でぼんやりしたりとか、どうでもいいようなちっちゃなことが、楽しい。先生とおれは全然似たようなところはないんだけど、でも先生といると楽しかった。ずっと暗い狭いところで縮こまっていた身体が、連れてこられた日当たりのいい広い場所にゆっくり馴染んでいくみたいに、おれはいろんなことをして、いろんなふうに楽しいと思った。そんなふうにおれはおれを、結構取り戻せたように思う。

 そんなふうになってくると、段々楽しい、にはちょっと違う何かが混じってくるようになってきた。先生が最初のころは全然しなかったくしゃって笑い方したとか、あとはまあ、奥さんの話したときとか、なんかちょっと、楽しくない、わけじゃないけど、楽しい、だけじゃない何かが。

 おれって先生のこと好きなのかなあ。そう考えるようになった。おれはゲイだ。男を好きになることがあって、今まで二人男と付き合ったことがある。でも先生はおれの今までの男の好みと全然違うし、おっさんだし、なんだかよくわからなくなってきた。先生といるのが好きで、先生といると楽しくて、でも楽しいだけじゃなくて、でも自分がどうしたいのかとか、そういうのがよくわからない。先生とセックスしたいかと聞かれると、それはノーだ。先生に対する気持ちを、おれは今まで経験したことはないし、それにどういう名前をつけていいのかもわからない。


 先生は食は細いけど、好き嫌いはあんまりない。年配の男性にありがちな、変わったものが食べられない、ということもない。結構料理にも詳しいし、何か目新しいものを出してもこれは何か聞いてくれて、俺の答えになるほど、と言って食べてくれる。だから油っこいものをなるべく避けるほかは色々作れて、それも楽しい。

 今日は秋刀魚の炊き込みご飯に茶碗蒸しと、茸とサツマイモの味噌汁、あと野菜と豚バラのグリル。先生の皿には肉はなし。ケーキがあるので、ということだ。

「茶碗蒸しですか」

「好き? 茶碗蒸し」

「好きですよ。銀杏入ってますか?」

「もちろん」

 先生はちょっとだけ目元を緩ませて木匙を手に取った。銀杏が好き。覚えておく。

 夕飯を食べているとき、先生はテレビをつけない。庭の虫の鳴き声を聞きながら、食事の合間にぽつぽつと話をする。先生の大学では、夏休みが終わったばかりだ。二か月近くも休みがあるって、どんな気分なんだろう。そんなこと言い出したら高校も出たのにまだ勉強したがるっていうこと自体、おれにはわかんないけど。

「夏休みが終わると来なくなる学生がいますね、毎年」

「やめちゃうってこと?」

「おそらくはそういう学生もいるでしょうけど、よくわかりません」

「金がもったいないね」

 先生は何か言いたいことを含んだ顔でうなずいた。おれは味噌汁をすする。

「毎年そういう学生はいるんで、そういうもんだと思ってしまうんですけど、来なくなった学生には、それぞれ全然違う事情があるんだろうなと考えると、奇妙な気持ちになりますね」

 おれは豚バラを齧り、一緒に先生の言ったことを噛みしめて、考える。

「そうだね」

 飲食業界は離職率が高い。おれにあったことも、その一行の中に飲みこまれてしまう。でもおれにとってはそういうことではなかった。似たようなことが誰に起こっていたとしてもあれはおれに起こったことで、おれはそれで苦しんだ。とても苦しんだ。それを、うまく人には言えない。どんなふうに話しても、言葉にしたらそれは言葉で、違うものになるから。

「何か役に立てたら、と考えてしまいますけど、いつも考えるだけで終わってしまいます。情けないですね」

「そんなことないよ」

 そんなことはない、と思う。気休めとかじゃなくて、本当にそんなことはないと思う。

「そんなことないよ」

 でもおれはそれをうまくいえなくて、繰り返した。

 先生は小さく、見ようによっては笑ってるかな、ってぐらいに笑った。なんだかいろんなものを抱えて、とりあえず笑いだけ表に出してみましたって顔。おれを、人見知りの子供みたいにする顔だ。おれ、先生のことが好きなのかな。黙ったまま、頭の中にその言葉がぐるぐる回ってる。答えの出ない質問。答えが出ることを、自分でももうあんまり期待してない質問。でも考えずにいられない。 


