六年ののち(BL)

 恋をした。十四歳だった。



 成人式なんてものに出席することを決めたのは、あの人が来るかもしれない、と思ったからだ。あの人が今どうしているのかに興味があるわけでも、想いが募って一目だけでも会いたいと思ったわけでも、ない。俺が今興味があるのは、六年も経った今になって、あの人に会って、自分がどんな風に思うのか、ということ、ただそれだけだ。あの人がどうしようもなくまた、ほしくなるのか、ただ静かな気持ちであの人の笑みに笑みを返すのか、或いは成人した俺にはあの人がただのくだらない中年に差しかかった男にしか見えないのか、それに、興味がある。俺は今、あの人をどう思っているのか、という、ただその事実、それだけに。

 六年前、その人はいつもぼんやりと微笑んでいた。着古してくったりとした、けれど清潔な白衣を身に着けて、長い指でチョークを優しくもてあそんでいた。あの人は国語の教師だった。若くて、整った、けれども目立たない顔をしていた。そっと教室の木目に溶け込んでしまって、どんな顔をしているのかもあやふやな、そもそもどんな顔をしているかさえ相手に考えさせないような、そんな顔をしていた。

 長い首だった。柔らかな低い声だった。固い腕だった。細い腰だった。いつも背筋が少し右に曲がっていた。重い荷物を担いででもいるかのように。見た目に似合わず、高い体温をしていた。体の奥に静かな火をいつも燃やしているような、触れている人間を溶かしてしまうような、体温だった。

 そしていつも、目の前にいる人間を、会話をしている人間を、その薄い唇にがむしゃらに自分の唇を押し付けている人間を、その骨っぽい胸に頬をつけている人間を、優しく無視しているように、穏やかだった。

 俺は、彼に恋をしていた。初めて教室で見たときから、ずっと恋をしていた。生徒に課題をやらせている間、頬杖をついて窓の外の日差しに目を細めているのを見たときにはもう、手遅れになっていた。金色に透けるあの人の輪郭。頬骨まで伸びた、レースのように繊細な睫の影。授業中、俺の名前を呼んで、あの人の唇の形に見とれていた俺が驚いてがたりと椅子を動かしたとき、あの人は瞼の厚い、眠たげに見える一重の目を少し見開いて、それからそっと、可笑しそうに微笑んだ。たったそれだけのことなのに、俺はそのとき、泣き出しそうになっていた。この微笑を、この日の乾いた空の色を、いつまでも忘れられない、と十四歳の俺は知っていた。それは初めてあの人から俺に、俺だけに向けられた笑顔だから、一生、忘れられない、と。かすかな絶望とともに、知っていた。

 俺はあの人に近づいた。あの人は困ったように笑って、でも俺を受け入れた。放課後に、晴れた日でも暗い、湿った匂いのする図書館準備室で珈琲を淹れてくれた。内緒だよ、と、砂糖とミルクを一つずつ、入れて。水っぽい、苦いだけのやけに熱い珈琲。

 二人とも、いつも話す言葉を見つけられず、ただ黙って珈琲を飲んでいた。いや、違う。見つけられなかったのはいつも、俺だけだ。あの人は、俺に対して言葉をかける必要なんて少しも感じていなかった。いつも、ぼんやりと、何かを思い出しているかのようにぼんやりと、微笑んでいた。俺など見てはいなかった。恋をしているのも、そもそも相手に興味を持っていたのも、興味を持ってほしいと思っていたのも、ただ俺だけだった。

 二人で黙り込んでいる間、俺はただあの人を見つめていた。あの人の、少しチョークで汚れた白衣を見ながら、その下の身体の線を想像して、一人で身体を熱くした。ほしい、と胸の中で暴れ出す欲望を必死で抑えた。あの人に触れたかった。あの人に、俺を見てほしかった。あの穏やか過ぎる目を、俺で揺らしてほしかった。

