第13話 制裁 ――その②

鈴掛治樹が新沼純一と知り合ったのは、高校に入学してまもなくの事だった。

それは高校で入る部活を探していた治樹が、方々へと体験入部を繰り返していたある日の事である。

中学の時、治樹は空手をやっていたが、空手に対してそこまでの思い入れは無かった。模範的な道場生とは程遠く、道場通いは“気が向いたら行く”という程度の不定期なものだった。

せっかく高校生になったのだ。この際、道場通いをきっぱりとやめ、新しい別の何かを始めてみようと模索していた。


治樹がサッカー部の練習に参加したのも、その様な、いわば“楽しい事探し”の一環だった。そんな期待に反し、練習開始直後から延々とランニングが続いている事に、治樹は多少ながら苛立ちを覚えていた。

受験でなまった体を解すのに丁度いいペースのゆっくりとしたランニングだったが、若干物足りなくもある。

共に参加している新入生たちはといえば、たまたま今日集まったのが余程体力の無い連中ばかりなのか、1人、また1人と、みるみる内に集団から脱落していく。

気付いた頃には、自分と肩を並べて走っている同級生は、自己紹介で“新沼純一”と名乗った生徒ただ1人になっていた。

純一の顔に疲労の色は無い。

不意に目が合うと、彼は涼しげな笑顔をこちらに向けてきた。

新沼と聞いて治樹が思い出したのは、新沼智子という生意気な道場生の事である。しかし、純一が智子の兄だという事を治樹が知ったのは、この日の純一との出会いから数日が経過した後の事だった。このときは単に偶然だろうという事で片付けてしまい、2人が身内だなどとは露程も想像しなかった。


「はっ、ふっ、はっ・・・お前ら、なかなかやるな。」

先導する先輩が振り返りながら治樹たちに声をかけてきた。

「このランニングは、入部希望の多いウチが新入生をふるいにかける、洗礼の儀式なんだよっ。」

冗談じゃない・・・それを聞いて治樹は思った。

こんなヌルいランニングが洗礼になるなんて・・・進学校の運動偏差値は、俺が思う以上に低いのか・・・

(これだったら、龍輔の奴でも余裕でレギュラー張れるかもな。)

治樹の頭に親友の顔が浮かんだ。

あいつは中学の時バレー部の補欠だったとか言ってたが、かなり高い身体能力を持ってる筈だ。

(何せ、俺の全力疾走について来れた奴だからな。)

何か切欠さえ掴めば、スポーツでもかなりの成績を残せるに違いない。そう信じて疑わない治樹は、このサッカー部に入るなら龍輔も誘ってみようと心に決めたのだった。


ようやくランニングが終わると、今度は対面式のパス練習が始まった。

この練習を言い渡された時は、正直うんざりだった。

治樹は中学の頃からかなりサッカーが好きで、昼休みなどはクラスメイトたちとミニゲームに興じる事もあった。その中には、サッカー部のキャプテンという肩書きを持った生徒もいたが、治樹が彼を抜き去った回数は1度や2度ではない。

多少の自信を持っていた治樹は、こんな地味なものではなくもっと高度な練習をしてみたいと思っていた。

「鈴掛って言ったっけか。パス練俺と組まねえか?」

そう治樹に声を掛けてきたのは、先程の純一だった。

治樹は言われるままに純一と向かい合い、先輩から渡されたボールを純一に蹴って寄越した。

「・・・いいフォームだ。お前、クラブとかでサッカーやった経験無いって言ってたよな。」

純一が感心したような声を上げたが、パスごときに上手いも下手も無いだろうと心の中でツッコミをいれる。

純一はおもむろに足を振り上げて、そのボールを蹴り返してきた。

思いの外鋭いパスが地面を滑るように飛んでくる。

(くっ・・・!)

