第12話 歌
明くる日、家に帰った僕は、久しぶりに居間の電子ピアノを開いた。
このピアノを弾くのは、大体一年ぶりくらいになるか・・・
本格的にピアノを習った事は無いが、幼い頃、母さんが弾いている隣で時々教えてもらっていた。一人暮らしを始めてからも、たまに思い出したように弾く事はあったが、ここ最近はめっきり弾かなくなった。
そんな僕が久しぶりにこの電子ピアノを開いたのには理由がある。
治樹発案の作戦遂行のために、合唱コンクール課題曲の一節の伴奏を弾く役が必要だからだ。
楽譜は、作戦を西原に打ち明けた際に彼女から借り受けたものだ。
作戦会議は音楽室で開かれた。
合唱部の練習とかち合わないように、短い休み時間を利用してのものだった。
作戦において、初めはピアノ伴奏は登場しない予定だったが、僕が戯れに楽譜を借りて伴奏を弾いてみたところ、「これだけ弾けるんだったら作戦に使えるよ!」という話になったのだ。
西原は目を丸くして。
「白峰くんって、ずっとピアノ習ってたの!?」
と訊いてきたが、僕のピアノの腕はそんなに威張れる程では無い。ちょろっと触れる程度のものだ。
まあ、そんなこんなで、ちゃんと練習しておかないと不安なので、家に帰ってからも電子ピアノを開いて自主練中という訳だ。
「ただいま~~~」
部活を終えて帰ってきた涼子ちゃんが、僕のピアノの音を聞きつけて駆けてきた。
「あれっ?龍輔さんって、ピアノ弾けたんだ。へぇ~~、ふぅ~~ん。しかも、これ今年の課題曲じゃない!いつからこの曲練習してるの?」
感心したように僕の隣に張り付き、指使いを覗き込む。
「ん?楽譜は今日西原に借りたから、あんまり練習とかはしてないけど。」
「えっ!って事は、ほとんど初見!?」
「まあ、そうだけど・・・」
涼子ちゃんは、しきりに「へぇ~~~」と感嘆した様な声を漏らす。
「ねぇ、いつからピアノ習ってるの?小さい頃からずっと?でも、龍輔さんがレッスン通ってるとことか見た事ないな・・・やめちゃったの?」
矢継ぎ早の質問に苦笑しながら僕は答えた。
「習ってた事なんて無いよ。母さんにちょっと教えてもらっただけ。ちゃんと習ってる人に比べたら粗末なもんでしょ。」
「そんな事ないって!すっごい弾けてるじゃない!」
「合唱部の伴奏の娘の方が断然弾けてるし。」
「それは、ずっと練習してるからね。それにあの娘は音大志望だよ?龍輔さんも音大目指せるんじゃない?」
「あはは、まさか。」
涼子ちゃんの冗談みたいな言葉に思わず笑ってしまう。
しばらく聴き入っていた涼子ちゃんだったが、徐々に気分が盛り上がってきたらしく、やがて伴奏に合わせ歌い始めた。
その歌声は実に楽しげで、maestosoやdolorosoもすべてallegramenteに変わってしまっていた。
涼子ちゃんにつられてか、僕も段々面白くなってきて、練習する必要の無い楽章にまで気ままに指を走らせた。
涼子ちゃんは悦に入って、ソロパートと合唱の掛け合いの箇所も無理矢理一人で両方歌い始めた。そんな涼子ちゃんを見て、僕は笑いを噛み殺すのに必死だった。
大体の感触がつかめたので練習を切り上げて部屋に戻ろうとすると、涼子ちゃんに呼び止められた。
「ねぇ、どうしてまたコンクール課題曲なんかを弾いてたの?」
「ああ、ちょっとね。久々にピアノを弾こうかと思ってたときに、たまたま楽譜を借りる機会があったから・・・」
「ふぅん・・・」
まあ、そんなに言いふらせる様な事情では無いので、こんな感じで誤魔化しておいたほうが無難だろう。
幸い、涼子ちゃんはそれ以上追及してはこなかった。
さて、いよいよ作戦決行日。
二時限目の休み時間に、僕はとあるクラスを訪れていた。
「えっと、その、話があるんだけど・・・」
「・・・はい?・・・なにか?」
「その、ここじゃ、ちょっと。」
勇気を振り絞って声をかけた相手は、吉井雅美さんである。
森田さんが西原に突っかかってきたときに森田さんの隣にいた娘だ。
今回の作戦では、森田さんと親しい人の協力が是非とも欲しい。