 初めて唇を合わせたのは、梅雨の頃だった。ひどく寒い日で、あの人は紫に褪めた唇を、何度も舌で嘗めていた。唇とは対照的に濡れた舌は紅く、唾液に濡れた唇は一瞬だけ舌の色を移したように赤く染まっていた。その赤が目の奥に張り付いて、揺れていて、俺は立ち上がり、あの人の唇に、指で触れた。濡れた唇は、ひどく熱く、ぬめるような、肉そのものの質感で、俺はつい指を離した。あの人は、ふふ、と可笑しそうに笑った。

 その声に、か、と頭の中で何かが閃いた気がした。子供扱い、されている。それが悔しくて、苦しくて、俺はあの人の白衣の襟を掴んだ。乱暴な動作を取っている癖に、臆病な俺は恐る恐るあの人の目を見た。あの人はいつもと同じ、穏やかな、ぼんやりとした笑顔を浮かべていた。俺など見てはいないような、いつもの笑顔。だから俺は、あの人にキスをした。苦しかった。本当に、苦しかった。キスをしながら、湿った熱い息とぬめるような唇を、ずっと、たった二ヶ月しか経っていなかったのに永遠のように長い時間触れたかったその唇を自分の唇で感じながら、俺は死にそうなぐらいに、苦しかった。外では雨が降っていた。部屋の中にいても冷たく濡れるような雨の音を聞きながら、俺は自分の中の火が自分を焼き尽くしてしまうような気がしていた。そして、今までずっとうすうす知っていたことを、ようやく自分にはっきりと告げることになった。

 この人は、俺を好きじゃない。これから先もずっと、好きじゃ、ない。

 十四歳で、愚かな恋をしていた俺は、そんなところではひどく聡明だった。

 悟ったそのとき、俺は諦めるべきだったのだろう。一刻でも早く、興味もない同性の生徒のキスを無感動に受け入れる教師なんかに恋をするのはやめて、まっとうな中学生生活を送るべきだったのだろう。そんなことは、わかっていた。でも、行くべきではない、とわかっていたのに、俺はどうしても放課後になると、準備室に向かってしまうのだった。人目を避けて、足早に。すぐに引き返せる、と自分に言い訳しながら準備室のある三階への階段を二段飛ばしで上り、自分の弾む息と背中を流れる汗を感じながら今日だけ、これが最後、と思いながら、立て付けの悪いドアを軋ませてしまうのだった。あの人は、たいがい本を読んでいる。古びて細かな傷だらけの赤茶色の革のカバーをつけた文庫本を。何読んでるんだよ、と聞くと、ようやくこの部屋に自分以外の誰かがいるのに気づいた、というように顔を上げ、薄く微笑んでタイトルだけを口にした。必死で覚えて、家に帰るとノートにメモをした。思い出せないときは、思い切り自分の頭を殴り、ベッドの上で布団を引きちぎるほど握り締めてどうにか思い出そうとしていた。そんなふうに自分を痛めつけても、記憶の中に溶けてしまったものもあった。あの頃のノートを見ると、こんなタイトルが書いてある。『レベッカ』『緑の家』『雨月物語』『蜘蛛女のキス』『初恋』『僕が電話をかけている場所』『嫁洗い池』『謎のクイン氏』『モデラート・カンタービレ』『死にいたる病』『死の泉』『ガニメデの優しい巨人』『黒いトランク』……脈絡のないセレクトだ。ジャンルも時代も国も、何もかもばらばらだ。自分で読んだ本もあるし、見つからなかった本もある。たいして本が好きではなかった中学生でもすぐに読める本もあったし、まったく理解のとっかかりがなく、丸のみするように読むほかないものも多かった。本を読むことによって少しでもあの人に近づこうとしたけれど、結局何にもならなかった。あの人が本を読んでどう心を動かすのか、俺には想像もつかなかった。あの人はあまりにも、俺とは違っていた。

