漣 第一波

やどっく

第一波

第1話 出会い

笑う声

怒鳴る声

明るく弾ける声

ひそひそ声

街は、様々な声で溢れている

路上に長々と連なったクルマの列は苦しそうに呻き

デパートのスピーカーは昼夜歌い続けている

街の喧騒に馴れた人々は

いつしか心の声を聴く術を失いかけていた



--------



さざなみの音が聞こえる・・・


ふと、僕の耳に、というより、脳裏に響く規則正しい旋律。

ただの錯覚だろう。

そう一言で片付けてしまう事のできるほど、それは微かな感覚だった。

第一、ここから海まで電車で1時間以上もかかるというのに、さざなみの音など聞こえる筈も無い。

(それより・・・)

僕は自分が今置かれている状況に思考を移した。

・・・3時半だったよなぁ。

約束の時間は、既に20分程過ぎてしまっていた。

コンビニで漫画雑誌を立ち読みしながら、僕は不安を募らせていった。

(あいつは昔からそうだったよな。時間通りに来た事が無い。あいつの家に電話しても留守電だったから、一応家は出てるようだけど・・・)

常読しているタイトルを読み終わった僕は、再びページを最初からめくり返す。

(まさか途中で何かあった訳じゃないだろうし・・・う~ん、何であいつは携帯持たないんだよぉ。)

さざなみの音が段々大きくなっていく事に、僕は気付かない振りをしていた。

自分の中に表れた変化の兆しを、無意識の内に拒絶しようとしていたのかもしれない。


しかし、さらに大きくなってくるさざなみの音は、最早無視する事を許してくれそうになかった。


よせては、かえし、またよせて・・・

それでいて、海はただ青く、おだやかで。


・・・やだな。

(病気だよ。耳鳴りもここまでくるとなぁ・・・)

僕の中に海は確かに存在していた。

聞かないように、聞かないようにと思えば思うほど、さざなみは僕の中ではっきりと音を立てた。


「よっ、待たせたな!悪いっ、“ダメモト増刊号”見てたんだよ。やっぱりいいよな~香藤慎二!たまんねぇっ!」

到着早々、悪びれもせずそう言い放った友人に、僕は思わず詰め寄った。

「増刊号見てたかどうかなんて知った事じゃないよ!昼には終わってる筈じゃないかっ!今何時だと思ってるの?もう4時半だよ、分かってる?

1時間も遅刻して、口を開けば香藤慎二だって?もっと他に言うべき事あるだろっ!」

珍しく語気を荒げる僕に、あいつは・・・鈴掛治樹すずかけはるきは少したじろいだようだ。

とは言っても、これくらいで怖気づくような奴じゃない。そうであれば僕としても随分楽なのだが・・・

「なんだよ・・・悪かったって。機嫌直せよ、奢ってやるからさぁ。

欲しいものがあったら言ってくれ!10円以内だったら何でもいいぞ!」

「10円で何買えって言うんだっ!10円サッカーですら30円いるよっ!」

「贅沢な奴だな。5円の形したチョコが2枚も買えるだろ?」

からかい口調のままの治樹に、僕は怒りを通り越してすっかり呆れてしまった。

(はぁぁ、突っかかるだけ時間の無駄だな。)

