大きな猫

金輪斎 鉄蔵

大きな猫

「大きな猫」


座った高さが七十センチくらいの猫科の生き物が、あるときうちにやってきた。うちには二匹の猫がいるので、三匹目になってしまった。大きい猫だからといって、格別大きな顔をするわけでもないので、そのまま飼い猫になった。ただ、餌はたくさん食べるし、場所も取る。乗られると普通の猫の比ではないほど重たいのが難儀である。


見た目はヒョウとかピューマとかチータとか、そういう名前のものに似ている。つまり猫、山猫の類よりはずっと大きいが、虎、ライオンの類よりははるかに小さい。多分ピューマだろうとある日には推測し、またあるときはヒョウに違いないと確信した。だが、本当のことは分からなかった。


最初の一週間は、肉食動物だからカリカリでは足りるまいと心配したのだが杞憂だった。普通の猫の三倍程度の量を食べて、あとは寝たり、仰向けになったりしていた。二匹の猫とほとんど同じだった。こうした大きさの動物が走り回るほどの広さがうちにはなかったから、それは少し気の毒で、ときおり、一緒に連れ立って近所を散歩した。そんなときには、ほかの二匹の猫も必ずといっていいほど同行した。


この大きな猫が来る前は、二匹の猫はうちから二百メートルほどのあたりに絶対の境界線を引いていて、それ以上は一緒に来てくれなかった。境界線の手前に立って、にゃーにゃーと鳴くばかりだった。おそらく「これ以上さきは危険だから、やめて帰ってきな」と言っていたのだろう。


それが、大きな猫が一緒となると、スイスイと先頭を立って、どこまででも同行するようになった。といっても、せいぜい30分ほどの散歩なのだが、大きな一匹と小柄な二匹がトコトコと歩くさまを見るのは、心温まるものがあった。元気が良いのは二匹のほうで、大きな猫は、どちらかというと慎重に、かといっておどおどするでもなく、やわらかく地面をつかみながら流れるようにゆっくりと歩いた。


普段、歩いて前を通りがかると、必ず吠え立てる犬があったのだが、大きな猫を連れていくと、犬小屋のわきで身をすくめるようにしてこちらを見ているばかりで、クンとも声を立てず、まるで息を潜めているようになった。姿を見る前から、そのような猫が来るのがわかったのだろうか。不思議なことだ。その日以降、犬はいつ行っても静かだった。


猫との散歩は大変楽しかったので、それはやがて夕暮れ時の日課となった。秋には鰯雲、冬には青天井、春には霞む昼の月を眺め、沈む前の小麦色の太陽の光に映えて、二匹は転がるように歩き、ときに飛ぶように跳ねるように走った。大きな猫は決して走ることが無かった。ゆっくりと肩の筋肉をうねらせながら、非常に静かに歩いた。目を閉じていれば、近くにそのような大きさの生き物がいると気づくものはいないだろうほど、その動きは滑らかだった。


ときどき私たちは、信号を渡ることもした。大きな猫が来る前には考えられなかったことだった。歩くのを止めると、大きな猫は自然とそこに座って待つ。ほかの二匹もこちらを見て、いつまた進むのか、どちらに進むのかと訊ねるようにする。とても安全で、静かな交通ルールだ。轟音を立てて通り過ぎるバイクも、地面を揺らしながら風を巻き上げていく大型トラックも、大きな猫の前では子どもの三輪車のように安全に思えた。


信号待ちの間も、大きな猫が身動きすることはほとんど無い。じっと、進む方向に透明な視線を向けている。だがある日、よく見ると、右前足を数ミリほど、すっと地面から浮かせる動作をするのに気づいた。観察するに、信号が赤なまま車の流れが途切れたとき、すこし渡れそうなときに大きな猫は右足を浮かせる。大きな猫の足が浮くと、二匹もせかすようにこちらに視線を向ける。