 一年、そうやって、苦しくあの人を思い続けた。キスも何度か、した。力任せに相手に唇を押し付けるだけの、一方的な、幼い、寂しいキスを。セックスは、しなかった。できなかった。あの人がほしくてほしくて、夜も奥歯で叫びを噛み殺して眠れない日を何度過ごしたかわからないぐらいなのに、できなかった。

 どうしようもなくなって、あの人の身体に手を伸ばしたことが、一度だけ、あった。冬だった。柔らかな雪が、音も無く降り積もる日の、夕暮れだった。世界は灰色に染まっていて、俺の唇は青褪め、歯がうまくかみ合わずにがちがちと鳴っていた。頭蓋骨の中で脳みそまで縮こまってしまったようで、何もしていないのに涙ぐみたくなるような、そんな寒い日だった。

 準備室にはストーブがあったのに、あの人はそんなものないかのように火をいれず、ただ冷え切った部屋で本を読んでいた。頬杖をついて、背筋を丸めて、他の一切を気にも留めていない風で、ただ本を、読んでいた。時々吐く息が白く、それだけがその部屋の中で唯一温度を感じさせた。

 おい、とあの人を呼んだ。寒さのせいだろうか。変にひっくり返った自分の声が、妙に記憶に鮮やかだ。あの人はゆっくりと、顔を上げる。俺の声で、顔を、上げる。目があう。そしてようやく俺の存在に気付いたように、微笑む。唇の端から白い息を漏らしながら。いつだってそうだ、と俺は寒さで軋んだ胸に、血が滲むのを感じた。

 いつだって、そうだ。俺がこの人を呼んで、この人が、顔を上げる。俺に答えて。いつだって。

 珈琲を淹れようか、と、夜の木を揺らす風のような声で、あの人が言う。静寂を破るのではなく、むしろ深めるような声。

 あの人は珈琲を淹れる。内緒だよ、と笑い、ミルクと砂糖を一つずつ入れる。俺はそれを掌で包む。悴んだ指が、熱で痺れていく。

 君は、推薦だったね、と静かにあの人が言う。うん、と俺は答える。そして一瞬遅れて、高校に行く、ということは、この人と別れる、ということだ、と悟る。そうなったら、もうおしまいなのだ、とそういうことだけに聡明な俺は知る。もう二度と、この人と俺は会うことも無いだろう。この人は今までとまったく同じ穏やかさで、俺のことなど思い出さず、放課後にやってきた生徒にまた珈琲を淹れてやり、内緒だよ、と笑うのだろう。今このときは、過ぎ去ってしまう。そして二度と、戻ることはない。二度と。

 手の中の珈琲が、揺れていた。揺らしているのは、俺の涙だった。堪らなかった。さすがに、そのときばかりは、堪らなかった。この人に、俺は何一つ残せていないのが、堪らなかった。本当に、俺はなんでもなく、ただの少し変わった生徒として、この人に忘れ去られるのだと思うと、許せなかった。俺は決して忘れないのに。俺に向けるこの人のどんな視線も、表情も、どれも俺の心臓の一番近い部分に刻み込まれて、決して忘れることなどできはしないのに。

 あの人の視線を、伏せた瞼に感じた。顔を上げられず、涙も止められず、俺はひたすら珈琲を塩っぽくしていた。喉を小さく震わせながら。

 可哀想に。

 やっぱりいつもの声で、あの人は言った。何の思い入れもない、事実だけを示す声で。

 好きだ。

 喉の奥で、叫ぶように思った。祈るように、血を吐くように。好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ、と。ただ、それだけが俺の体の中に詰まっていた。

 この人が、ほしい。

 肺から搾り出すように息を吐き出し、俺は書類が散乱した机に乗り上げ、向かい側のあの人の襟首を掴んだ。白衣も、冷たかった。あの人は微笑んではいなかった。眠たげな、不気味なほど優しい目で、ただ俺を見ていた。噛み締めた奥歯からした血の味を、今も覚えている。