相当難しい事ではあるが、それでも吉井さんに声を掛けたのは、彼女ならあるいは・・・と思う節があったからだ。
あのとき、吉井さんは悲しそうな顔をしていた。そして、西原が音楽室に駆け出そうとするのを引き止めてくれた・・・
今の西原と森田さんの関係について、彼女なりの思いがあるのではないか・・・そう思ったのだ。
怪訝な顔をして屋上までついてきた吉井さんに、僕は計画について述べた。
神妙な面持ちで話に聞き入る吉井さん・・・果たして僕の言葉はどのように受け止められているのか、その表情だけでは読み取る事が出来ない。
「・・・というわけで、吉井さんにも協力してほしいんだ。」
吉井さんは、少し考え込む素振りをみせた。
「えっと・・・それだけ?」
「え、それだけって?」
僕は思わず訊き返した。
話はそれだけか・・・吉井さんの返答は、そういった類の、有無を言わさない拒絶の意に取れるものだった。
正直、提案している僕にも、無下に断られても仕方の無い頼みごとであるという自覚はあるのだ。
あまりにも唐突過ぎたか・・・しかしその後悔は、次に続いた吉井さんの言葉によって霧散した。
「そんなんで、大丈夫なのかな・・・何か、仕掛けとかは無いの?」
吉井さんの問いに、僕は俄かに勇気付けられた。
それは暗に、西原と森田さんの関係を改善したいという僕らの思い自体に対しての賛同を示すものだったからだ。
「何にも無いよ。あまり芝居じみた事やっても意味無いんじゃないかな。お互いが本音で語る事ができたなら、それでいいんだと思う。」
それを聞いた吉井さんは、ゆっくりと表情を和らげた。
「白峰くん、西原さんを信じてるんだね。」
「・・・」
「それに、加奈ちゃんの事も信じてくれてるんだね。ありがとう。」
思わぬ謝辞に、僕は頭を掻いた。
僕だって、ほとんど治樹の作戦に乗っかってるだけだ。感謝されるのは筋違いのように思えて気恥ずかしい。
ともかく、僕らは作戦遂行に強力な助っ人を得たのだった。
放課後、僕と治樹は音楽室の前にいた。
最後の授業が終わってから、既にかなりの時間が経つ。
治樹はサッカー部が終わってからダッシュで駆けつけたので、練習着のままだ。
練習を終えたらしき合唱部員がゾロゾロと出てきて、僕らの方を不思議そうに見やって通り過ぎていく。僕らが作戦で使うのは、合唱部員がはけたあとの音楽室だ。
「あれ、龍輔さん!何してるの?」
僕らに声をかけてきたのは、確認するまでも無く涼子ちゃんである。
「ああ、ちょっとね・・・」
(・・・まずい、この状況での言い訳を考えてなかった。)
涼子ちゃんが合唱部である事は知っていたのだから、こうなる事は想定できたはずだ。僕は自分の迂闊さを呪った。
「最近ピアノ弾くの楽しくなっちゃって、その、ちょっとだけ音楽室のピアノ使わせてもらおうと思って・・・」
とっさに取り繕ってはみたが、さすがに涼子ちゃんも今回はそれでは納得しなかった。
「うそ、コンクール近いのに、今日珍しく西原先輩が遅くまで残ってるの、何か関係あるんでしょ。」
「う・・・」
詰問じみた涼子ちゃんの口調に気圧され、言葉につまる僕・・・
「おう!神谷さんだっけ?」
そこへ治樹が唐突に会話に割り込んできた。
「そっか、君も合唱部だったんだよな。どうよ、コンクールに向けて調子は。」
「・・・まあ、ぼちぼちですけど・・・」
いきなりフランクに話しかけてきた治樹に、不意を突かれた涼子ちゃんは少したじろいだ。
「そういや龍輔の弁当作ってるのキミなんだってな。あれ、すっげぇ旨そうなんだけど!」
「はぁ、どうも・・・」
「俺にも作ってくんないかな?この前のそぼろご飯とか超食いてぇ~~~!」
「どうしてあなたに作ってあげなきゃいけないんですか?」
「え、なに?やっぱ龍輔は特別なの?妬けるねぇ~!」
「・・・」
「一緒に住んでるってどうなのよ?くぅ~~若い二人が同じ屋根の下かぁ!ラブコメなニオイがするなぁ!どうよ、龍輔から迫られた事とかあるんじゃねぇの?」
「・・・っ!失礼します!」
キッと厳しい目で治樹を睨み、ぷいっとそっぽを向いて去っていく涼子ちゃん。