気付くと、さざなみの音は僕の中から完全に消え去っていた。

「もういいよ、早く行こう。きっとおじいさん待ちくたびれてる。」

ただでさえ大幅に遅れているのだから。ぐずぐずしてはいられない。

僕らは急いでコンビニを後にした。


僕のおじいさん・・・あの人は確か今年74歳になったはずだ。その歳にして全く衰えを感じさせない一種化け物のような人だが、僕らにはすごく優しい。

いや、優しいというより、他の人に対して見せるような態度を取らないのだ。


行き掛けの和菓子屋で手土産の栗羊羹も買い、準備は万端整った。

ようやく病院に着いた僕らはすぐさまエレベーターに乗り込み、6階のボタンを押した。

602号室、眼下に照葉樹林を見渡せる窓際のベッド・・・そこにおじいさんがいるはずだ。

途中1度も止まる事なくエレベーターは6階に着き、扉が開いた。

乗る人、降りる人、色々な顔をしている。

疲れた顔、泣きそうな顔・・・そんな中に、1人の少女がいた。

ノンスリーブのワンピースに麦藁帽子、そこから覗く肌は雪の様に白い。


目が、合った。


さらさらと流れる砂。

足の裏に触る砂はすばやく海へと吸われて消える。

容赦ない日差しが僕の目を焼く。

波打ち際へ進む人影。

砂浜に刻まれた、一筋の足跡・・・


「・・・おい、何突っ立ってるんだよ!早く降りろって!」

治樹の声はやたら遠くから聞こえた。


はっと気が付いて後ろを振り向くと、丁度エレベーターの扉が閉まったところだった。

どうやらしびれを切らした治樹に押し出されたらしい。

何だったんだ、今の感覚・・・

とても不思議で、でも、どこか懐かしい・・・

「早く行くぞ!じいさん待ってるだろ。」

治樹はじれったそうに、僕が付いて来るのを待っている。

(やれやれ、ほんとに病気かな。幻覚まで見えるなんて・・・)

「ごめん、今行くー。」

遅ればせながら小走りに治樹の背中を追いかけ、僕はおじいさんの病室へと向かった。


「お前ら、何時間待たせとるんだ!老人を殺す気か!?」

病室のドアを開けるなり、おじいさんの怒鳴り声が響いた。

「ごめんなさい・・・だけど、元気そうで良かった。入院したって聞いたときはビックリしたんだよ。」

「ただの高血圧で何言っとる。大事を取っただけじゃ。」

そう言ってにかっと笑うおじいさん。

「そうそう、このじいさんが簡単にくたばるかって。」

すかさず治樹が憎まれ口を叩く。

(相変わらず口が悪いなぁ、治樹は。)