 俺は目の前の首筋に顔を埋めた。滑らかな首筋は、俺の身体を溶かすように熱かった。この熱が、ほしい。俺は奪うように、しがみつくように、あの人の肩を掴み、頬を薄い皮膚に擦り付けた。この皮膚の感触が、ほしい。これが手に入るなら、このままここで死んでもいい。違う。そのままここで死んでしまいたい。

 俺は細い、けれども固い髪を掴み、乱暴に口付けた。柔らかく濡れた、唇。冬でも熱い、この唇。俺も、この人と同じ温度になりたかった。指に食い込む髪が痛くて、俺は一層手に力を入れた。がつ、と歯がぶつかり、俺は唇を自分の歯で傷つける。血の味がする。自分のものより濃い、あの人の血。

 左手で髪の毛を掴み、唇を乱暴に合わせたまま、ひきちぎるようにシャツの釦を外した。鎖骨に触れ、その骨の硬さに怯えながら、撫で回した。俺の冷たい掌は、あの人の体温に解けることはなく、いつまでも冷たかった。珈琲で暖めたはずの指先はもうすっかり悴んでいて、熱い皮膚に触れるたびに痛むほどだった。その指先の痛みが、触れるはずのないものに触れているのだと告げているようなその痛みが、俺の全てだ、と直観して、止まったはずの涙がまた溢れそうになる。がちがち、と、音がする。自分の歯が鳴る音だ。その音で初めて、俺は自分がひどく震えていることに気付いた。そしてその途端、自分がひどく怯えていることにも、気付いた。

 手から、力が抜ける。あの人の肌が俺から離れる。

 君は、いい子だね。

 ぼんやりとした、いつもと同じ声で、あの人が言う。君は、いい子だね。襲われ、体を同性にまさぐられたというのに、相変わらずの穏やかな瞳で、この人はこんな言葉を紡ぐ。

 恐ろしくなる。俺は、この人が急に、恐ろしくなる。俺は、ようやく、この人に触れる、ということ、この人に恋をする、ということの恐ろしさが、わかってしまった。何もかも急に、全身で理解した。俺の内臓が、もう怯えていた。俺の体が、目の前のこの人の身体を恐れていた。その異常な体温を、異常な穏やかさを、その中に隠した生々しさを、俺のごく当たり前の、十四年しか外気に触れていない幼い体が、恐れていた。

 俺はもう、目の前に投げ出された体、その得体の知れない生き物に、手を伸ばせなくなる。それは俺ではない体なのだ。他人の、体。何を考えているのか、俺をどうするつもりなのか、俺には一切決定権のない、体。俺はそれまでもずっと、そのことに苦しんでいたのに、わかっていたつもりだったのに、ようやく、八ヶ月の時間をかけて、本当の意味でそれを理解した。あの人の、俺とは違う形の、俺の知らない鎖骨に触れて、ようやく。

 俺は一生、何一つほしいものを手に入れることはできないだろう。

 神託のように、俺の頭にそんな言葉が生まれた。何一つ、手にできない。思いどおりにはならない。これからも、ずっと。

 ううう、と俺は奥歯でうめき声をかみ殺そうとした。しかしその低い、けれど男そのものというほど低くなりきれていない声は、冬の空気を遠慮なく揺らした。

 俺は叫び出すことも、泣くこともできず、ただただ、呻き続けた。俺の中の少年らしいひどく無邪気で愚かな部分が無惨に切り刻まれているのを、ただただ呻きながら、感じていた。

 あの人はそれを、ぼんやり笑いながら、見つめていた。

 俺は一体、どれだけの時間、呻き続けていたのだろう。正確な時間はわからない。

 灰色だった世界はその中の黒をすっかり濃くして、あの人の顔は輪郭しか見えなかった。白く浮かび上がるようなその輪郭に俺は、じゃあ、と小さく呟いた。その声を、俺は聞き覚えのないものとして受け取った。枯れたその声のどこにも、十四歳らしい幼さはなかった。何もかもを手にしようと焦り、いつも上ずっているような幼さは、俺にはもう失われていた。