(うわっ、かなり機嫌損ねてるな。家に帰るの気が重い・・・)
「おおっと、なんか以外にウブな反応だな。まあ、お前の事だから自分から迫ったりはしてないんだろうけどよ。」
「・・・あ、あはは・・・」
ある、とは当然言えないが、涼子ちゃんの吐息が掛かる程近付いたあの夜の事を思い出さずにはいられない。
「?」
微妙な反応の僕を治樹が不思議そうに眺める。
まあ、おかげで涼子ちゃんの追及を逃れる事ができ、とりあえずほっとする僕。
それからしばらくの時間が経ち、自主練で残っていた大方の部員が音楽室を後にした。
いよいよ作戦決行の時が近づいてきた。
ガチャッ
ドアが開き、中から姿を見せたのは、吉井さんだ。
「いいよ、入って。」
吉井さんに招かれ、僕は部屋に足を踏み入れた。
治樹は音楽室の入り口で待機だ。治樹が言うには、「伴奏の龍輔はともかく、部外者のオレが入ってくのは変だろ?何かあったときのために待機しとくのが今回のオレの役目だよ。」だそうだ。
中には、西原と森田さんが佇んでいた。
「ちょっと、雅美っ。これはどういう事!?」
「・・・」
目を伏せる吉井さん。
代わりに西原が口を開く。
「どうもこうもないよ。ただ、森田さんには私の自主練に付き合って欲しいだけ。こうやってお互いにアドバイスしあえる状況が今まで無かったなぁって思って。」
「何がアドバイスよっ!騙し討ちみたいに取り囲んで、卑怯とは思わないのっ!?今までの仕返しのつもり?ふんっ、逆恨みねっ!!」
「・・・加奈ちゃん。」
「雅美もなによ!何でこいつらに手を貸してるの!?ねぇ、どうして裏切ったの?何か不満があった?私は雅美の事信じてたのに!友達だと思ってたのにっ!」
「私もそう思ってるよ!!」
吉井さんの叫びがこだまし、その後、一瞬の静寂が部屋を包んだ。
「私も加奈ちゃんの事が大切だから、親友だと思ってるから、これ以上いろんな事抱え込むのやめて欲しいから、ちゃんと西原さんと向き合って欲しいんだよっ!
加奈ちゃん、西原さんに意地悪をするたび、辛そうな顔して・・・自分が傷ついてるじゃない!もうやめて欲しいの!これ以上加奈ちゃんが苦しんでるとこ見たくないのっ!!」
まくし立てる様に、吉井さんは思いを訴えた。
続いて、西原が言葉を紡ぐ。
「ねえ、森田さん、お願い。私、森田さんの歌は素晴らしいと思うし、今まで部を引っ張っていてくれた事に感謝してるの。
森田さんがもっと上達するために、私が伝えられる事があれば全部伝えたい。だから、森田さんの声を聴かせて?」
その言葉は穏やかだったが、逆らえない強さを含んでいた。
「・・・分かったよ。歌えばいいんでしょ!?」
西原に目で合図され、僕はピアノに向かった。
緊張に手が汗ばんだが、主役は彼女たちなのだから僕が気負う必要はないと自分を落ち着かせる。
僕の伴奏に、森田さんの美声が乗っかってきた。
思えば、森田さんの歌声をしっかりと聴くのはこれが初めてだ。
合唱部の披露演奏などでは、元々その人の声を知っていないと、歌声を聴き分けるのは難しい。
透明で張りのある声が、規則正しいビブラートとともに鳴り響き、完成された美を醸していた。
一分の狂いも許さない緊張感が場を支配し、僕は彼女に食らいつくよう必死に演奏した。
彼女の声には、鍛錬された技術の極みがあった。
彼女もまた合唱を愛する一人だと言う事を、僕は心から実感した。
歌い終えると、森田さんは挑戦的な目で西原を見やった。
「どう?何か文句つけるとこある?」
「文句なんてないよ、森田さんの技術は合唱部でも一番だと思ってる。でも・・・」
「でも、なによ!」
食いかかる森田さんを、西原は真っ直ぐに見つめた。
「森田さん、何と戦ってるの?」
その口調はあくまでも静かだった。
双眸に湛えるのは怒りではなく、悲しみにも似た切実さだった。
西原はさらに続ける。
「歌は戦いの武器じゃないし、相手を負かすものでもない。
森田さんの力みは声の制約になって、響きに広がりが無くなっちゃってる。
せっかく綺麗な声なのに、すごくもったいないよ!