それでも、治樹なりにおじいさんを心配しているという事は確信が持てた。

「当たり前じゃ!ワシは二百まで生きると決めとるんじゃからな!うわっはっは!」

おじいさんの豪快な笑い声に、僕もつられて笑った。

「すぐ退院できそうだね。・・・そうだ!退院したらお祝いにどこか出かけようか。どこがいいかな・・・」

「俺は、海蛍がいい。」

僕の提案に治樹が勝手に割り込んでくる。まったくこいつは・・・

「治樹には訊いてない!」

くだらない掛け合いをする僕らを、おじいさんは愉快そうに眺めていた。

「そうじゃな、あの町にもう1度・・・もう1度だけ行かねばならんのう・・・」

呟いたきり、おじいさんは黙ってしまった。



--------



「・・・というわけで、宿題は『こころ』についての作文・・・というか意見文みたいなもんだ。タイトルは『なぜ先生は自殺しなければならなかったか』だ。いいかー。」

数日後の学校。

現代文の授業の終わりに突如告げられた課題に、クラス中からブーイングの声が飛んだ。

しかし座間ざま先生は、そんな僕らを揶揄するような笑みを浮かべて見渡すと、さっさと行ってしまった。

教室には、ぶつぶつと文句を言い続けるクラスメイト達だけが残された。

僕は、ふう、と1つ息を吐く。

どうにもならないものには抵抗しない主義だ。治樹はそんな僕を常日頃から“怠慢野郎”と呼んでいるが、それもまたありではないかと思う。

白峰しらみねくんっ。」

「・・・何だ、西原にしはらじゃないか。びっくりしたなぁ、いきなり声掛けないでよ。」

「さっきから何度も声掛けてるんだけど、白峰くん、気付いてくれなかった。」

クラスメイトの西原ゆうみが、少し膨れて答える。

ああ、いけない。

また僕は心の内にいたんだ。

何だかあの日、おじいさんの所に行って以来、どうもぼんやりし続けている。

「白峰・・・くん?」

西原が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「えと・・・ごめん。何だか疲れてるんだよね。」

「そうみたいね、大丈夫?1人暮らしって大変そうだもんね。私に出来る事があったら何でも言って。力になるから。」

安心させる様に西原に笑いかける僕。しかし、急に顔を上げた弾みでずきんとこめかみが疼いた。

そんな僕の様子に気付く素振りも無く、西原は座間先生が僕を呼んでいた事を告げると、柔らかな風とともにゆっくりと歩み去っていった。



「まあ、そこに座れ。」

伝言のままに生徒指導室を訪ねると、そこには既に座間先生が待ち構えていた。

「私の言いたい事は分かるな?」

静かながらも高圧的な響きが耳を突く。

「いいえ。」

僕の返答にいささか鼻白んだ様子で咳払いを1つした座間先生は、顔の前に手を組み、探る様な目付きでこちらをじっと見つめた。

「最近何かあったのか?どうも国語の成績が芳しくないようだが、そんな調子では君の目指しているような大学には行けんぞ。」

「国語は嫌いです。」

「・・・私が太田先生から聞いていたところによれば、君は非常に優秀な、国語に対して積極的な子だという事だったが・・・」

「太田先生の国語だったからです。」

「私の国語の、どこが気に入らんのかね?」

「別に・・・大方の先生は同じようなものです。」

「好き嫌いは別にせよ、君には目標というものがあるんじゃないのか?」

「僕が大学でやりたいのは数学です。」

「それにしてもだ。今のままでは国語が足を引っ張って入試に影響が出かねん。ここは1つ我慢してだな・・・」

入試の時だけ上手くやる事くらいできる。

大体、漢字の書き取りや古文解釈はそれなりに解けているし、今だって呼び出されるほど酷い点数でも無い筈だ。

残りは現国の文章題。

作者の意図だの登場人物の気持ちだの、文中の接続詞やら何やらをパズルのように使って答えを導くくだらない問題の類だけである。

くだらないからやってないのであって、できない訳ではない。

ただ、それが座間先生には気に入らないのだろう。殊更題意を無視するような僕の答案が癪に障ったといったところか。

「なぜ『先生』は自殺したんですか?」

「は?」

「授業でやってる『こころ』の話です。」

「君はどう思う?」

「分かりません。」

「そう一言で片付けてしまうのはよくないぞ。」

「先生は、自殺を図った事はありますか?」

「・・・いや。」

「だったら先生だって分かりません。」

「だが、想像は出来る。」

「先生は、この世に自分1人しかいないんじゃないかと思った事ありますか?」

「・・・皆がいるからこそ、私は生きていける。」

「先生・・・先生の今日のネクタイは何色ですか?」

「・・・ふざけているのか?」

「そう思うんでしたらもういいです。」

「・・・お前も見ている通り、ブラウンだが?」

「僕も同じブラウンを見ていると、自信を持って言えますか?」

「白峰君、今日は少しおかしいぞ。一体何が言いたいんだ?」

「別に・・・」

座間先生はいかにもうんざりだといった風に頭を左右に振った。

「今日はもういい。帰りなさい。世の中では耐え忍ぶ事も大切だと学んだ方がいい。最近の若者は享楽的過ぎる。」



生徒指導室を後にした僕は、屋上へと向かった。

(今日は少しおかしいぞ、か・・・)

確かにその通りかもしれない。あんな無意味な問答をしたところで何の得にもなりはしないと分かり切っているのに、言い返すなんて馬鹿のする事だ。


屋上につながる扉を開け放つと、透き通った青空が僕の目に飛び込んできた。

ウチの高校は県内でも有数の進学校だ。だからという事もあるのか、数年に1人は自殺者が出る。

そんな自殺者に都合のいい事に・・・なんて妙な言い方かも知れないが、屋上にはフェンスが設置されていない。


僕は、外周を囲う胸の高さ程の塀によじ登り、そのヘリに立った。


目下に広がる景色は、なかなか綺麗だ。この校舎が比較的高い7階建てだからという事もある。それに加え、近年の緑化政策によって、町を覆う緑地の面積は確実に広がってきていた。

