第2話 同居

「西原先輩?おはようございます。」

それが、彼女の第一声だった。

「あ、おはよう、涼子ちゃん。」

えーっと・・・と首をかしげ、その娘は僕の方を不思議そうに眺める。

「ああ、彼はクラスメイトの白峰くん。」

神谷涼子かみやりょうこです。」

名を名乗って軽く会釈してきたので、僕も遅れてぎこちなく頭を下げた。

「ん、は、はじめまして。」

顔を上げると、彼女は栗色の瞳で真っ直ぐに僕を見つめていた。

胸がざわつく。

こっちの心の奥底にまで届いてきそうなその視線に耐え切れなくなり、僕は堪らず目を逸らした。

神谷涼子・・・僕は何故か、彼女の持つ雰囲気に威圧感を覚えていた。むき出しの刀身のような鋭利な空気が彼女を包んでいるように僕には思えた。

「あの、2人はどういう関係なんですか?」

彼女の問いはその瞳と同様、実にストレートだ。

「どうって、普通の友達だよ?登校する途中で会ったから、一緒に学校まで来たの。」

「ふ~ん・・・」

西原の返答を聞いて、神谷さんはつまらなそうに僕から視線を外した。

別に何か期待していたわけじゃない。

その筈なのに、西原がさらりとそう言ってのけた事が、僕には少しこたえた。

「それじゃ、西原先輩。また放課後。」

そう言って、神谷さんは僕らの前から立ち去った。

彼女は本当に、あの少女なのだろうか?

それにしては僕の事など意に介さない様子だった。

(初めて見た筈の景色や人をどこかで見た事があるように感じる現象を、既視感デジャヴって言うんだっけな。)

僕はそんな事を考えていた。

既視感デジャヴは、医学的には脳の疲労による記憶の混乱が原因であるらしい。

もしかしたら、ただの錯覚なのかもしれない。

大体、あのワンピースの少女の顔は、はっきりとは見えていなかったのだ。

偶然、神谷さんの顔がワンピースの少女の顔として、僕の記憶の隙間に割り込んでしまっただけなのかもしれない。

そう考えると、何もかもが疑わしく思えてきた。

今までの不思議な体験は全て、疲れからきた僕の妄想なのだろうか・・・


「ん?どうしたの?・・・ああ、もしかして白峰くんああいう娘がタイプだったりする?可愛いでしょ、涼子ちゃん。合唱部の後輩なの。」

僕がぼーっと考え込んでいるのを見て、西原はどうやら勘違いしたようだ。

「何か私に出来る事あったら言ってね。協力するから。」

西原の肘が僕の脇腹をつつく。

(協力する・・・か・・・)

西原からはその言葉を聞きたくなかった。

僕にとって西原が如何に大きな存在であっても、彼女からすれば僕は単なるクラスメートに過ぎない・・・その当たり前の現実を再認識させられる。

西原が振りまく爽やかな笑顔を、この時ばかりは苦痛にしか感じなかった。



昼休み。

終業のチャイムが鳴るなり教室を飛び出した僕は、階段を駆け下りていた。

(ほんっと、馬鹿だよな。)