慌てて差し出した右足に届く直前、ボールは急速にその勢いを減じた。パスを受け止めたときの感触は、まるでボールが足に吸い付いてきたかの様だった。治樹が放ったパスとは明らかに別物である。そのパスたった一本で、治樹は自分の思い上がりを痛感させられた。

地味な練習だと侮っていた自分を恥じつつ、治樹は見よう見まねでパスにバックスピンを掛けてみる。スピンの掛かりが甘かったり、逆に掛かり過ぎて届かなかったり、不必要にバウンドしてしまったり・・・色々試してみても、純一の芸術的なパスには程遠かった。

治樹が一種類のパスに苦戦している間も、純一は弧を描いてカーブするパスや、ふわっと浮かせたループパスなどを、治樹の立つ位置へと正確にコントロールしていた。


パス練習が終わると、純一は治樹の許に駆け寄ってきて、興奮した口調でこう言った。

「お前、絶対サッカー部入れよ!俺は元々入るつもりだしさ。お前が入れば絶対面白くなるよ!」

ついさっき無様な素人っぷりを晒した治樹には、自分より明らかに高い技術を持っている純一に、ここまで熱心に誘われる理由が分からなかった。ただ、その勧誘に対する答えは治樹の中で既に決まっていた。

麗らかな春の日、サッカー部員としての治樹の高校生活は、純一との出会いとともにスタートした。



その年の高校総体地区予選で、1年の内からベンチ入りしたのは治樹と純一の2人だけだった。

治樹は単なるベンチウォーマーに甘んじていたが、純一の出番はトーナメント2戦目に訪れた。

余程くじ運が悪かったのだろう、2回戦の相手は第一シードの高校だった。優勝候補と目されていた強豪校の猛攻を受け、前半は0‐5と大きく水をあけられる展開となった。


5点というのは、サッカーにおいて戦意を喪失させるのに充分な点差である。覇気を失って項垂れたメンバーに混じり、純一は後半からピッチに立った。

トップ下の位置に入った純一からは、不思議な磁力が発せられている様に感じられた。後半開始直後、ボールが足元に収まったその佇まいは、周囲の時間の流れが変わったように思わせるほどの存在感に満ちていた。

純一が右サイドにボールを出すと、サイドバックの選手のスピードがぐんと上がった。同時に、自身も急激にペースを上げて敵陣のゴール前に駆け上がっていく。

右サイドからのリターンパスを受けた純一は、トラップ時のワンタッチでマークを置き去りにし、鋭く左足を振り抜いた。

美しい軌道を描いてゴールネットに吸い込まれていくボール。

出場から僅か数プレーで、純一はサッカーエリート集団のチームから一点をもぎ取ったのだ。


試合の流れが、明らかに治樹たちのチームに傾き始めた。前半とはリズムがまるで違う。そのリズムを作っているのは、紛れも無く純一だった。

彼のパスは、チーム全体の動きを活性化させていた。パスで味方を動かすのはテクニックの1つだが、周囲の選手の特性を的確に把握している純一が技術に裏付けられた正確なパスを供給する事で、各々の持ち味が最大限に引き出されていた。


純一はその後も1ゴールと1アシストを積み重ね、試合は結局3‐5まで盛り返したところでタイムアップとなった。後半に限ってみれば、無名の弱小校が優勝候補のチームを圧倒した事になる。純一は守備においても前線からプレッシャーを掛ける献身的な動きを見せ、それが後半の零封へと繋がった。