 夕食の片づけを終えると、先生が買ってきたケーキを食べることにした。それで、なんでだかわからないけど、先生が紅茶を淹れてくれた。今までそんなことなかったから大丈夫かなと思ったけど、不器用な手つきで、でも丁寧に、先生は紅茶を淹れてくれた。金の縁の、花柄の、ドイツの有名なメーカーのティーセットで。古いものだけれど、よく手入れをして使ったおかげで、いい時間の思い出だけが染み込んだようないいティーセットだった。

「どうでしょう」

 おれが一口飲んだのを確認して、先生が訊いた。いつもと逆で、ちょっと面白い。

「おいしいよ。上手なんだね」

 お世辞ではなく、美味しかった。先生が淹れれば、おれはなんでも美味しいと思うかもしれないけど。

「よかった」

 先生はほっとしたように言って、自分も一口飲んだ。おれはサヴァランを食べる。生地に洋酒のシロップがたっぷりたっぷり染みこんでいて、口の中全部が甘さと酒に占領されて、そのあとでオレンジや生地の風味がやってくる。味の中心に強い強い甘さがあって、それでがつんと殴ってくるような、身体にいい要素なんか一かけらもないケーキだ。おれはどうせならこういうケーキが好きだった。先生のケーキはチーズケーキ。なんだかそれも、先生らしいな、と思う。先生らしいってなんなのか、おれにもよくわかんないけど。

「今日ね、誕生日だったんですよ」

「え、先生の?」

 先生は首を振って、言いにくいことを言う用意に、薄い唇を舐めた。虫の声がする。

「妻のです。冬に、事故で亡くなったんですが」

 ああ。

 亡くなったことは親父に聞いて知っていたけど、いつとか、どうしてとかは、初めて聞いた。

「誕生日にはケーキを買って、僕が紅茶を淹れました。よく食べる人で、ケーキは二つ食べました。さすがに、ここ何年かは苦しそうでしたけど」

 ふふ、と先生は、見たことのない笑い方をした。先生の奥さんは、いい人だったんだろうな、と、その顔でおれは思った。いい人で、先生は奥さんが、本当に好きだったんだろうな、と。

「昔の話をしてもいいですか」

 こわれやすい包みをそっと開けるように、先生は言った。

「うん」

 それでおれも、そうっと答えた。先生は紅茶を一口飲んで、話しはじめた。

「僕と妻は、大学の同級生だったんです。一般教養の、フランス文学の講義で会いました。バルザックの授業です。先生がとてもいい加減な人で、授業に出なくても単位がもらえたんですね。当時はそういう先生がたくさんいたんです。それで、素直に出てる学生なんかほとんどいなくなる。でも僕はサボるのが苦手だったんで、出てました。先生はおじいさんで、ぼそぼそしゃべるんで随分聞き取りづらいんですけど、ちゃんと聞けばなかなか面白いことを言っていたんで、僕は一番前の席に座るようになりました。それで、他に真面目にノートを取っている学生に気づきました。それが、妻でした」

 大学に通ったことのないおれにはいまいちわからないところもあったけれど、だいたいのところはわかったので頷いた。

「声をかけて、なんとなく仲良くなりました。僕は哲学科で、彼女は国文学科でした。僕は男子校の出身だったので、女の子というものをこわいこわい、自分とは全然違う生き物だと思っていたんですけど、彼女はとても面白くて、とても話しやすかった。いろんな話をしましたね。本の話。音楽の話。映画の話。最初に二人で出かけたのは映画でした。今でも覚えています。夏で、観たのは「蜘蛛女のキス」でした。初デートにふさわしい映画ではなかったのかもしれないけど」

 先生は目を細めていた。そうやっていれば、もういない人がそこに見えると信じてるみたいに。伏せた睫毛が光に当たって透明になっている。

「友達になって、友達から恋人になって、二人とも大学院に進んで、院にいる間に結婚しました。お互いちょっとしたアルバイトと仕送りで暮らしてましたから、ひどい貧乏暮らしでしたけど、楽しかったです。何もなくても二人でいれば楽しかった。いくら話しても話したりなくて、お互いの研究の話もたくさんしました。彼女はとても賢い人で、びっくりするほど鋭かった。研究の上でも、僕はどれだけ助けてもらったかわからない」