 あの人は表情を変えず、気をつけて、と答えた。俺とあの人はその日、そんなふうに別れを告げあった。

 そんなことがあったあとも、俺は準備室へと通った。けれどもうそこには、あの苦痛、あの人がほしくて堪らないのに、決して手に入らない、という苦痛は既になかった。もちろん俺は依然として、あの人が好きだった。あの日以降、一層好きになった、とさえいえるかもしれない。でももう俺は、あの人を手に入れたい、という望みは完全に捨てていた。ただただあの人の傍にいて、俺のような取るに足りない人間に、あの人が残り物を投げ捨てるように与える喜びを、意地汚く味わっていた。野良犬のように。人生の幸福を何もかも諦めた気になって。

 春、白い桜が柔らかく世界を飾る三月に、俺はあの人と、大した言葉も悲嘆もなく、ごく自然に別れた。ただ卒業式の日に、教師の群れの中に沈んでいたあの人の微笑みと、一瞬だけ目を合わせたような、そんな漠然とした、静か過ぎる別れだった。悲しくはなかった。むしろ、ほっとしたような気さえした。ずっと片付かなかった宿題をもうやらなくても済むようになったような、釈然としない安堵だったけれど。

 俺は静かに静かに、あの人を忘れつつあった。恋に身を焦がすようなことはなく、穏やかに、何も望まず、日々の幸福を安穏と享受していた。けれど、薄暗い教室に一人でいるときや、薄っぺらい匂いのインスタントの珈琲を飲むとき、あの人の読んでいた本を見かけたとき、俺は不意に暗い穴に落ちるように、心臓に鳥肌を立てた。その感覚に、俺はいつまでも慣れることができない。俺は、ひどく年老いていると同時に、いつまでも十四歳であるような気がする。着々と毎日細胞が生まれ変わり、着々と長くなり太くなる、乾いて日に焼けた腕が、いつでも見慣れない、居心地の悪いもののように感じる。年を取る、ということ、変わっていく、ということを、うまく受け入れることができない。いつまでも、細く小さく骨ばった十四歳の身体しか、俺の心に見合わないような気がする。二十歳の俺は、二十歳の心を持つことが、できない。もう六年になるというのに、俺は依然としてあの人に恋をして、同時に諦めている、年老いた十四歳のままだ。それ以外の何も、俺の心には似合わない。

 気持ちの悪い話だ。本当に、気持ちの悪い。それでも俺の心は六年前の疲労をそのままとどめていて、気持ち悪いな、とは思うのに、それをどうにかしなければ、という気には、どうしてもなれない。気持ち悪いけれど、それが事実なのだから仕方がない。俺は、あの人が、好きだ。なんのときめきもなく、一つの呪いのように、あの人を想い続けている。これが既に恋なのか、それとも単なる執着なのか、ある種の郷愁のようなものなのかさえ、もう俺にはわからない。それでも忘れることが、できない。

 もう一度、あの人に会いたい、と思うようになったのは、最近だ。会ってどうなるとも思っていない。けれど、少しはわかるんじゃないか、と思う。俺の恋に似た何か、あの人に対する気持ちが、新しい空気に触れずに俺の内部で腐る前に、その正体がなんなのか、捨てるべきなのか、それとも、きちんと対処するべきなのか、少しはわかるんじゃないか、と。

 だから来たくもない成人式のためにスーツまで買いに行き、短い大学の冬休みが終わった後のあわただしい連休に、こうして帰省して、あの人を一目、見ようとしている。

 市のホテルでこじんまりと行われた成人式は、粛々、とまでは行かないものの、無難に礼儀正しく行われた。元来のんびりとした地域なのだ。手短に済ませると最初に宣言したにもかかわらず二十分続いた市長の挨拶の間も、その後有志が主催するクイズ大会でも、俺は背筋を異常なぐらいぴんと伸ばしながら、ひたすらに戸惑っていた。皮膚の上を、ざわめきが叩き、揺らす。けれど俺の中に、それは届かない。何一つ、届かない。