作った弁当を家に忘れてしまった。

この季節あまり食欲の無い僕。せっかく保冷式の弁当箱にそうめんを詰めて用意していたっていうのに・・・

小走りで食堂に向かう。早くしないと人気メニューは売り切れてしまう事もしばしばだ。


渡り廊下に出た瞬間、僕は軽い衝撃を感じた。

きゃっ、という声と共に、1人の女生徒が後方に崩れた。

「ご、ごめん!大丈夫?・・・あっ!」

神谷さんだ。

彼女は僕の差し出した手を取って、ゆっくりと立ち上がった。

・・・ざわっ・・・

胸の奥でまた何かが反応する。

「えと、白峰・・・先輩。これから食堂ですか?」

「うん、そうだけど・・・」

「だったら、一緒に行きましょう。」

「・・・え、なっ・・・ええっ・・・!?」

状況を飲み込めず狼狽える僕の事などお構いなしの様子で、さも当然のように、神谷さんは僕の手を引っ張って歩き始めたのだった。



「白峰先輩、西原先輩の事が好きでしょ。」

2人でテーブルを挟んでの食事の最中、神谷さんが発した突然の一言に、僕は危うく頬張ったそばを吹き出す所だった。

「ごほっ、げほっ!」

汁が気管に入って咳き込んでしまう。

「分かり易い反応・・・」

「う・・・その、別に好きってわけじゃ・・・」

「白峰先輩には、西原先輩は無理ですよ。」

神谷さんの言葉は、あくまでそっけなかった。特に僕に好意を持っている風でもない。

この娘とこうして向かい合って昼食を摂っている事自体、酷く滑稽な状況であるような気がしてきた。

「・・・分かってるさ。」

ややぶっきらぼうにそう返す僕。

どうしてだか分からない。ただ僕は、自分でも不思議な程素直な気持ちになっていた。

この娘の瞳には、何かしらの魔力でも込められているのだろうか。

流されるままに始まったこのおかしな会食・・・まるで現実味のないこの状況に自制心が飲み込まれてしまったのか、僕の口は普段ならとても言うはずのないことを勝手に口走っていた。

「西原は、僕にだけ優しいんじゃない。誰にだって親切に声を掛けるんだ。

それなのに僕は、いちいち小さな事でぬか喜びして・・・そんなの馬鹿げてるって分かってるのに・・・」

僕は何を言ってるんだ。人に話すような事じゃない。

そう思いつつも、言葉はするすると唇の隙間から零れ落ちた。

僕の目は少し潤んでいたかもしれない。自分が情けなかった。

神谷さんはそんな僕を、呆れるでもなく、ただ、じっと見つめていた。

ややあって、彼女はおもむろに右手を差し出すと、人差し指で僕の額にそっと触れた。

その行為は、何を意味するものなのだろうか。

そんな思考を溶かすかのように、僕の心は、穏やかな感情で満たされていった。


繰り返すさざなみの旋律に、洗い流されるかのように・・・



--------



神谷さんとの出会いの翌日。

その日の朝もいつも通り、心地よい日の光が僕を眠りの世界から引き上げた。

何とも言えない清々しさは、日当たりのよいこの家で暮らしている特権と言えるだろう。

いつか、目覚めない朝が来るまで、僕は目覚めを繰り返す。

それはごく当たり前の事。

そう、当たり前なのだ。いつか人間は目覚めない朝を迎えるという事も含めて・・・

(そうだ、今日はおじいさんのお見舞いに行こう!)