夏の日差しに照り輝くグラウンドの芝生は、まるでフカフカの毛布のようだ。

(この大地は、落ちてくる人たちをあたたかく受け止めてくれたのかな・・・)

足の幅2つ分程のヘリに沿ってふらふらと歩いてみた。

吹き付ける風に、時折バランスを崩しそうになる。


頭の中に、さざなみの音がゆったりと響いていた。


「白峰くん!?」

振り返ると、そこには西原がいた。

「白峰くんっ!お願いだから、こっちに戻ってきて!」

今にも泣き出しそうな顔で、そんな事を言う。

僕は笑いながら、西原の側へ歩み寄った。

「自殺でもするように見えた?」

「もうっ!悪い冗談はやめてよね!」

怒ったように声を荒げる西原。

「ところで西原は、どうしてここに来たの?」

他意のない僕の気紛れな質問に答える彼女の声からは、しかし微かな淀みのようなものが感じられた。

「・・・私は、気分転換したいときに、よくここで風にあたるの。」

そんな違和感とも言えない僅かな引っ掛かりについて、僕は何か訊いてみればよかっただろうか。

でも、僕はそこに立ち入ることはしなかった。

僕に必要以上に興味を持たれるというのは、どうやら女子にとっては気味が悪いものらしいから。

「ふ~ん・・・じゃ、僕はもう行くね。」

「白峰くん。」

「なに?」

「悩みとかあったら、その・・・私に相談してね。」

「・・・分かった。」


その日、さざなみの音はなかなか頭から離れなかった。



---------



僕は将来、どんな事をしてるのだろう

希望に胸を膨らませた頃があった

可能性・・・それはとても尊い言葉

可能性・・・それはとても残酷な言葉

時が経つにつれ、可能性の鎧は1枚ずつ剥がされていく


僕は将来、どんな事をしてるのだろう



--------



それは、いつもの朝の事だった。

トーストにマーマレードを塗るだけの簡単な朝食を摂り、日課となっている1杯のトマトジュースを飲み干した僕は、その日も時間通りに家を出た。


いつもの登校路。柔らかな木漏れ日が生体時計をリセットする。

そして、いつもの曲がり角・・・


どんっ!


いきなり目の前に現れた人影を、僕は躱す間もなく突き飛ばしてしまった。

「ご、ごめん!大丈夫?」

見ると、小柄な女の子が足下にへたり込んでいる。

白いワンピースに身を包み、麦藁帽子を纏ったその娘は、声もなくうずくまったまま微動だにしない。

「あのっ!け、怪我とかっ・・・」

尋常でない様子に焦りつつ、恐る恐る少女の眼前に手を差し伸べる僕。

そんな僕の狼狽をよそに、気怠げに体を起こした少女は、優雅な仕草でその手を取った。

滑らかな、ひんやりとした絹のような掌が、僕の手にしっとりと吸い付く。

不意に、彼女の指先から鮮烈な水のイメージが流れ込んできた。

(う、うわっ!!)

体中を駆け巡る透き通った清流・・・その圧倒的なリアリティに否応無く飲み込まれていく。

得体の知れない浮遊感に包まれ、自分の足がちゃんと地に付いているのかさえ覚束ない。

眩暈がする・・・息苦しさに目を回しながら、僕はようやく自覚した。

自分は今、溺れているのだ。

陸の上で。普通に道路の上に立ったままの状態で。

視界が暗転し、抗う事もできないまま、僕の意識は徐々に闇へと引きずり込まれ・・・


「・・・かっ・・・はぁっ!!!!」

すんでの所で持ちこたえた僕は、慌てて体勢を立て直して、何とか転倒を免れた。

次の瞬間、得も言われぬ違和感が足下から湧き上がってきた。

(・・・冷たい・・・?)

僕の靴底を仄かに湿らせているのは、紛れも無く本物の水である。

(なっ!?・・・こ、これはっ??)