誰の顔も見覚えがあるのに、誰の名前もわからない。身体だけが妙に大きく、何一つ考えることなどなさそうなこの若い人間たちが、全員自分と同い年だとは信じられなかった。

 今まで味わったことのない孤独で、心細い、というより、訳がわからなかった。水に無理矢理頭を突っ込まれたように、六年、という年月の長さをいきなり突きつけられたようにしか思えない。俺の時間と、現実に流れていた時間が、こんなにもどうしようもなくずれていることを、初めて思い知る。俺は十四歳ではなく、この得体の知れない生き物たちと同じだけ年を取っているのだ。退屈な挨拶の間場の空気を壊さない程度の私語を零し、クイズ大会に思い切りはしゃぐこの生き物たちと、自分が。あの人を呪いのように思い続けた六年の結果、その気持ち悪い結実が、この戸惑いだ。

 クイズ大会が終わり、話しかける同級生たちの顔を、俺は凝視する。親しげに笑う彼らに、不躾な視線を投げつける。その笑み崩れた目尻の皺に、唇から覗く黄色い歯に、そりきれていない髭が目立つ太い顎に。その中から、俺は六年の歳月で動かないものを見つけ出そうとする。俺だけが、俺一人だけがこんな目にあっているわけではないのだと、思いたい。けれど誰の顔の中にも、十四歳、あるいは十五歳、という年齢を見つけることはできない。彼らは単純に二十歳、或いは十九歳で、どんな意味でも、それ以外の年齢ではなかった。けれど、本当はこれが正しいのだと、もちろん俺にもわかっている。俺だけが、置いていかれている。俺だけが、自分の時間に縛られている。無意味に。

 無駄な時間を過ごしたのだ、と俺の中の冷静な部分が、告げる。この六年はまったくの無駄だったのだと。そうかもしれない。少なくとも俺は、それを否定する根拠を持たない。

 そして、俺は、あの人を探した。知らない、けれど見知ったような顔の群れの中で、あのぼんやりとした笑みを、目を凝らすように、探した。けれど、いなかった。教師らしき見覚えのある中年は何人かいたが、どれもあの人ではなかった。どこにもあの人は、いなかった。

 ホテルからバスに乗って、二次会に行くことになった。もう帰りたかったが、あらかじめ申し込んでいたので、そうも行かない。バスの外を、見知った景色が流れていく。田んぼと、もう取り壊したほうがいいのではないか、と子供のころから思っていた納屋のようなもの。個人経営の派手すぎる歯医者。古びた水色の喫茶店。そして、また田んぼ。年を越したばかりのころに降った雪が、まだ少し残っている。俺が出て行ったころから、この町は何も変わってはいない。同じ温度で、同じ風景のまま、ただ時間だけを重ねている。

 二次会は、見覚えのあるけれど自分が行くことになるとは思わなかった料理屋の二階の座敷で行われた。襖を取り払われた座敷は清潔で広々としていて、床の間には豪奢な花が生けられている。この町のありとあらゆる重要だったり政治的だったりする会合のほとんどはここで行われるのだろうなと考えた。この町は、子供のころ思っていたよりも、ずっとずっと、狭い。

 元気だったか、とか、今は何をしているんだ、とか、京都はどうだ、とか、彼女は出来たか、とか、そんな話題にあいまいに笑って返事をする。面影だけがある未知の二十歳たちは、それぞれガソリンスタンドだの鉄道会社だのに勤めていたり、親がやっている美容院で美容師になっていたりする。奇妙だ。ほとんどの人間が自分の親とともに暮らし、この町で職を得ている。おそらくそのままこの料理屋で政治的な会合に参加するようになるのだろう。