森田さんは歌っていて楽しい?
森田さんは、何のために歌ってるの?」
「っ!じゃあ、今度はあんたが歌ってみれば!?」
森田さんの挑発に素直に応じ、西原はピアノの前に立った。
僕に伴奏を始めるよう目で促す西原。
この緊迫した状況にあって、その表情は不思議と余裕すら感じさせるものだった。
(それにしても・・・)
果たしてこんな方法で良かったのか・・・鍵盤に指を走らせながら、僕はそんな事を考えていた。
西原なら、何もしなくても自分でいざこざを解消したかもしれない。
僕たちがやっているのは、余計な横槍を入れているだけの事じゃないか?
逆に問題をこじらせてしまう可能性だってある。
大体、やるんだったら吉井さんが言ったようにもっと作戦を練るべきではなかったか。
ただ一緒に自主練をさせるだけなんて、無謀だったのではないだろうか・・・
詮も無い事に思いを巡らせていた、次の瞬間
音楽室の空気が一変した。
圧倒的な響きが辺りを支配する。
湧き出す泉の清流に満たされるように、室内は清々しい潤いに溢れた。
西原の歌が、始まったのだ。
まるで、西原を中心に新しい世界が広がっていくようだった。
凄まじい情感に、身震いが走った。
とくん、とくん・・・
自分の胸の高鳴りを感じる。
様々なイメージが体内を渦巻き、血管の隅々を巡った。
(すごい・・・すごいっ!)
こんなのは初めてだ。突き動かされるように指が勝手に動く。
自主練で弾く予定の楽章は既に終わっているが、体が演奏をやめようとしない。
僕は自分の内なる声に身を任せ、なすがままに指を躍らせた。
やがて、曲はソロと合唱の掛け合いへと入っていく。
西原の声に、もう一つの声が重なった。
吉井さんだ。
まるで西原の声に吸い出されるかのように、吉井さんは柔らかな声を響かせた。
吉井さんの手は、森田さんの手をしっかりと握っている。その優しい瞳は、森田さんにこう告げていた。
加奈ちゃんも、一緒に歌おうよ。
きゅっと唇を結んだままの森田さん。頑ななその表情は、こみ上げる衝動に耐えているようにも見えた。
そんな心の壁を溶かすように、西原と吉井さんの歌声が森田さんを包み込んだ。
吉井さんは傍らの森田さんを安心させるように、優しい笑みを向ける。
不思議な感覚だった。
音楽室を包み込んだ高密度な空間の只中で、お互いのむき出しの心がさざめき合い、響き合う・・・そんな感覚・・・
やがて森田さんは、恐る恐るといった様子で口を開き、喘ぐようにパクパクさせ始めた。
みんなで演奏すると楽しいよ。
さあ、森田さんも混ざろうよ!
西原と吉井さんが、歌でそう語りかける。
そして僕も、拙いピアノで震える背中を後押しする。
歌詞どおりに口を形作り、必死の表情を見せる森田さん。
その姿を見つめる僕の胸は、不思議と高鳴った。
森田さんの胸中では激しい葛藤の嵐が巻き起こっているに違いない・・・容赦ない風雨に晒されながらも、森田さんは必死に一歩を踏み出そうとしているんだ。
森田さんの力になりたい・・・
今までの経緯とか、不快なやり取りとか、そんなものは一切頭から消え去って、僕らは・・・僕らの演奏は、森田さんを励ましたいという思いで一つになっていく・・・
確かに、そう感じられた。
ほら、もうちょっと、もうちょっと!
音が、温かな噴水となった音楽の奔流が、頑なに震える森田さんの心に注がれて・・・
・・・しかしついに、その唇が歌声を紡ぐ事はなかった。
森田さんの目からは見る見る涙が湧き出し、口から溢れたのは嗚咽の声だった。
「加奈ちゃんっ!」
崩れるようにしゃがみ込んだ森田さんを、吉井さんがしっかりと抱き支えた。西原も、間を空けず駆け寄る。
「分かってるよ!あんたが私より上だって事はっ!あんたが練習嫌いなんじゃなくて、喉のケアのために声を出す練習を制限してる事だって聞いてる。
でも、本番直前まで仕上がってない部員たちは残ってでも見てやんなきゃいけないんだよ!!」
森田さんの沈痛な叫びが、僕らの鼓膜と心を衝いた。
「ホントは、ホントはみんなだってあんたの指導が受けたいんだ!!