こんな事があり得るのだろうか・・・

驚きのあまり声も出ない。

さっきまで眼前にいた少女ばかりか、僕を取り巻いていた日常の風景そのものが、跡形も無く丸ごと消え去ってしまっていた。

周囲に広がるのは、ただただ穏やかな浜辺の景色ばかり。

何で僕は海なんかにいるんだろう・・・

いくら考えても答えなど出る訳が無く、キラキラと日光を照り返す水面を眺めている内に、やがて考える事自体が徒労だと思えるようになってきた。


僕は、靴を脱ぎ捨てて波打ち際に立ち尽くした。

砂の感触が心地いい。

絶えず打ち寄せるさざなみは、僕の足のくるぶし辺りまでを幾度も浸し、そしてまた海へと帰っていく・・・


「白峰くーん!」

突然の呼びかけに振り向くと、何故かそこには西原がいた。

彼女は息を切らせながらこっちへと駆けて来る。

これは、夢なのだろうか。

だとすれば、目の前の西原は、僕の願望が形を成したものなのか。

「はあっ、はあっ、やっぱり白峰くんだった。」

しかし彼女の声は、これ以上無い現実味をもって僕の鼓膜を震わせるのだった。


「なんであんなとこにいたの?」

電車の中、僕は西原の問いに答える事が出来ず、ぽりぽりと頭を掻くしかなかった。

徒歩通学が可能な僕の家からは、浜辺まで相当に距離がある。

あの海岸は西原の家の傍にあり、彼女は電車で1時間以上かけて遠路はるばる隣町から登校しているのだ。

聞くところによれば、今朝もいつも通り沿岸の小道を歩いて最寄り駅に向いながら、何気なく海の方を見やった時、1人砂浜に佇む僕を見つけたという事らしい。


返す言葉のない僕が口を閉ざしたままだったので、しばし沈黙の時が2人を包んだ。

ありのままを話したとしても、頭がおかしいと思われるのがオチである。

説明を諦めた僕は、代わりに西原に質問を投げかけた。

「西原って、将来なりたいものとかある?」

「・・・?急にどうしたの?」

少し当惑気味にそう返す西原。

「いや、ほら、来年はうちらも受験生だしさ。聞いてみようかなって・・・」

「そうね、私、看護婦さんになろうって考えてるの。」

「どうして?」

「う~ん・・・何て言えばいいかな。白峰くんってボランティアとかした事ある?」

「ない、けど・・・」

「私ね、老人ホームにボランティアに行った事があるの。

その時、話し相手のおじいちゃんがとっても喜んでくれて・・・自分の孫みたいだって。

なんか私の方がすごく励まされちゃったんだ。

それでね、将来は落ち込んでる人たちをたくさん励ませられる仕事ができたらなって思ったの。

医学的な知識も身に付けてれば緊急の時の対処もできるし、そう思うと、看護婦がいいかなぁって・・・」

そう語る西原の表情は、生き生きとしていた。

「あはっ、なんか恥かしいね。こういう事話すの。」

照れた様に肩を竦めながらはにかむ西原。その瞳の放つ光が、すごく眩しい。

しかし、一方で、僕にはそれがどこか胡散臭くも感じられるのだった。

僕には、他人のために尽くす人生など想像できない。他人への思いやりは、所詮自己満足の手段じゃないのか、相手を利用して充実感に浸っているだけなんじゃないかという疑問が、頭を巡る。