 奇妙だ。

 ぐら、と脳まで回ったアルコールに平衡感覚を見失いかける。額を押さえる。天井まで響くような笑い声と叫び声。このエネルギーはなんなのだろう。どうして俺は、こんなふうに騒いだり出来ないんだろう。なぜ再会を喜んだり、旧交を温めたり、そういう喜びに酔うことが出来ないんだろう。

「久しぶりだね」

 打たれたように衝撃に、顔を上げた。

 あの人だった。

 そのぼんやりとした笑顔、彼にしか浮かべられない笑顔。あの人だった。

 ああ、会いたかった。

 胸の奥から、熱い何かが体中に溢れていく。とてつもなく無軌道なことを口走りかねなくて、慌てて口元を押さえた。会いたかった。自分の気持を確かめるとか、整理をつける、とか、そういうことではなかった。ただ会いたかったのだ。この人の顔が見たかった。この人の声が聞きたかった。この人が、好きだった。今でも、好きだ。六年ずっと、恋をしていた。俺の中にいた十四歳だけじゃなく、その上に積み重なった六年の年月も、ずっとこの人を思い、ずっとこの人を探していたのだ。

「お久しぶり、です」

 敬語で話している自分が、奇妙だった。彼は少し驚いたように目を見開いて、それから微笑んだ。あのころにはなかった皺が、その顔には刻まれていた。その笑顔に見合った場所にある、その皺。この人の笑顔にこの人に見合った陰影を与えるその皺を、好きだ、と思った。この六年の時間は、俺の知らない場所で、こんなに快いかたちにもなっていたのだ。

「白衣じゃないんですね」

 古風な仕立ての、灰色のスーツを着ていた。それと、紺色のネクタイ。平凡だけれど、とてもよく似合っていた。この人はどこまでも、この人のままだ。

「コスプレじゃあるまいし。そんな趣味はないんだ」

 穏やかにおどけてみせる。この人はこんな話し方をしただろうか。たぶん、していたのだろう。そんな気がする。ただ、俺が覚えていないだけだった。あんなに恋焦がれたひどく奇妙なことのようだが、そういうことも、あるだろう。今ならそう考えることができた。あの頃俺は、あまりにも幼かった。

「それに、もう教師でもないんだよ」

「え」

 おどろく俺に、あの人はぼんやりとした笑みを投げる。

「名古屋で、古本屋をやってる。儲からないけど、僕一人なら、まあなんとかね」

「結婚してないんですか」

「……してないよ。たぶん、これからもしないだろうな」

 どうして、と俺は聞かなかった。理由はわからないけれど、誰かと一緒に暮らすこの人が俺には想像がつかなかったし、その考えを肯定されているようで、悪くない気分だった。

「君は、彼女はいないの」

「いませんよ。これからもたぶん、いないでしょうね」

 その答えにふっと笑みを深くして、彼は伏せてあったビールのグラスを取り、手酌で注いだ。

「生意気になったね」

「嫌ですか」

「……いいや。乾杯しようか」

 俺は半分ほどになったグラスを持ち上げて、軽くぶつけた。俺は一口含んだだけだが、彼はすぐさまグラスを乾した。綺麗な呑み方だった。ちらりと唇の端を汚した泡を嘗め取る舌は、鮮やかに赤かった。

「今、何をしているの」

「大学生ですよ。京都で」

「専攻は」

「哲学です」

「誰をやってるの」

「まだ決めてません。ドイツ観念論をやると思いますけど、でも、どれにもあまり興味がないな」

「僕は、カントが好きだったよ。なんだか生真面目な感じがしてね、岩波の薄いのを一冊ぐらいしか読んでないけど、世の中にはいい人がいるんだなあと思ったね」

「……検討してみます」

 卒論はカントにしよう、と今、俺は決めた。自分を馬鹿だと思った。十四歳のときのように、俺は馬鹿だった。あの頃は、厭うべきものだったその愚かさは、しかし二十歳の俺には、愉快なものに見えた。