 そこで、先生の声が暗くなった。暗く細くなった声で、先生は続けた。

「彼女はとても賢い人でした。あのまま研究を続けていたら、どれだけ偉くなったのかわからない。でも、途中でやめてしまいました。学費が苦しくなったし、僕のドイツへの留学についてきてもらうためです。彼女から申し出てくれましたけど、でも、僕が言わせたようなものでした。僕は彼女についてきてほしかったし、彼女の研究よりも僕の将来を優先してほしかった。それが当然なんだという気持ちも、少しありました。でも、彼女は一度も僕を責めませんでした。ドイツ語も勉強して、ドイツにも笑ってついてきてくれて、日本に帰っても毎日笑って家事をしてくれました。僕も段々、それが当たり前なんだと思うようになって、昔持っていた罪悪感さえ思い出さなくなりました」

 先生の目から、涙は出ていなかった。でも、言葉自体が涙みたいな話し方だった。

「でも、彼女が亡くなって……普通の主婦として亡くなって、僕は取り返しのつかないことをしたんだと、思うようになったんです。僕たちの間に、子供は生まれませんでした。彼女はほしがっていたんですが、できなかったんです。僕は彼女が残せたかもしれない色々なものを、根こそぎ奪ってしまって、代わりに何も与えられなかった。研究者としての彼女を死なせて、母親にしてあげることも出来なかった。彼女を……なんでもない人に、してしまった。何にでもなれる人だったのに。本当は僕の妻になんて、なっちゃいけない人だった。勿論、そんなことを誰も僕に言わなかった。僕は妻を亡くした可哀想な夫だった。でも僕だけは、僕が彼女に何をしたのか知っています。忘れることができません」

 先生は俯いた。どんな顔をしているのか、おれの目からは見えない。

 僕はひどいことをしました。

 暗い暗い声だった。

 そんなことない、と、言うことはできなかった。そんなことない、と、誰かに言われることも、多分先生には辛いことなのだろう。ひどいことをした、と、先生は思いたいんだ。奥さんができたはずのことは、とても素晴らしくて、それをできなかったことがひどいことだって、そう思いたいんだ。それはおれが触っちゃいけない場所のように思えた。誰だってそういう場所を持っているし、そこにつらいものばかりあったとしても、それをなくしてしまうのが、いいことだとは限らない。つらくて苦しいものを、大事にしたいことだって、あるだろう。うまく言葉にできないけど、おれはそう思う。

「薔薇、奥さんが好きだったの?」

 先生はゆっくりと、顔を上げて、頷いた。

「他のことは何もやる気になれなかったんですけど、これだけは枯らしちゃいけないと、思って」

 おれは立ち上って、カーテンを開けた。虫の声が少し大きくなる。庭は暗くて、でもそこここに、浮かび上がるように薔薇が咲いているのが見える。今咲いているのは黄色い薔薇だ。優しい色の、綺麗な薔薇。

「薔薇、綺麗だね」

「そうかな」

「綺麗だよ。おれ、ここの薔薇好きだな」

 先生は少しだけ表情を緩ませて、庭を見た。先生の目にはおれよりもずっと、薔薇が綺麗に見えるんだろうなと思った。

「死んでしまいたかったんですね。僕は、多分」

 庭を見たまま、先生は言った。おれは驚かなかった。きちんと頭の中でそれを言葉にしたことはなかったけど、でもそうだろうなとは感じていた気がする。

「でも、それはだめですね。死んではいけないんだ」

 前向きというよりも、何かを諦めた声だった。

「死んでほしくないよ」

 おれの気持ちになんの意味があるのかわからないけど、言ってみた。声はちょっと震えていた。

「生きててほしいし、おれ、先生が生きててくれて、嬉しいよ」

 言葉と一緒に涙が出てきて、びっくりした。びっくりしたのと恥ずかしいので俯いて顔を隠したけど、多分ばれたと思う。ふ、と、先生の笑う気配がした。

「君が来てくれてよかった」

 聞こえた言葉が信じられないけど、でも確かにそう聞こえた。

 君が来てくれてよかった。

 おれは鼻を啜った。涙はまだ止まってなくて、でももう恥ずかしくはなかった。言いたいことがあった。

「おれも来てよかった」

 はい、と先生は笑った。痩せた顔にまだ悲しそうな気配があったけど、でも笑っていた。そういう笑い方だった。おれはその顔を、とても好きだと思った。恋愛とかそういうの関係なく、その顔が見られてよかったと、そう思った。

 おれ、先生のこと好きなのかな。

 何回も自分に繰り返した質問の答えを、おれはまだ見つけてない。おれにわかるのはただ、ここに来れてよかったということ。それから、まだここにいたい、ということ。それは探してた答えとは違う。でも、こっちのほうが多分おれには必要な答えで、今のところ、これだけで十分だった。

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