もしそうだとしたら、享楽的な生き方となんら変わりが無いのではないか・・・

それは、単なる嫉妬なのかも知れないとも思う。

自分にない輝きを目に灯している西原・・・現に、僕は西原を直視する事ができなかった。

僕は西原のように他人に語れる夢など持っていない。

日々を無為に消費しながら、ゆるゆると流れる時間に少しずつ命を削られるのを座して待っているだけである。

寿命をまっとうできるのか、それとも明日死ぬのか、僕自身を含め誰にも分かりはしない。

1つだけ確かなのは、誰もが時間という無慈悲なコンベアに乗せられ、いずれ迎える最期へと着実に進んでいるという事だ。

僕には、将来自分がどんな仕事をしているのか想像もつかなかった。

自立した大人として社会に貢献し、ましてや家庭を持つといった未来を思い浮かべる事が出来なかった。

そんな普通の幸せを掴むには、自分には色々と足りないものが多すぎるように思う。


「僕は将来、何をしてるのかな・・・」

「お医者さんになったら?」

やや諦めの入った僕の独り言に、西原が事も無げにそう返した。

「えっ?」

驚いて顔を上げた僕を迎えていたのは、優しい笑顔だった。

「そしたら、私は白峰くんといっしょに働く事になるかもね。」

西原にとって、それは何気ない一言だったかもしれない。

だが、その言葉は、電車を降りるまでほんのりと僕の胸を温め続けた。



駅前の通りは、通勤や通学の人波に覆われていた。

いつもとはちょっと違った、学校への道のり。

僕の隣には西原がいる。

特に何か話すわけでもなく、僕らはただ何となく一緒に歩いていた。


「おい!何でお前がそっちから登校して来るんだ!?」

聞き慣れたその声に振り向くと、そこには同じく登校中の治樹の姿があった。

「何だよ龍輔。お前は奥手だから色々心配してたのに、朝帰りかよ。」

治樹は半ば呆れ顔でそんな事を言う。

「な、何言ってるんだよ!そんなんじゃないって!」

「もうっ!ヘンな事言わないで!」

僕が困り顔で傍らを見やると、西原もぷくっと頬を膨らませて視線を返す。

僕らはそのまま同時に吹き出してしまった。

「ああっ、もう、勝手にやってろ!じゃあな、独り者は先に行ってるぜ。」

治樹は本当にさっさと行ってしまった。

「・・・行っちゃったね。」

「何だったんだろうね。」

それは、日常の範囲を脱し得ない平凡な1コマ。

しかし、僕にはこの上なく新鮮な朝だった。

「もうすぐ体育祭だね。」

僕の話の振り方は、いささかぎこちなかったかもしれない。

「そうだね・・・」

そのせいか、会話はスムーズに流れる事なく途切れてしまう。

「そういえば、男子の騎馬戦は力入れてるって聞いたけど。」

「うん、僕は馬なんだけどね。激しくぶつかり合うから体中痛くって・・・」

「へぇ~、大変そうだけど頑張ってね!応援してるから。」

「ははっ・・・」

苦笑いの僕。

運動はどちらかというと不得手な方である。仮に出なくていいと言われれば喜んで見学に回るだろう。

なのに、西原に応援されると、どういうわけかあるはずのないやる気が沸いてくる。

西原の一言一言に振り回される自分の心が少し情けない。

彼女がいなければ、僕は今更自分の風貌で悩んだりしないし、自分の能力の無さを嘆いたりもしない。そんな事はとうに諦めがついている筈だったのに、西原の前に立つとそれがもどかしく感じられた。

彼女の存在が無ければ、僕はこんなに苦しまずに済むのかもしれない。

一方で、彼女のいない教室、彼女のいない学校を想像してみると、そこは限りなく無味乾燥な世界であるように僕には思えた。

語り掛けてくるその声、屈託の無いその笑顔が、生きるエネルギーを僕に与えてくれる。

彼女がこの世に存在しているという事実だけで、僕は不思議と勇気付けられるのだった。


これから始まるのは、おそらく何の変哲も無い平凡な1日。そんな日々の繰り返しを、僕らはせっせと生きていくしかない。

でも、それでいいのかもしれない。

こういった平穏な毎日こそ、僕の望んでいたものなのだから。



校門をくぐった時、僕の目に1人の少女の姿が飛び込んできた。

(・・・あの娘だ!)

間違いない。

おじいさんのお見舞いの時、エレベーターですれ違った少女。

そして今朝、僕を海へといざなった、あの少女。

何故かウチの高校の制服を纏ったその娘は、僕に気付くと、感情の読めない不思議な笑みを浮かべた。


僕の中のさざなみが、再び音を立て始めた。


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