・・・ちょっと残酷な連想しちゃったかな。



「おい、これから映画を観に行かないか?7SENSESって映画なんだけど。

最近テレビで宣伝やってるアレだよ。亡霊を見る事のできる少年が、変なヨロイを着てマッハの拳を繰り出すヤツ!」

放課後、治樹がそう声を掛けてきた。

「ごめん、今日はおじいさんのお見舞いに行こうと思ってるんだ。」

「見舞いに行くのか!?何で早く言わないんだよ!おーい、洋介!そういう事だからまた今度な。」

「?・・・えっと、治樹は映画に行っていいんだよ?僕が勝手に決めた事だし。」

「つれない事言うなよ。俺が行かないと拗ねるだろあのじいさん。」

治樹があっさり予定を変更した事が僕には不思議だった。

どうして治樹は映画をキャンセルしてまで見舞いに来ると言うのか・・・

僕がその疑問を口に出すと、治樹は笑って答えた。

「ばーか、俺はあのじいさんが好きなんだよ。」

そんな事をさらっと言ってのける所が治樹らしい。治樹の家が今時珍しい2世帯家族であるという事も、こんな治樹の性格に何かしら影響を与えているのだろうか。


「あのぉ・・・」

申し訳無さそうに声を掛けてきたのは、ついさっき日直の仕事を終えたばかりの西原だった。

「ん?どうしたの?」

「私も、お見舞いに付いてっていいかな。白峰くんのおじいちゃんに会ってみたいし・・・」

「お互いの将来の為にもな。」

もうっ、と、西原は膨れっ面で、茶化す治樹を見やる。

西原は合唱部、治樹はサッカー部に所属しているが、丁度いい事に今日は両方の部活とも休みである。

「それじゃ、3人でじいさんの顔を拝みに行くとするか!」

楽しそうに声を弾ませる治樹。

窓から差し込む、一時期は容赦無く肌を刺していた西日が、最近随分と和らいだ気がした。



「おじいちゃん、美味しいですか?」

病院の一室。

西原の剥いた林檎を頬張ったおじいさんは、少し難しい顔をしていた。

「・・・ふむ」

西原の問いに、まるで上の空といった風に返事をする。

いつもそうだ、おじいさんは大抵の人間に対しこのような態度を取る。

「なんだよじいさん。折角の青森産林檎なんだから、もっと美味しそうに食えよ。大体そんなんだからズルズルと退院が延びちゃうんだよ。」

「ちょっ・・・!」

「お前は少し黙っとれ!まったく呼びもせんのにしつこく顔を見せよって・・・」

西原が上げかけた声に被さるように、おじいさんが言い返した。

治樹と話している時は、おじいさんはいつだって元気だ。

西原は諦めたように溜息を吐きながら、窓際にあった花瓶の水をせっせと交換する。

「おじいちゃん、他に食べたいものとかありますか?あ、それとも、肩でも揉みましょうか!」

「・・・ん・・・」

折角西原が色々と気を遣ってくれているのに、おじいさんがうざったそうな反応しかしないのを見ていると、僕は気が気でなかった。

やっぱり、連れて来るんじゃなかったか・・・

薄々こうなる気はしていたのだ。今更になって後悔の念が頭をもたげる。

そんな僕の心配をよそに、治樹が1つ大きな欠伸をした。

「ふあぁ、何か眠くなってきたな。この部屋はホントに何もねぇからなぁ・・・じいさん、いつまでもシケた病室に顔出すのも飽きたから、今度はじいさんの家に招いてくれよ。」

留まることを知らない治樹の憎まれ口に、やれやれと頭を振る僕。普段ならどうという事も無く看過されるその言葉に、しかし今日は敏感に反応した者がいた。


「治樹くんっ!!」


珍しく声を荒げたのは、西原だった。

部屋の空気が固まる。

「おじいちゃんだって家に帰りたいに決まってる!それをここで必死に耐えてるんだよ!?さっきから聞いてれば我が侭ばっかり!少しはおじいちゃんの気持ちを考えたらどう!?」