「先生」

「なんだい」

「どうして来たんですか」

「……可愛い教え子たちが気になってね」

 微笑んだまま答える。嘘つきだ。俺のほかの人間は、この人が誰なのかも、たぶん気づいてはいない。白衣を着ていれば、あるいは気付いた人間もいるかもしれないが、それを脱いでしまえば、ただの見知らぬ男が一人、いるだけだ。そのぐらい、薄い人だったのだ。そのように振舞っていた。

 俺だけが、この人の中の熱を、探り当てた。俺だけが。

「俺は、先生に会いたくて、帰ってきたんです」

 さすがに顔を見るのは気恥ずかしくて、ビールを呑む。

「ずっと、会いたかったから」

 顔を上げないまま、言葉を待った。座敷は相変わらず騒がしく、落ち着く気配も見せない。けれど今はそれでさえ、不快ではなかった。再会と祝い事にはしゃぐ彼らの一人一人の二十年間を、祝福したいような心持でさえ、いた。

「……君は、昔から性急だな」

「若いですからね」

「僕みたいなおっさんからみれば、幼いんだよ。それは」

 そういえば、この人は一体いくつなのだろう。そんなこともさえ俺は知らない。何も知らない。知ろうと、しなかった。

「……君は、変な生徒だったな」

「先生は、変な先生でした」

「違うよ」

 ぼんやりとした、笑み。何か違うことを考えて、それを笑みで薄めているような、そんな表情。

「……僕は、悪い教師だったんだよ」

 グラスを持つ手が、震えた。途方もないくらい、この人が、目の前の、どうということもない中年の男が、いとおしくて、抱きしめたくて、たまらなかった。泣きたいぐらい、この人が好きだった。草臥れたように細かい皺を浮かべる張りのない頬や、目の下に刻まれた直線的な皺、色のない薄い唇、細い白髪交じりの髪。この人の上を通り過ぎ、教師という身分と一人の男としての肉体をすっかり覆ってしまう白衣を剥ぎ取り、代わりに柔らかな陰を落としていった六年の時間が、どうしようもなく、いとおしかった。

それはあの頃の、自分の欲望の熱さに焼き尽くされてしまうようなものではなく、もっと穏やかで、もっと心地よいものだった。もう少しそれを、確かめたかった。あの頃とは違うのだと。あの頃、俺は一人で恋をしていた。今ならきっと、違う方法で触れ合えるはずだった。あの頃より厚い、硬い手を、あの人の体に伸ばすことが、今ならできる。

「また、酒呑みましょうよ、先生」

 抱きしめる代わりに、とりあえず俺はそう言った。

「君は、京都なんだろう」

「名古屋なんて、すぐですよ。新幹線で一時間もかからない」

 生まれて初めて、俺は他人を口説いていた。この人に、心を動かしてほしかった。それが不可能なことだとは、何故だか、思えなかった。

「俺が、行きますよ。先生はただ、待っていてくれればいい」

 だって、ずっとそうだった。準備室が、名古屋になるだけだ。そして俺は、もう十四歳ではなく、この人はもう、教師ではなかった。

「来なくて、いいよ」

 ぼんやりとした笑顔のまま、そう言った。ぐしゃ、とあっけなく、俺の心臓が潰れる。生々しい痛みに泣き出しそうになって、でもどうにか堪える。それはよく知った、けれども決して慣れることができない痛みだった。何年たっても変わらない。あの頃と同じ、望みが何もかも潰される痛み。

 あからさまに傷ついた俺を見て、あの人は笑顔を消した。下向きに生えたまつげの向こうから、俺をじっと見つめていた。息が、詰まる。

「僕が、行くよ」

 そして、微笑んだ。それは、俺に向けられた笑みだった。穏やかで、心地よくて、でも少し気恥ずかしいような、初めて見るのに、ずっと知っていたような。

「……待ってます」

 俺も、微笑んだ。六年前には決して、浮かべることのできない種類の笑顔だった。



 恋をしたとき、俺は十四歳だった。

 二十歳になってまだ、恋を、している。たぶん、この先も。

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