それに気づいてからは、信号待ちが少し不安になった。やがて、こちらの不安を察してか、大きな猫は右足を浮かせるよりも前に、こちらを見るようになった。その視線は、「渡れると思うのだが」と言っているように見えた。とはいえ、信号を無視するのは困るので、「赤信号だから無理だよ」と、そのたびに声に出して説明をした。


信号待ちにも慣れ、大きな猫も渡れるのではと意見することもあまりしなくなって、しばらく経った。それでも、渡れそうなときに猫の右足をみると、むずむずするかのように微動していることがあった。それを見てよくよく考えると、猫が信号を待つ理由は、大きい猫にも、小さい猫にも、どこにもなかった。人間は法律を守る生き物だが、猫に限らず、イルカもクジラも、タヌキもキツネも、法律など守っていないではないか。


そう思うと、大きな猫の右足の微かなふるえを見るたびに罪悪感を覚えるようになった。それに、渡れるという確信に対して唱える異議などなかった。走る姿こそ未だ見てはいないものの、大きな猫が本気になれば、目の前の四車線を渡りきるのに二秒と掛からないだろう。そうやって大きな猫が疾駆する姿を見るのは、きっと素晴らしいに違いない。


だから、ある時、いつものように信号待ちをしている時、「渡れると思うんだろう」と声を掛けてみた。猫は少し間を置いてから、「そうだ」と視線を寄越した。「そう思うときは、構わないから、渡ってみてもいいよ」と答えた。猫は満足そうに肩から頭に掛けてを前に揺らして答えた。多分「わかった」と答えたのだろう。


そんなことがあってから数週間後、やはり信号を待っていた。信号の向こうに見える郊外の店の看板を眺めていると、「いける」と声が聞こえた。驚いて右下に視線を移すと、猫がこちらを一瞬間見て、それから爆発的なスタートを切った。大きな猫は凶暴な力を解放して空間を、黒いアスファルトを踏みしだきながら猛烈に加速して小さくなっていき、一呼吸後には、そのミニチュア版のような二匹が、平和な、それでいて猛烈なスピードで後を追った。このときの大きな猫はチータであるように見えた。


それ以降、大きな猫は喋るようになった。良い機会だから「君はピューマだね」とか、「君はどうやらチータのように見えるんだが」とか、「わかった、やはりヒョウだ」とか、水を向けてみるのだが、猫は「そういうことは、分かることではないし、話すことでもない」としか答えてくれない。ちなみに二匹の猫も同様に喋るようになった。


またある日のこと、散歩をしていて河原の土手の上を歩いていたとき、大きな猫が「あの人たちを食べてもいいだろうか」と聞いてきた。猫の視線の先には、高校生くらいの女の子が二人、河川敷を歩いていた。この質問には困った。当然だが「それはダメだ」と答えた。答えは簡単だが、理由は複雑だった。


その日以降も、「あの人を食べてもいいか」という質問をされることが稀にあった。どの場合にもダメだと答えた。特に食指の動くタイプがあるわけではないようで、ある時は四十五歳くらいのサラリーマンだし、ある時は小学生の群れで、ある時は人の良さそうなお婆さんだった。


人間である以上、人間を食べてもいいかと訊かれても困る。仲間を売るのとも少し違うと思うのだが、社会人ならだれでも、大きな猫に「あの人を食べてもいいか」と訊かれたら「ダメだ」と答えるはずだ。だが、猫にしてみればダメな理由は、ダメだと言われたから、以外には無い。


別の日に「なぜ、私を食べたいとは思わないのか」と訊いたこともあった。その答えは予想通り「とくに食べたいと思わないから」だった。「なぜ、誰か人間を食べたいときに、必ず食べても良いかどうか訊くのか」と言うと。大きな猫はくすっと笑うように大きな目を動かして「勝手にいきなり食べたら困るだろう」と言った。


やがて、信号と同じように考えて、大きな猫に「食べたいときに食べたいものを食べていいよ、私以外ならば。いや、私を食べたいときには、言って欲しいけれど、それもお前が言いたいときに言えばいい」と言った。猫は「わかった」と言った。

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