病室に、一時の静寂が訪れた。


「・・・わしは、今日は少しばかり疲れておるんでの。すまんがこの辺で帰ってくれるか。」

おじいさんが、ポツリとそう呟いた。

その声は穏やかながらも、僕たちに退出を促す意は強いように思われた。

ここでどう取り繕っても、一旦生じてしまったこの空気は手の施しようが無さそうだ。

「うん・・・ごめんね、いきなり来ちゃったから・・・さあ、みんな帰るよ。」

僕はそう言い残して、病室を後にした。

あとの2人もバツが悪そうに僕に付いて来る。

別れ際に、僕らの背中に向かっておじいさんが口を開いた。

「龍輔、治樹。今度また来なさい。」

僕は振り返って、その言葉に笑顔で応えた。



「私のせいかな・・・」

帰りの電車の中、西原が涙声でそう零した。

「いや、俺が無神経すぎたかも知れねぇ。どうも昔から細かい気配りとか苦手なんだよな。」

「慰めはいいよ。」

治樹の自戒にも、西原は納得しない。

部屋を立ち去る時のおじいさんの言葉は、何故か西原にだけは向けられていなかった。

「結局、私が一番、おじいちゃんの気持ちを無視してたんだね。自分の都合ばっかりで動いて・・・」

僕には、西原の呟きの意味が分からなかった。

どう見ても、西原が一番おじいさんの為に動こうとしていた事は明らかなように思えたからだ。


「おい、久しぶりだな。3人揃ってなーに辛気臭い面してるんだ?」

いきなり声を掛けられて見上げると、僕らの席の正面には、いつの間にか1人の男性がつり革にぶら下がって佇んでいた。

そこにあったのは、僕らのよく見知った人物の姿。


「お、太田先生!!」


3人が3人、意外な人との突然の遭遇に、思い思いの表情で驚きを示していた。

それは、あまりにも不意を突いて訪れた再会の瞬間だった。

いきなりの事に誰もその後の言葉を接ぐ事が出来ない。

「何だよ、恩師との再会に挨拶も無しか?」

「・・・ふざけるなよ。」

飄々とした先生の態度にいち早く反応したのは、治樹だった。

体側の握りこぶしが微かに震えている。

「よくも、よくも戻って来れたもんだな・・・歓迎されるとでも思ったか!?」

「は、治樹。やめろよ!」

「龍輔。こいつに肩入れするのは勝手だけどな・・・」

僕の制止を治樹はやすやすと払いのける。

「今は口出しするな。」

そこにいるのは、いつものちゃらけた治樹では無かった。



ウチの高校の2年生以上の生徒であれば、赤井宏あかいひろしの名を知らない人はいないだろう。

去年の11月、彼は自殺した。

当時、彼の担任を受け持っていたのが、他ならぬ太田真澄おおたますみ先生である。

彼が太田先生に私生活について相談に行った、その日の午後、彼は16年の生涯に自ら終止符を打った。



「あいつの遺書にはお前の名前があったよ、太田っ!」

そんな話はニュースとかでも聞いた事が無い。警察が非公開にしている事実を、治樹は知っているというのだろうか。

先生の眉が一瞬ぴくりと跳ねた。

「そいつは興味があるな。宏は俺の事を何と書いてたんだ?」

「お、おおたぁ!!!!」

完璧にキレた治樹が先生に殴りかかる。

先生は治樹の拳を躱しもせずに、まともに頬で受け止めた。

「お前が俺にぶつける感情はこんなもんか?」

先生は何事も無かったかのように治樹を見下ろすと、強烈な拳打を治樹の腹部に叩き込んだ。

「うっ・・・・!!がはっ!!」

「おっと」

その場に崩れ落ちようとする治樹を、片手で支える先生。

尋常で無い場の雰囲気に周りの視線が集まるが、皆、遠巻きに様子を窺うに留まっている。

「出直してくるんだな。」

先生が治樹を僕たちの方へ押し返した所で、丁度電車は駅に停車した。

先生はそのまま、下車する人たちの群れに紛れて消えて行った。


静寂に包まれていた車内が俄かに喧騒を取り戻す。

「だ、大丈夫?」

さっきまで小さくなっていた西原が、恐る恐る治樹に声を掛けた。緊張のせいか、その愛らしい唇は僅かに震えている。

「う・・・くそっ・・・!」

治樹は何も答えずに呻いた。

それぞれが電車を降りるまで、3人は一言も交わさなかった。

ただ治樹だけが、「くそっ!」と、時折うわ言のように繰り返していた。



自宅に続く一本道・・・物思いに耽ったまま、僕は自宅と向かいのコンビニの駐車場を見やっていた。

今日は色んな事があった。

正直言って気持ちの整理がついていない。

1年前であればこういう時、あの人の言葉が、迷路に陥った僕の思考に道を示してくれた。

きっとあの人は来るに違いない。

だって、さっきもあんなに生き生きとしてた。


丁度その時、コンビニの駐車場に入り込んだ1台の見覚えある車。

やっぱり来た・・・

「よっ、龍輔。最近調子はどうだ?」

「太田先生、明日まで待てないんですか。」

「いいじゃねぇか、お前も色々相談したい事があるんだろ?」

「・・・変わってませんね。先生・・・」

自分が興味をそそられる事に関し、先生は実に遠慮なしに行動を起こす。

「変わったさ。お前が気付かないだけだ。」

ドラマに出てくる昔の恋人同士みたいなやり取りに、僕は苦笑を禁じ得なかった。


「へぇ~、なるほどねぇ・・・」

おじいさんの病室での顛末を語る僕の言葉に、先生は納得した様に頷いた。

「僕には分からないんです。おじいさんがどうしてあんな態度を取るのか・・・」

「年寄りのたわ言だよ。気にするな。」

「・・・」

「言い方が悪かったかな?う~ん・・・要するに、年寄りはガキと同じレベルって事さ。記憶のピークは10代でそれ以降は落ちる一方。思考力や判断力もとうに衰えが来てる。」