結果は2回戦敗退だが、純一はその試合で、自身の存在を周囲に対して強烈に印象付けた。


帰りのバスの中、純一が隣の席の治樹にこう話しかけた。

「俺は、お前となら全国行ける気がするんだ。いや、もっと上までいけるかもしれない。」

その言葉に、治樹は心の中で苦笑した。

今日の試合で段違いの活躍を見せた期待の新星がただの補欠要因に向ける言葉にしては、大げさ過ぎる気がしたからだ。


しかし、純一は何も冗談でそのような事を口にした訳では無かったらしい。数日後、治樹は純一の本気さを痛感する事となった。

「今フォワードでスタメン出場している先輩より、鈴掛の方が能力があります。鈴掛の出場機会をもっと増やしてください。」

監督を含めたチームミーティングで、純一がそう直訴したのだ。

純一の言葉は治樹にとって嬉しいものだったが、純一の様にサッカーに全てを懸けている訳でも無い自分としては、その様な推挙は余計なお世話だという思いも幾分かあった。


そして何より、純一の発言が何やらよからぬ余波を巻き起こしそうな漠然とした不安を、治樹は感じていた。



治樹が抱いた嫌な予感は的中した。

「1年が何を生意気言ってるんだ。」

裏で先輩たちがそうやってこそこそ陰口を叩くのをしばしば耳にするようになったのは、その頃からだった。

先輩たちからすれば当然だろう。純一の提案が受け入れられて治樹がレギュラーに抜擢されれば、今までレギュラーを張っていた先輩フォワードは出場機会を多分に奪われる事になる。


上級生たちから反感を買った純一の存在は、部内で浮いたものとなった。練習においても、純一の孤立は度合を増していった。

「おい!誰もいない所にパスなんか出すな。俺は足元に要求してるだろうが!」

純一の出すパスにはメッセージが込められている。

そのメッセージを感じ取ってパスを受けると、受け手は自然とプレーしやすい状況に導かれる。純一の広い視野と、卓越した戦術眼の成せる業だ。

今になって彼のパスがまるで通らなくなり始めたのは、周囲のレギュラー組が彼のパスによるメッセージを無視しだしたからに他ならない。

「分かりました。足元に出せばいいんですね?」

そう断りを入れて、今度はこの上ないパスを先輩の足元に送る

純一。しかしその瞬間、先輩はディフェンスの裏のスペースに飛び出していた。

受け手を失ったボールは虚しくサイドラインの外へ転がり出る。

「ちょっとは状況判断しろよ!今のは裏が空いてただろっ!!」

完全な言いがかりである。純一の足からパスが放たれてから、僅かに遅れて先輩が動き出したのが、治樹にははっきりと見えていた。純一のパスを無駄にするためにわざと動いたのだ。露骨な嫌がらせも、ここまで幼稚だと呆れるしかない。

それでも、純一がボールを持てる内はまだよかった。やがて、純一にボールが出る事すらも無くなり、彼は無駄と知りつつもプレッシャーが少なくパスを受けやすい場所を求めてピッチを右往左往するばかりとなっていった。

レギュラーとして先輩たちに囲まれて練習する純一にとって四面楚歌の状況だったが、彼は文句一つ言わず黙々と練習を続けた。


ある日の休み時間、治樹はたまりかねて純一のクラスを訪れた。

「どうしてみんなの前で目を付けられる様な提案したんだ。意見を言いたかったなら、何もミーティングの場じゃなくてもこっそり監督にだけ伝える事だって出来ただろ。」

「ああ、出来ただろうな。でも俺は、先輩たちにもっと冷静な頭で俺の提案を聞けるような分別がある事を期待してたんだ。」

純一は疲れたように言葉を吐き捨てた。

「俺は代表選考合宿に呼ばれた事もあるけどな、集まった連中は、どんな事でも自分の成長の糧に出来るやつらばかりだったよ。ダメ出しされてもくさったりなんかしない。ましてや貴重な練習時間を犠牲にしてまで嫌がらせするようなクズは1人もいなかったさ。」

純一の回顧は、裏を返せば辛辣にも先輩たちをクズだと断じるものだった。落ち着いているように見えても、実際は相当苛立ちが募っているのだろう。

無理も無い。嫌がらせを受けている当人ではない治樹でさえ、やるせない思いが腹で渦巻いて胃がムカムカしていたのだから。

「なあ鈴掛、今度の紅白戦でちょっと先輩たちに思い知らせてやらないか?」

純一の提案には過激な響きがあった。

彼の言う紅白戦というのは、1週間後に予定されている上級生対1年生の試合の事だ。何でも、レギュラークラスの技術レベルを肌で感じさせて1年生の意識改革を促すのが目的という事らしいが、上級生が弱いチームを相手に優越感に浸るためだけのイベントという気がしないでもない。

