付喪神はみる

金輪斎 鉄蔵

1.モップ

 暗い廊下には、古新聞古雑誌、鎖と紐、積まれたタイヤとペンキまみれのマネキン、裸の男女や犬、犬のエサ、食べ残しの皿にはマヨネーズとレタス、蟹の殻、海老の尻尾、魚の骨、死んだ小蝿、電線の切れ端、濡れた雑巾と割れた卵、拭われなかった血と錆びて動かない自転車、割れたガラスとそれを踏む足、舞い上がりもしない埃の多層構造がある。濡れたモップを押して進めば、それはモーゼのごとく道を記すが、それもすぐに乾いて、白く輝くナメクジのった跡に変わる。モノリスの表面をでまわす指先の脂を拭き取るのに、だれがどんな労力を払うのか、フッ素加工の撥水性はっすいせいがいつまで持続するのかわからないが、できる限り高い温度で焼き払うこと、絶え間無い水流でそそぎつづけること、恒星の強い光、紫外線やより波長の短い電磁波を照射しつづけることだろう。モップにどれほどの微生物が含まれるのか、一億か一兆かもわからないし、床が清潔になってゆくのか不潔になってゆくのかもわからない。完全な平面と完全な混沌のどちらがより清潔か。マクスウェルの悪魔になってこの廊下とモップのエントロピーを取り込むくらいなら、こっちの内部の混沌こんとんを廊下へと解き放ってやればいい。無限に軽い扉を開け閉めするよりも、その無限に脆弱ぜいじゃくな扉を粉々にしてやればいい。

 左右から人の声がする。おりの中にあつらえられた貧弱な家具一式に座る者たちの噂話が、幾十いくじゅうもの檻から一斉に聞こえてくる。檻の鉄格子をやすりで擦る音、食器のカチャカチャと威厳を保つための咳払いが過剰なリズムを伝えてくる。それは合唱の逆、和音の反対で、マイナスのオーケストラを構成する。モップの柄を指揮棒とすれば、モップそのものは指揮者の振り乱された髪の毛に該当し、グルグル回りながらそれをふるえば、「雨に歌えば」程度の格好はついてくる。笑い声が聞こえ出し、壁一面に積まれた壊れた本棚が崩れ落ちる。檻のあちこちから溜息ためいきが聞こえ、人々が出てきて盛んに落ちた本を拾い始める。拾った本を掲げて朗読する老人とそれを聞く少年少女たち。王様も姫も全て衣装を脱いで楽屋に帰ってしまったというのに子供にはそれがまだわからない。道徳的な話だと思った物語はどんどん面白くふしだらになってゆき、彼は困惑しながらも朗読をやめることができない。子供たちは身を乗り出し、目を輝かせる。老人の一人娘は耳に手を当てて顔をしかめている。

 すでに四、五十冊の本を拾ったというのにまだ拾い続け、一冊拾うごとに一冊落としつつ進む女と、まったく同じ行為を逆から続けてきた男が鉢合わせする。一冊の本に二つの手が伸び、二人はお互いを見る。二人とも本から手を離そうとしない。一旦生まれた欲望を静めることができない。しかたなくモップで彼らを制して、本に火をつける。燃えるページを読もうと二人は努力するが、やがて炎の速度に負けて同時に手を離す。道しるべのように続く本の列が理想的な導火線となるだろう。これでモップの役目は終わりだ。

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