「・・・でもっ、おじいさんの話を聞いて為になる事も沢山ありますよ?」

「それは、彼らが経験を語るからさ。

確かに彼らは経験豊富だ。だが、既に彼らの理性に綻びが生じてるのを感じた事は無いか?時々ヘンに頑なだったりとか。」

思い当たる節はある。しかし、僕にとって先生の講釈は非常に受け入れがたいものだった。

黙り込んだ僕を見て、先生は意地の悪い笑みを浮かべた。

「ははは、冗談冗談。健全な老人に蓄積された人生観には尊敬に値するものも多いさ。だがな、問題は世話する側の人間が果たしてそれを受け止められるかどうかだ。」

先生の言う事は尤もだが、今回の事とは無関係の様にも感じられる。

「老人が人生の悲哀を感じるのは、自分の年端もいかない輩の保護下に置かれている事を実感した時だろうなぁ。」

「あっ!」

そこまで聞いて、僕はハッとした。

そういえば、西原の行動の裏には、常に“弱者である老人を保護しなければ”という使命感が見え隠れしていた様に思う。

その雰囲気がおじいさんの気に障ったとしても不思議では無い。

「何か思い当たったか?」

「はい。」

「だったらその思い付きを否定しろ。」

「えっ?」

「それはお前の想像に過ぎないからな。所詮、他人の主観に入り込むなんて事は不可能なんだよ。」

「・・・そうでしたね。」

「今の会話にしてもそう。俺が考え、言葉にし、お前が受け取る・・・お前が受け取るのは俺の言葉や仕草であって、俺の考えそのものでは無い。」

これは、先生の口癖の様なものだ。

どんなに親しい人間とであっても主観を共有する事は叶わないという彼の持論を、僕は度々耳にした。

「だから・・・」

先生はすっと右手をかざし、そのまま僕の頭の上に置いた。

「俺はこうして、お前から“心”そのものを感じ取る。」

刹那、僕の心を満たす不思議な平安。

それは、太田先生が彼の持つ特殊な能力を振るった証。

(・・・あ・・・)

久しぶりの筈のこの感覚。しかし、僕の脳裏には、1人の少女の顔が浮かんでいた。

(そうか、神谷さんも・・・)

不意に、僕の頭が先生の手から解放された。

「なんだお前・・・今、恋でもしてるのか?」

はっと顔を上げると、そこには太田先生のニヤけ顔があった。

思わぬ言葉に自分の頬が熱くなるのを感じながら、僕はかつて先生から聞いた話を思い出していた。


『俺はな、他人に触れて神経を集中するだけで、そいつの心の形みたいなのが何となく分かるんだ。』

確か先生はそんな事を言っていた。

『心の形が分かるって言っても、思考が読める訳じゃない。人の心の奥にはなぁ、混沌とした感情の塊があるんだよ。それを人は、過去の経験と照らし合わせて、自分の感情に意味を与えてる。

俺が感じ取るのは、その混沌の部分だ。

“力”を使ってる時、おそらく俺の脳では相手と殆ど同じような脳内物質の分泌バランスが実現されてるんだろうな。所謂、シンクロってやつだ。

心に触れられてる側にしてみると、シンクロによってある種の安らぎが得られるらしい。心の負担が軽くなるからだと言ってしまえば簡単だが・・・まあ、原理なんか追求しても始まらんか。』

その説明は信じがたいものだったが、実際に体験してしまっては疑いようが無かった。


こうやって対峙していると、あの頃の記憶が徐々に鮮明さを増してくる。

自然と懐かしさがこみ上げた。

「先生、よかったら今日はウチに泊まりませんか?まだ色々と話したい事だってありますし・・・」

「その事で、えぇと、なんだ・・・1つ頼みがあるんだが・・・」

珍しい事に、僕の申し出に対して先生はやや歯切れ悪くそう言った。

先生の頼み事を聞くなんて初めてだが・・・それだけ信用されるようになった証拠だとしたら悪い気はしない。

「何ですか?僕に出来る事なら協力しますけど・・・」


「その、だな、お前の家にしばらく一緒に住ませてくれないか?」


「・・・は?」


それは余りにも唐突な提案だったので、僕はつい、その場に固まってしまった。

「いや、俺も最近塾講決まったところだし、金銭的に迷惑は掛けないからさ。」

こちらとしても、色んな手続きの時など、大人がいてくれると何かと助かる事が多い。

それに、1年半程続いている1人暮らしにもそろそろ飽きてきた頃だった。

だが、“自由奔放気ままに生きている”という印象の強い太田先生との同居暮らしは、一抹の不安を覚えさせるものでもあった。

「い、いつまでですか?」

「さぁ?とりあえず先の事は考えてない。」

ほら、この調子だ。

それでも、この申し入れを拒絶する明確な理由は僕には思い当たらない。

むしろ、太田先生との生活をちょっと楽しそうだと思い始めている自分がいた。

「構いませんよ。1人で住むには広過ぎる家ですし。」

そんな肯定が口を突いた。

「そうか、よかった。恩に着るよ。」

そう言いつつ、太田先生はコンビニに駐車してある自分の車の方に向かう。

(あっ、そうか。住み込むつもりで来たんなら着替えとか色々荷物があるはずだよな。)

運ぶのを手伝おうと、僕は先生の後に続いた。

「それにしても、あの家に誰かと2人で住むのって、母さんと暮らしていた時以来だから随分久しぶりだなぁ。

何かちょっと新鮮な感じかも。」

僕の独り言に、先生がさりげなく訂正を加えた。


「2人じゃない、3人だ。」


「・・・え・・・」

何のリアクションもできない僕をよそに、先生はおもむろに後部座席のドアを開けた。

「ほら、涼子。いい加減目を覚ませ。」

「ふあぁ、うぅん、お父さん・・・」

身悶えながら、1人の少女が身を起こす。

「紹介するよ、俺の娘の・・・」

「か、神谷さん?」

「あ、白峰先輩。」

僕らのやり取りを見て、太田先生は軽く眉を上げた。

「なんだ?2人とももう知り合ってたのか。それなら話は早い。

俺の娘の涼子だ。よろしく頼む。」

「よろしく頼むって・・・」

太田先生が逗留する事には確かに同意した。

だが、いつの間にか当たり前の様に神谷さんも一緒に住むという話になっている。

(下級生の女の子と一緒に!?この家で!?)

「ちょ、ちょっと待ってください。僕はてっきり太田先生だけだと・・・」

太田先生と神谷さんが親子だったとは、全く思いも寄らなかった。

(ん?“太田”先生に、“神谷”さんって・・・)

その時、僕の心にはたと疑問が生じた。

苗字が違う・・・親子なのに?

そんな事に今更気付くなんて、自分が如何に動揺しているのか思い知らされる。

訳を訊こうとした僕は、すんでの所で思い留まった。

どんな理由があるにせよ、あまり楽しい話にならないのは明らかだからだ。

「涼子が一緒だと何か不都合があるのか?う~ん、参ったなぁ。」

「いや、不都合って訳でも無いですけど・・・」

慌てふためく僕の顔をじっと見ていた神谷さんが、ややあって口を開いた。

「お願いします。私たち、住む所が無くなって困ってるんです。

家事とかも任せていただいて構いませんから、私たちを家に置いて下さい。」

いささか高圧的だという第一印象だった神谷さんからこんな風に頼まれると、僕はもう断る事が出来なかった。

もっともそれは、断られる事を前提としない強引な頼み事だったのだが。


かくして、僕と太田先生と神谷さんの奇妙な共同生活が始まるのだった。

ぼやけた満月の下、暖かい夜風は秋がまだ遠い事を示唆していた。

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