上級生チームが苦戦する事は想定されておらず、ましてや1年生チームに負けるなど絶対にあってはならない試合と言える。

「けど、思い知らせるって・・・一体どうするんだ?先輩たちに一矢報いるにしてもお前だけじゃさすがに厳しいだろ。」

「だから鈴掛に声を掛けてるんじゃねぇか。」

純一は事も無げに言い放つ。

「俺はな、今のフォワードの先輩たちには本気でパスが出せてないんだ。スピードは鈴掛の方が上だし、何よりお前のセンスには天性のものがある。ゴールへの嗅覚とでも言うか・・・

とにかく、お前が受け手なら、おそらく俺も全力のパスが出せる。」

過大過ぎる評価を受けているとしか思えずに照れくささを感じる治樹だったが、尊敬するプレーヤーにここまで期待されるというのは悪い気がしない。

「よく分からんけど、俺は先輩たちが相手でも手を抜かずにやるだけだ。」

治樹のその返答に満足したらしく、純一は笑いながら「それで充分だよ。」と応じた。


話のついでに、治樹は日頃感じていた疑問を純一に投げかけた。

「ところでお前さぁ、中学では代表選考合宿に呼ばれるほどの選手だったんだろ?なんでウチみたいなサッカー弱小校に入ったんだ?強豪からの誘いだってあったんじゃないか?」

「おやじの許可が出なかったんだよ。」

力ない笑みを浮かべて純一は答えた。

「俺は成績もワリといい方だったから、親としては、サッカーに明け暮れるよりもいい大学に入って堅実な生き方をして欲しかったらしい。」

色々あるもんだな・・・そう思いつつ、治樹は独り言の様に漏ら

した。

「なるほど、それで諦めたのか・・・」

「諦めてなんかいないさ!」

半ば無意識に口から零れた言葉に力強い否定が飛んできて、治樹はついまじまじと純一の顔を見つめた。その双眸の奥底に、冷めやらぬ情熱が爛々と輝いているのが見える。

「まるっきり無名のサッカー部で結果を残せば、さすがにおやじも認めるしかなくなるだろ。それだけじゃ不満だっていうなら、また合宿に呼ばれて今度は日本代表をもぎ取ってやればいい。」

純一の言葉を聞きならが、治樹は自分の胸の中がじんわりと熱くなってくるのを感じていた。

これほど本気で夢を追いかけてる奴なんて、身の回りではこいつ以外心当たりが無い。そういう人間は見ているだけで高揚を感じさせるものだという事を、治樹はこのとき初めて知った。

「だけどな、結果を残すってったって俺1人じゃ無理だ。」

「だったらどうするんだよ。」

ここまで盛り上げておいて思いの外冷静な事を言う純一に治樹はツッコミを入れた。

しかし純一にひるむ様子は無い。

「だからお前に話してるんだって言ったじゃねえか、鈴掛。何度も同じ事言わせるな。」

いや、先刻は先輩に一泡吹かせるという話だった筈だ。

いつの間にか純一の野心的なサクセスストーリーに自分が織り込まれている事を知り、治樹はゴクリと喉を鳴らした。

治樹の肩をグッと掴み、純一が続ける。

「2人で勝ち上がれば、俺だけじゃない、お前だって注目されるはずだ。一緒にプロになってやろうぜ!」

勝手に人の将来まで決め付けるなんて随分はた迷惑な奴だと内心で愚痴を言いつつも、こいつの夢に付き合って思いっきり熱血やるのも悪くないなと思い始める自分がいた。

「まあ、やれるだけやるさ。」

高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、治樹はできるだけそっけなくそう答えたのだった。

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