私なんかより、あんたの指導を望んでるんだ!!
私が、私がどれだけっ・・・」
おそらく誰にも明かした事の無いであろう胸の奥を、森田さんは堰を切ったように吐露した。
「・・・ごめん、森田さんにばかり負担掛けてる事に気付かなくて、ホントごめんっ!」
吉井さんとともに森田さんの肩を抱きながら、西原も涙をこぼす。
森田さんはしきりに首を振った。
「分かってる。ただの逆恨みだって!あんたは何も悪くなんて無いんだって!私のしてる事は最低だってっ!!
でもっ、私っ、どうして・・・いいかっ・・・!」
「ごめん・・・ごめんっ!!」
紅潮した西原の頬を幾筋もの滴が伝った。西原は、まるでそれしか言葉を知らないかのように、「ごめん」と繰り返した。
「どうして、あんたが謝るの!?謝んなきゃいけないのはっ・・・私の・・・っ!」
顔をくしゃくしゃにしながら森田さんが反論する・・・しかし最早、涙で言葉にならなかった。三人は、固まるように身を寄せ合いながら、しばらくの間泣き続けた。
(もう、大丈夫だな・・・)
僕は、熱くなった目頭をこっそりハンカチで押さえながら、彼女たちの様子を見守った。
結局、僕が色々と気を揉む必要など無かったのだ。
西原の歌が、全てを氷解させた。
歌は心を伝えるもの。だから、歌い手の心が大切・・・
その信念を礎に、西原はおそらく膨大な時間を費やして自分の表現を磨いてきたのだろう。
西原の歌は、まさしく、彼女が自身の心血を注いで勝ち取った“力”だ。
僕の“力”のように、ややもすると暴走しかねない様なワケの分からない代物では決してない。
屋上で見た西原は、すごく繊細で壊れやすいものの様に思えて、ちょっとした親近感まで覚えたりもしたが、逆境の中に悠然と立ち、その声で空気を支配する姿は、卑小な僕が近付くのも躊躇われる程偉大だった。
やはり、彼女に相応しいのは僕じゃない・・・そう再認識させられた。
その日、僕と治樹と西原は、久しぶりに途中まで一緒に帰った。
僕は帰宅部だし、治樹と西原もそれぞれ部活があるので、こうやって一緒に帰るのは珍しい。
「今日は、ホントにありがとう。白峰くんがいなかったら、わたし・・・」
西原が、いきなりそんな事を言い始めた。
「そんな・・・西原が自分の力で解決したんだよ。僕なんて、ただピアノ弾いてたくらいで何もしてないし・・・」
激しく頭を横に振る西原。
「ううん!そんな事ないよ!
自分の歌う番が来たとき、私、恐くて足が震えそうだったんだよ。逃げ出したいって本気で思った。
でも、白峰くんがそこにいてくれたから、ピアノ弾いててくれる・・・一緒に演奏してくれるって思ったから、頑張れたんだよ!」
その言葉は僕にとって思いもよらないものだった。
あんなに落ち着いて堂々と佇んでいるように見えた西原が、本当は追い詰められてギリギリのところで闘っていたなんて、全くもって察する事ができなかった。
「それにね、屋上で白峰くんに相談するまで、私、自分ばっかり被害者だって思ってた。どんな人だって、色んな想いを持ってて、色んな悩みに苦しんでるのにね。そんなの、当たり前の事なのに・・・
あの時、白峰くんがそれに気付かせてくれたから、私は森田さんと向き合う事ができたんだ。」
謝辞を口にする西原の真っ直ぐな眼差しに、僕は心の芯まで溶かされそうになる。
「お、お礼なら治樹に言うといいよ。僕はただ治樹の計画に乗ってただけだし!」
照れくさくなって治樹を見やると、いつもと変わらない朗らかな笑顔がそこにあった。
「そんなに言うんならジュースの一本でも奢ってもらうかな!」
冗談めかしてそう応じる治樹の心の内を、僕は想像せずにはいられなかった。
気の置けない親友、何となくお互いの事が分かってしまうような感覚・・・それらの全てが錯覚だった事に気付く。
西原に対する治樹の思いを知った今では、どことなく互いに踏み込めない領域を意識し合っている様な心持ちだ。
真実を知るという事・・・それは、僕の心に小さなしこりを残していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます