第五章 再開
翌日、さとしが俯き気味で駅からマンションへの夜道を歩いている。
「正直、毎日同じ繰り返し、つまんないわ……」
ボソッと呟くさとし。マンションの前に着きオートロックの鍵を開ける。エントランスは明りが煌々と点いているが誰もいない。立ち止まるさとし。
「はぁ……」
溜息をつくと覇気なく背中を丸めた状態で103号室の中へと入っていく。
103号室。さとしはベッドに座り「問題解決プロフェッショナル」と書かれた本の表紙を眺めている。
「問題解決……何が問題かもわかんないわ」
そう呟きながら本を開き読み始めるさとし。
しばらく経ち、さとしは本を三分の一ほど読み進めている。するとマンションのドアの外から声が聞こえる。
「……ハハハ」
ハイコの高い笑い声が聞こえる。さとしは玄関の方を見つめる。
「……」
無言で見つめながら一瞬立ち上がろうとするが再びベッドに座り直すさとし。と次の瞬間、
「ドンドンドン!」
ドアを鈍器のようなもので叩く音がする。さとしは音にビックリしつつ玄関の方を見つめる。
「さーとーしーくん、生きてますか?ハハハ」
ハイコの無邪気な声が聞こえる。
「生きてなかったらオレ、悲しむから!悲しむからな、さとし!」
バーミヤンの声が聞こえてくる。
「うるせーな」
さとしは小さい声で呟く。言葉とは裏腹にさとしの口角は上がっている。
「さとし、生きてるの?死んでるの?え?死んでるの?そんな、死んでるの?ハハハ」
ハイコが真面目に語りかけた後、大きな声で笑う。
「死んでるわけないよ!でも、もしそうならそう言ってくれ!さとし!」
バーミヤンも真剣な声で言う。ゆっくりと玄関へ向かうさとし。
「ハイ、死んでます!ってもしそうなら言えないわ!」
そうツッコみながらさとしは玄関のドアを開ける。玄関を開けるとハイコとバーミヤンが満面の笑顔で立っている。
「なんですか、こんな夜中に」
さとしは低いトーンで言う。
「最近話してなかったから心細くなっちゃってさ!」
バーミヤンが言う。
「そうそう、私も悲しくて泣いてるよ、ハハハ」
ハイコは満面の笑顔で笑う。
「明らかに泣いてないでしょ!とにかく夜遅いんで用件があるなら早く言ってください」
さとしは少しイラッとした表情で言う。
「用件は、えーっと……」
バーミヤンが困った表情でハイコを見つめる。
「あのね、最近知ったんだけどね、ブロッコリーってね、木みたいなのにね、木じゃないんだって!ハハハ」
「え?そうなの木だと思ってた!」
バーミヤンが驚いた表情で言う。
「木なわけないでしょ!」
さとしが言う。
「でもブロッコリーの木が木じゃないって知ってから、さとしが気が気じゃなくなって!ハハハ」
「うまいこと言わなくていいですから!」
さとしがツッコむ。
「でもさ、世界不思議発見の時の日立のCMの木ってブロッコリーだと思ってた。絶対ブロッコリーだという自信があったのに。スーパーさとしくん出すくらいの!」
バーミヤンは先ほどの驚いた表情のまま言う。
「えーっと、ツッコみにくいな!ブロッコリーは木じゃないし、スーパーひとしくんですから!!」
さとしは大きな声でツッコむ。
「少しは元気出た?」
そんなさとしを見て尋ねるバーミヤン。
「さとしのこの前言ってたイライラは、きっとスーパーひとしくんを今まで出せなかったことじゃないかな、ハハハ」
ハイコが言う。
「オレもさ、正直スーパーひとしくん出せないやつなんだ」
バーミヤンが低いトーンで呟く。とその瞬間、
「あー!出勤の時間忘れてた!ハハハ」
突然ハイコが大声を出す。いきなりの大声に驚いた表情のさとしとバーミヤン。
「びっくりしたー。オレたちのことは気にしないで仕事行って!」
バーミヤンがそう言うと既にハイコはエントランスのドアから出ている。
「ってもう出てるし!そんなハイコに不思議発見!」
そう言いつつハイコに大きく手を振るバーミヤン。
「なんなんすかね。もう夜遅いんでまたにしてもらっていいですか?」
さとしは呟く。バーミヤンは振り返りさとしを見る。
「正直ハイコさんみたいに脳天気じゃないし、明日も仕事なんですよ。ホントあんなテンションでいつもいられるなんて幸せでいいっすね」
さとしは吐き捨てるように言う。
「そうかな?ハイコのテンションでいつもいたら疲れると思うな。頑張ってるよ、あいつは」
バーミヤンが言う。
「そうですか?いつも何も考えず楽しんでるようにしか見えませんけど」
さとしは言う。
「ハイコはああやって自分に嘘ついて生きてきたんだよ、本当の自分を守るために自分に嘘をついて」
バーミヤンは言う。
「どういうことですか?」
さとしは首を傾げる。
「人間ってさ、笑うと楽しいと錯覚するんだって」
バーミヤンが言う。
「何か聞いたことあるかも。じゃあハイコさんどんだけ楽しみたいんですか!」
さとしが言う。
「楽しいと思わなきゃ生きてこれなかったんだと思うよ、ハイコは」
バーミヤンが神妙な面持ちで言う。
「だからあいつが笑うのは、悲しいことがあったからなんだ」
バーミヤンはそう言うと微笑む。
「……」
さとしは黙り込む。
「っとこれ以上話したらハイコに鈍器で殴られそうだから後は本人に聞いて」
バーミヤンは黙ったままのさとしを見て再びほほ笑む。
「……スーパーひとしくん出せないって、何ですか?」
さとしは徐に口を開く。
「え?何だっけ?」
バーミヤンは呆気らかんとした表情で聞き返す。
「いやさっきスーパーひとしくん出せないって言ってましたよね?ひとしくん……」
さとしはそう言いながらバーミヤンを見るがバーミヤンは相変わらず呆気らかんとしている。
「ひと……さとしくん」
さとしは小声で言い直す。
「あー!スーパーさとしくんが出せないって言った話ね!」
バーミヤンは突然思い出したように手を叩く。
「さっき自分でひとしくんって言ってたくせに……」
さとしはバーミヤンに聞こえないくらいの小声で言う。
「何?」
バーミヤンが聞き返す。
「なんでもないです」
「でさ、さっきスーパーひとしくんが出せないって言った話なんだけど……」
バーミヤンは話し始める。
「あ!今ひとしくんって!」
さとしは咄嗟にバーミヤンを指さし大声で言う。
「え?言ってない!」
バーミヤンは否定する。
「言いました!」
さとしはしたり顔で言う。
「言ってないって!」
「言いましたよ」
「言ってない」
「言った!」
二人は問答を繰り返す。
「じゃあスーパーひとしくん出します!」
さとしは自信満々に言う。
「クソ!確かにひとしくんって言ちゃったよ!でも……スーパーひとしくん出せたね、さとし!」
バーミヤンは悔しがりながらも嬉しそうな表情をする。しばらく微笑んだ後、バーミヤンは急に真剣な表情でさとしを見る。
「って言うかね、オレ自分の夢追いかけてこれまでやってきたんだけどね、サラリーマンとかやらずに絶対叶えるんだってやってきたんだけどね、スーパーひとしくんを出したことないんだよね」
バーミヤンは語る。
「既にそれをやろうという時点で出してるじゃないですか!」
さとしは言う。
「そうでもないんだよ、結局いつも不安があるし、完全に否定されることにビビッてるんだ」
バーミヤンは静かに語る。
「そうなんですか?バーミヤンさんの夢って何ですか?」
さとしは尋ねる。
「ミュージシャン」
バーミヤンは言う。
「18で決意して、気付けば26歳になってさ、バイトしながらミュージシャン目指してるんだ、ずっと」
バーミヤンは低いトーンで語る。
「一番やりたいことを求め続けられるなんてすごいと思いますけど」
さとしは言う。
「でもね、どっかで全力で行かないようにしてる自分がいるんんだ。夢が夢で終わるのを恐れてる」
バーミヤンは言う。
「……」
さとしは黙って聞いている。
「だからね、逆にさとしとかみんなには全力で行って欲しいと思うんだ。ホントは自分に一番言いたいことなんだけどね」
バーミヤンはそう言うと、大きく伸びをする。
「そうなんですね……」
さとしは一言呟く。
「あー、ごめんね、どうでもいい話に付き合わせて。寝るわ!」
そう言うとバーミヤンはさとしに向かって軽く手を挙げる。
「あ、おやすみなさい」
さとしは隣の部屋へ向かうバーミヤンの背中に一言声を掛ける。バーミヤンが102号室に入っていくのをボーっと見つめるさとし。
「スーパーひとしくん……」
そう呟き、しばらく103号室の玄関のドアを開けたまま立ち尽くすさとし。
翌日。スーツ姿で駅からマンションへの夜道を歩いているさとし。
「はぁ……」
溜息を付きスマートフォンの画面を開く。迷惑メールが2件着信している。
「ちっ!うざいな!」
さとしは舌打ちをし大きめの声で独り言を言う。その瞬間、さとしの背後から声がする。
「おい、てめえ誰がうぜーんだ?」
さとしは振り返る。振り返るとそこには肩に入れ墨を入れた色黒の男が立っている。
「え?」
さとしは驚いた顔をする。
「オレが鼻歌歌ってたのが気に入らねーのか?ケンカ売ってんのかこのボケ!」
そう言うとさとしの胸ぐらを掴み上げる色黒の男。そしてさとしの腹部を殴打する。鈍い音と共にさとしはうずくまる。
「うう……」
さとしは痛みに悶える。
「マジ坊がなめてんじゃねーぞ!」
色黒の男はさとしの脇腹を尚も蹴り上げる。
「タッタッタッタ」
その時夜道を誰かが全速力で走ってくる足音が聞こえる。
「おめーふざけたことしてんじゃねぇぞ!」
茨城訛りの怒鳴り声と共にトビーが色黒の男に背後から飛び蹴りを食らわす。男は振り向いた瞬間に蹴り飛ばされる。
「な、なんだてめえ!」
色黒の男はトビーを睨みつける。トビーはまたも全速力で色黒の男めがけて拳を振り下ろす。
「そりゃこっちのセリフだっぺよ!オレんダチになめたことしてんじゃねーぞコラ!」
「ドゴ」
色黒の男は殴り飛ばされる。色黒の男は鼻血を出しながら泣きそうな顔でトビーを見る。トビーは険しい表情で色黒の男を睨む。色黒の男は地面にしゃがみ込み土下座をする。
「す、すみません……」
トビーは尚も土下座する色黒の男を殴りつける。
「おめー人が死んだらすみませんじゃすまねーんだぞ!二度と人殴れないように両腕折っといてやっから!」
そう言うとトビーは色黒の男の両腕を背後から掴む。
「うわーーー!」
大声で叫ぶ色黒の男。うずくまっていたさとしがその光景を見て叫ぶ。
「トビーさん、もうやめてください!」
トビーはさとしを見つめる。
「こういうやつはこんくらいしとかないとやり返してくっからね、完全にシメとかないとね」
鬼の形相で優しく語るトビー。
「コラ!何してんだ!」
とその時巡回中の戸越三丁目交番の警察官が自転車で向かってくる。
「坂崎!また貴様か!」
警察官は色黒の男に向かい怒鳴る。
「オレこいつらにいきなり殴られたんだよ!」
色黒の男は情けない声を出す。
「いい加減にしろ!トビーは理由なく殴ったりしないわ!」
そう言うと警察官は男の腕を掴み立たせる。
「お勤めご苦労様です」
トビーは警察官に向かって言う。
「ホントこう言うアホはだめだね。いつも悪いね、助かるよ」
警察官はトビーにお礼を言うと、男を連れて交番へと向かう。その光景を茫然と見ているさとし。
「せっかく風呂行ったのに汚れたな」
トビーは拳についた色黒の男の鼻血を見つめながら呟く。
「トビーさんって意外と荒いんすね……」
さとしは恐る恐る話かける。
「……ホントは人なんて殴りたくない」
トビーは小さい声で呟く。しばらく拳を見つめ続けるトビー。
「……トビーさん、大丈夫ですか?」
その様子を見て声を掛けるさとし。
「あ、大丈夫」
トビーの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「汚いから風呂行こう。色々話そう」
トビーはさとしを誘う。
「え?わ、わかりました」
さとしは半ば恐怖を感じたように同意する。
戸越温泉の男湯。客がまばらな大浴場で湯船に浸かっているさとしとトビー。
「気持ちいいっすね」
さとしはそう言うと大きく息を吐く。
「オレね、人を殺したことがあるんだ」
トビーはボソッと言う。
「え?」
さとしは突然の発言に驚いた顔でトビーを見る。
「茨城にいた頃さ、暴走族とかやってたんだ。力は強かったから誘われてね」
トビーはさとしに構わず続ける。
「嬉しかったんだ。オレあんま人としゃべるの得意じゃないから、友達も少なくて。でもそんなオレでも仲間に入れてくれるやつらがいてホント嬉しかった」
トビーは天井を見つめながら続ける。さとしは黙って聞いている。
「でもね、人を殴ったり傷つけることは好きじゃなかった。ある日同じようなグループのやつとケンカすることになってね。みんなでケンカしたんだ。でもねオレはみんなを守るだけで手は出せなかった」
さとしは黙ってトビーの話を聞き続けている。お湯が湯船に流れ込む音だけが響いている。
「そのせいで仲間が死んだ……」
トビーは天井を見つめ続けている。さとしはトビーを見る。
「結局ね、オレは人を傷つけたくなかったんじゃないんだ。人を傷つけることで自分が傷つくのが怖かったんだ。悪いやつは殴るべきだった」
「トビーさんのせいじゃないですよ……」
さとしは呟く。
「いや、オレのせいであいつは死んだ。オレが殺した。オレは知っておくべきだった、誰かを守るためには何かを犠牲しなきゃいけないことを……」
トビーはそう言うとお湯を掬い上げ顔を拭う。
「だからさっきも……」
さとしは神妙な顔で呟く。
「だからね、オレはもう仲間を失いたくない。そのためなら自分の心も恐怖心も犠牲にすることにしたんだ。さとしが困ったら絶対助ける。みんなもそうだと思う。これからは安心して一番を取りにいきなよ」
トビーはさとしの方を向きほほ笑む。
「……ありがとうございます。なんか熱いな……」
さとしは少し嬉しそうな顔で言う。
「え?熱い?じゃあもう出よう。ごめんね話長くなって」
そう言うとトビーは立ち上がる。全裸の状態でさとしの方を向きさとしに手を差し伸べる。
「ちょ、ちょっと目の前にアレが!」
さとしは思わず叫ぶ。
「あ、ごめんね」
そう言うとトビーは湯船から出ていく。その後ろ姿を火照った顔で見つめるさとし。
「仲間……ね……やっぱ何か熱いな」
そう言うとさとしは手のひらで顔を仰ぐ。
103号室。ベッドに座り首からタオルを下げた状態で座っているさとし。
「たまには銭湯も悪くないな」
そう言いながら、ペットボトルのお茶を飲むさとし。
「バタン!」
とその瞬間玄関の外のエントランスから大きな物音がする。さとしはその音に驚き、飲んでいたお茶を床にこぼす。
「なんだ!?」
そう呟くとさとしは玄関へと向かう。玄関のドアスコープから外を覗くさとし。何かが散らばっているのが見える。
「?」
さとしは気になり玄関のドアを開け外に出る。
玄関に出るとポストの横に置いてある不要なチラシを捨てるために設置されたゴミ箱が倒れている。そしてチラシやDMが散在している。ポストの方に目をやるとシームレスが険しい表情を浮かべ立っている。
「……シームレスさん?どうしたんですか?」
さとしは異様な様子のシームレスに恐る恐る声を掛ける。
「……さとし」
シームレスは険しい表情のままさとしを見る。
「大丈夫ですか?何かあったんですか?」
さとしは尋ねる。
「何でもない……」
シームレスはボソっと応える。その手には破れたはがきの破片が握られている。シームレスの足元に落ちているはがきの破片を拾い上げるさとし。
「……3年……同窓会」
拾ったはがきの破片に書かれている文字を読むさとし。
「勝手に触らないで!」
シームレスは突然怒鳴る。
「あ、すみません」
さとしはとっさに手に持ったはがきの破片を放り投げ後退る。
「……ごめん」
シームレスは依然として険しい表情のまま言う。
「すみません、戻ります」
さとしはそう言うと103号室のドアへと向かう。
「ちょっと待って」
その瞬間シームレスがさとしを呼び止める。
「戻るの?そのまま部屋に戻るの?」
シームレスは淡々と言う。
「え?何か戻った方がよさそうなんで……」
さとしは当惑した表情で言う。
「そっか。その考え方、普通だね」
シームレスはまたも淡々と言う。
「普通って!気を使って戻るって言ってんのにその言い方はないでしょ!」
さとしは大きめの声で言う。
「気を使う……誰に?自分に?」
シームレスは言う。
「あんたさ、なんでそうやって思ったことをズバズバ言うかね?そんなに人を嫌な気持ちにさせたいんですか?」
さとしは怒鳴る。
「逆だよ。自分を守るため」
シームレスは言う。
「自分守るって、どんだけ自己中なんですか?そんなんだからどうせ友達もいなかったんでしょ?だから同窓会行きたくなくてそれ破ってたんでしょ?」
さとしはシームレスを攻め立てる。
「違う!」
シームレスは大きな声で言う。
「私は、自己中どころか周りに合わせ過ぎてた。だからこんな茶番には行きたくないの!」
シームレスは落ちたはがきを思いっきり踏みつける。
「どういうことですか?」
さとしは落ち着きを取り戻し質問する。
「私はね、自分を守るために思ったことは言うことにしてるんだ、それが人のためにもなる気もしてる」
シームレスは俯き気味で言う。
「自分を守るためって?」
さとしは質問する。
「……私は小学校の時はね、すごく大人しい子だった。みんな私の存在を覚えていないくらいね。周りの友達に合わせていつも黙ってついていってた。みんなのやりたい遊びにも付き合ったし、言われたことも素直にやったわ」
シームレスは俯いたまま語る。
「じゃあ何で思ったことを言うようになったんですか?」
さとしは俯くシームレスの様子を伺いながら尋ねる。
「分かるでしょ。大体人なんて自分に都合のいいやつには何言っても、何やっても許されると思うの。だから私はいつの間にかいじめられた。はけ口にされた」
シームレスは顔を上げ険しい表情でさとしを見つめる。
「……」
さとしはその表情に何も言えず黙る。
「結局中学に入っても、ますます周りは頭に乗った。それでね、ある時私は気付いたの。私が思ったことを言わないから、周りのやつらがどんどん可哀想な人になってくことに。そして自分自身も守れないことに」
シームレスは少し穏やかな表情を見せる。
「……そうなんですね」
さとしはバツが悪そうな表情をしつつ呟く。
「だからね、私は自分を守るために素直になることにしたの。周りにもその方がいいと思って。それがいつの間にか私の普通になった」
シームレスは穏やかな表情に戻る。
「色々あったんですね。そりゃ破りたくなりますよね」
さとしは落ちているはがきの破片を見て言う。
「私がね、こんなの行くわけないのにさ、そんな感じじゃなかったの知ってるはずなのにさ、ただ名簿にあったからって送ってくるんだ。普通じゃないよ、あのクソ共」
シームレスはそう言うと握っているはがきの破片と、落ちているはがきの破片をゴミ箱の奥に手を伸ばして入れる。
「はじめて、普通じゃないって聞きましたシームレスさんの口から」
さとしは少し驚いた顔で言う。
「普通って何だろうね?人の気持ちも忘れちゃうような人の考えは理解できない。そうじゃなくてちゃんと理解できるのが普通って思うことかもね。だからさとしは普通なのかもね」
シームレスは言う。
「普通っすか」
さとしは呟く。
「私は普通に自分もマルミエールのみんなも、さとしも、全部を守るために言いたいことは言うから。だからさ、さとしも苦しいんなら自分に素直にしたらいいよ」
シームレスは言う。
「素直に……ですね」
さとしは呟く。
「それじゃ残りの散らかったゴミかたしといてね、さとし」
シームレスはそう言うと階段へと向かう。
「はい」
さとしは返事をする。
「素直だね」
シームレスはそう低いトーンで呟くと階段を上がって行く。シームレスの後ろ姿を眺めた後、ゴミを片づけ始めるさとし。
「あれ?」
さとしはシームレスが握っていたはがきの別の破片を手に取り見つめる。
「これ……出席に丸付けた痕が……」
はがきの破片を握ったまま、二階へと続く階段の方を見るさとし。
「素直……じゃない?」
微かに笑顔を浮かべ、しばらく立ち尽くすさとし。
103号室。さとしが机に座りパソコンをいじっている。
「やべー、明日までにこの提案書仕上げなきゃいけないのに時間がない!」
さとしは激しく貧乏ゆすりをしながら嘆く。机の上の置時計を見るさとし。12時を指している。
「もうこんな時間……眠い」
そう呟くと座ったままうとうととし出すさとし。しばらくして目を見開く。
「はっ!寝ちゃだめだ!コーヒーでも買ってくるか」
さとしは机の横に置かれた鞄から財布を取り出し、玄関へと向かう。
財布を握ったままマルミエール戸越のエントランスを出ようとするさとし。自動ドアが開く。
「あ!」
さとしが自動ドアを出ようとするとギターケースを抱えたテイジーと鉢合わせる。
「さとしか。ビックリした!」
テイジーは少し驚いた表情で言う。
「テイジーさんこんな遅くまで練習ですか?」
さとしはシームレスの抱えるギターケースを見て質問する。
「ちょっとね。おかげでギターも弾けるようになったし」
テイジーはギターケースを摩りながら言う。
「さとしはどこいくの?」
シームレスが尋ねる。
「ちょっと眠いんでコーヒーでも買おうかと」
さとしは応える。
「気合入ってるね。そう言えばさとしもギターやるんだよね?バーミヤンがさとしんちにギターあったって言ってたよ」
テイジーが尋ねる。
「あー、昔ちょっとやってただけで今はただのオブジェみたいなもんですけどね」
さとしはボソッと言う。
「そうなんだ。やればいいのに」
テイジーは言う。
「まあ時間もないんでできないっす」
さとしは苦笑いしながら言う。
「そうなの?時間ないなら時間作ってやったら?」
テイジーが言う。
「だから時間ないんすよ。毎日家帰るの23時とかだし、土日は疲れちゃってできないし」
さとしが少し語気を強めて言う。
「時間あるじゃん。やらないのは違う理由でしょ。そんな好きじゃないからでしょ?はじめっからそう言いなさい!」
テイジーは強い口調で言う。
「好きじゃなくないですよ!オレもテイジーさんくらい時間あればやってますよ!いつも18時には家に帰ってるんでしょ?ならできますよ。オレはそんな暇じゃないんですよ!」
さとしはイライラしながら言う。
「私みたいに……ね。正直私はこれをやるために定時に帰る仕事してるんだよ。生活のおまけでギター弾いてるわけじゃないんだよ!」
テイジーは強い口調で言う。
「……でも時間あることに変わりないでしょ」
さとしはボソっと言う。
「全然違うと私は思う。ちゃんと先を考えた上で決めてることだから。なんとなくやってるわけじゃないから。私には時間が惜しいの。さとしみたいに無駄に時間を過ごすのは嫌なの。だから私は時間を大事にしているの」
テイジーは言う。
「そうですね!オレは時間無駄にしてますよ!今こうして立ち話してる時間がもったいない!明日までにめんどくさい提案書やらなきゃいけないんですよ!」
さとしは怒鳴る。
「さとし、そんな時間に縛られると人生損するよ!」
テイジーは言う。
「は?あんただって散々縛られてる話してたのにわけわかんないな!」
さとしは怒鳴る。
「私は時間に縛られたくないから時間を大切にしているだけ。逆なんだよ!」
テイジーは言う。
「どういうことですか?逆ってなんなんすか!?」
さとしは怪訝な表情で尋ねる。
「私の両親はね、いつも時間がない、時間がないって言ってたわ。口を開けば時間がない、時間がなくてやりたいこともできなかった、そう小さい頃から言われ続けて育った。だから大人って忙しいんだろうなって思ってた」
テイジーが静かに話す。さとしは黙って聞いている。
「でもね、高校生の時ね、おかしいなって気付いた。そんな親はね休日は家にいるし、一日横になったりテレビ見たりしてた。時間あるじゃんって思った」
テイジーは静かに話し続ける。
「オレと一緒ってことですか……」
さとしはボソっと言う。
「はじめはきっと時間が本当になかったのかもしれない。でもそのうち決まり文句のような言い訳に時間がないってのを使うようになちゃったんじゃないかと思う。だから私は言い訳できないくらいの時間を作って自分のやりたいことが本物か試すことにした。時間をこっちから制御してやろうと思った」
テイジーは語気を強めて言う。
「やりたいこと?ギターですか?」
さとしは尋ねる。
「ギターもそうだけどね。今色んなカフェとか回って演奏させてもらいつつ、運営についても勉強させてもらってるんだ」
テイジーは言う。
「運営ですか?カフェの?」
さとしは尋ねる。
「そう。私の夢はね、みんなが時間を忘れて楽しめる、そんなバンドカフェをやることなんだ」
テイジーは笑顔を浮かべる。
「……時間を忘れて楽しめる……」
さとしはボソッと言う。
「さとしもさ、時間がなくても時間を見つけてやっちゃうこととか、時間を作ってでもやりたいことで1番を目指しなよ!きっと1番になれるよ!」
テイジーは笑顔で言う。
「なれますかね、1番……」
さとしはボソッと呟く。
「なれるよ!私がなれるって言ったらなれるんだよ!」
テイジーが強い口調で言う。
「強引だなぁ」
さとしは苦笑いをする。
「引き止めちゃってごめん!そんじゃ今日のところは提案書頑張りなさい!」
テイジーはそう言うとさとしの背中をポンと叩き、エントランスから入っていく。
「頑張ります……」
さとしはそう呟くとスマートフォンを取り出し画面上の時計を見つめる。画面には「0:30」の文字。
「まだこんな時間か……」
さとしはボソッと呟く。
数日後。さとしが商店街を歩いている。
「たまには休日も外に出なきゃな」
さとしはボソッと呟くと空を見上げる。曇り空が拡がっている。微かに雲の合間から日が漏れている。
「そろそろ晴れそうだな」
そう呟くと足早に歩き出す。商店街に立ち並ぶ店舗を横目に見ながら歩くさとし。
「そういえば戸越は商店街で有名なんだったな。引っ越してきてからほとんど来てなかったけど、何気色々あるな」
そう小さい声で呟くさとし。しばらく歩いたところで急に立ち止まる。一軒のカフェを見つめるさとし。カフェの窓ガラス越しにドンが座っているのが見える。
「ドンさんだ……」
しばらく見つめているさとし。ドンの前にスーツ姿の男が現れる。握手をするドンとスーツ姿の男。
「何してんだろ?休日まで仕事か?」
さとしは呟く。ドンはノートパソコンを取り出し、スーツ姿の男に画面を見せている。
「よくやるよ」
そう言うと再び歩き出すさとし。スマートフォンを取り出し画面を見る。
「お、電車の時間ちょうどいいな」
地下鉄の駅へと一目散に向かうさとし。
地下鉄の戸越駅。さとしが階段から地上に上がってくる。外は暗くなっている。
「もう20時か、結構疲れたな。買い物も楽じゃねーわ」
そう言うと大きな紙袋を握り直し商店街の道を歩き始める。ドンがいたカフェの前にさしかかるさとし。ふと横目でカフェを見ると、ドンがパソコンを弄っている姿が見える。
「あれ?まだいるわ。こんな長時間何してんだろ?」
立ち止まりカフェの店内を見つめるさとし。
「へい!」
とその時背後から何者かがさとしの肩を叩く。
「わっ!」
驚き手に持っていた紙袋を落とすさとし。
「へい、さとし!ストーキング?青春だねぇ。ハハハ」
ハイコがハイテンションでさとしに声を掛ける。
「なんだ、ハイコさんか。脅かさないでくださいよ~」
疲れた表情でハイコを軽く睨むさとし。
「誰のストーキング?」
そう言うとカフェの方を見るハイコ。
「ドンだね!ドンのストーキング?BL?ハハハ」
「ストーキングじゃないですよ!たまたまドンさんがいて気になったからちょっと見てただけです!」
さとしは必死に説明する。
「気になって見てた?完全なるストーキングだね。ストーカーはみんな言うんだよ、たまたまいたから見てたって。そんなんで済んだら警察いらないんだよ!ホントに気になるなら声かけたらいいじゃん。面と向かって気になるって言えばいいじゃん!このボーイズラブ野郎!ハハハ」
ハイコは大げさにそう言うと大きな声で笑う。
「だからボーイズラブって言うのやめてもらえますか?その気ないですから!」
さとしは大きな声を出す。
「冗談だよ!ホントだったら当にドン引き!ハハハ」
そう言うとさとしの背中を数回叩き去っていくハイコ。
「何だよ、バーミヤンさんはあんなこと言ってたけど、あいつ百パーただの脳天気だろ……」
ハイコの歩き去る背中を見つめながら、ボソッと呟くさとし。再びカフェの方に視線を戻すさとし。さっきまで店内に座っていたドンがいない。とその時カフェのドアが開く。
「あれ?さとし?」
ドンがカフェから出てきてさとしに気付き声をかける。会釈をするさとし。
「奇遇だね!買い物してきたの?」
さとしに近寄るドン。
「そうです。ドンさんは何を?」
ドンに尋ねるさとし。
「ちょっと時間潰してた!」
ドンは笑顔で応える。
「ちょっと?」
さとしは納得できない表情で呟く。
「そうだ、一杯やりにいかない?」
ドンは呑むジェスチャーをしながら言う。
「ちょっとならいいですよ」
さとしは応える。
「……一杯ってコーヒーですか?」
カフェに座っているさとしとドン。
「一杯が酒のことだなんて誰が決めたんだろうね!」
ドンは言う。
「でも一般的にはお酒のことですよ」
さとしは言い返す。
「そうだね。ま、酒飲むと思考能力が低下するから鼻見と付き合い意外では飲まないことにしてるんだ」
ドンが言う。
「意外ですね。毎日飲むのかと思いました」
さとしは言う。
「そうかな?確かに見た感じ飲みそうかもね。仕事的にも合コンとか盛んなイメージあるしね、ハハハ!」
ドンは笑いながら言う。
「ホント明らかにそうなのかと思いましたよ。休日も合コンとかゴルフとか行くのかと!」
さとしも笑顔で言う。
「さとし、そこだよ」
ドンは急に真面目な顔をしてさとしを見つめる。
「え?」
さとしはドンのテンションの落差に戸惑う。
「さとしはね、一般的とかイメージとかに囚われてるんじゃないかな」
ドンは言う。
「何ですか?いきなり……」
さとしは少し不機嫌な表情になる。
「既成概念に囚われると人生がつまらなくなるよ」
ドンは真面目な表情のまま言う。
「説教ですか?またセミナーとかの話ですか?」
さとしはドンを睨む。
「説教なんてしないよ!できる立場じゃないしね。たださとしに楽しくなってもらいたいだけだよ」
ドンは優しい表情に戻る。
「どういうことですか?」
さとしは訝しげな表情で尋ねる。
「オレの話してもいいかな?」
ドンがコーヒーを一口飲みながら言う。
「はぁ」
さとしもコーヒーを一口飲み応える。
「オレさ、小学校6年の時にね、親に言ったんだ。『あんたらから学ぶことは何もない』って」
ドンは真剣な表情で言う。さとしは黙っている。
「オレの親はね、いつもケンカばっかしてたんだ。子供の前でも人の前でも。一日も休みなくね。それで夕飯を母親が作ってくれないこともあったし、父親にはいつも母親との伝令をさせられた」
ドンは続ける。さとしは無言で聞いている。
「友達の家に行った時とかさ、友達の両親は仲が良くてさ、一緒に遊びに連れてってくれたりしてさ、なんでうちはこうじゃないんだろうっていつも考えてた。色んな人にも聞いた。図書館で本もたくさん読んだ。でも答えは見つからなかった」
ドンはまっすぐにさとしを見て話している。
「……」
さとしは依然として無言で聞いている。
「でもね。ある雨の日気付いたんだ。その日は雨がすごい降ってた。学校に行くとね、みんなイライラしてた。なんでって聞いたらみんな雨で濡れたからだって言うんだ。でもオレは雨が好きだった。雨の日は自然と両親があまりケンカをしなかったんだ。それだけの理由で雨が好きだった」
ドンは微笑む。
「雨ですか……」
さとしはボソッと呟く。
「でね、その時初めて雨は一般的には嫌われる天気なんだって気付いた。それでね、自分が思ってることって全く違う見方があることを知ったんだ」
「どういうことですか?」
さとしは尋ねる。
「オレはさ、親に期待してたんだ。何かをしてもらいたい、教えてもらいたい。親は凄いものだ、守ってくれるものだ、ってね」
ドンは言う。
「それで……学ぶことはないって言ったんですね」
さとしは少し納得した表情をする。頷くドン。
「この前貸した本覚えてる?」
ドンは尋ねる。
「問題解決プロフェッショナル?」
さとしはボソッと言う。
「そう。あの本にゼロベース思考ってあったでしょ?」
「ああ、自分の狭い枠の中で否定に走らない……」
さとしは思い出したように言う。
「そう。つまりさ物事をゼロから考え直すってことだね。オレは無意識に小学生の時にやってたんだって大人になって分かったよ。だからね、オレはゼロに戻すことは大事なことだと今でも思う」
「ゼロに戻す……?」
「ゼロにすることはね、これまでの自分とか歩いてきた道を否定するようで怖いことだし、勇気がいることであるのは確かなんだ。オレも親に対する見方を変えるのは怖かった。でもね、実際やってみたらすごく楽になれたんだ。むしろ肯定的に両親を見られるようになった」
ドンは笑顔で言う。
「そうなんですか?」
さとしは呟く。黙って深く頷くドン。
「考え方をゼロにすることと、自分の価値をゼロにすることは全く別だしね!あと他にもね、ビジネスの発想には実は人生に当てはめると面白いものが結構あるんだよ。MECE(ミッシー)とかね」
「MECE(ミッシー)?」
さとしは質問する。
「さとし、さては読んでないね」
ドンは笑顔で言う。
「す、すみません」
さとしはバツが悪そうに言う。
「いや、いいんだよ。読みたくなったら読んでよ!でね、MECEってロジカルシンキングの定番みたいなものなんだけどね、漏れなくダブりなし、って意味なんだ」
ドンの言葉にさとしは頷いている。
「漏れもないし、ダブりもない、そんな考え方がベストってことなんだけどね、みんなこれを実践すべきって言うけどね、でも世の中は漏れもダブりも求められてるから傑作だよね!」
ドンは笑う。
「求められてる?」
さとしは呆気らかんとした表情をしている。
「だってさ、人と違ったことをして一番になることが凄いことだったりさ、逆にみんなと同じように行動することが正しいとされたりするじゃん。みんな漏れたりダブったりすることを求められてるし、そして自ら求めてたりするんだよね」
ドンは笑顔で言う。さとしは何度も頷いている。
「オレはね、人自体はみんな元々MECEだと思うんだよね。全く同じ思考のやつもいないし、まったく的外れな人もいないだろ?だからさ、さとしもMECEなんだよ」
ドンは言う。
「オレがMECEですか?」
さとしはドンを見つめる。
「さとしがやることはいつも唯一。だからさ自信持って思った通りに生きなよ!そんなさとしを漏らすやつは、少なくともあのマンションにはいないから!」
ドンはそう言うと微笑む。そしてドンは手を挙げる。
「すみませーん、お会計お願いします!」
店員を呼ぶドン。
「……帰ったらあの本ちゃんと読んでみます……」
さとしはボソッと言う。ドンは店員から伝票を受け取りながら、笑顔でさとしに頷いている。
「あ!」
伝票を見て声を出すドン。
「すみません!これ注文一個漏れてるし、片方は一杯なのに二杯になってますよ!」
ドンが店員に声を掛ける。
「すみません、すぐに直して参ります」
店員は頭を下げドンから伝票を受け取る。
「漏れなくダブりなし……か」
店員に伝票を渡すドンを見つめながら、小さな声で呟くさとし。
さとしとドンがマルミエール戸越のエントランスに入ってくる。
「じゃ一杯付き合ってくれてありがとう!さとし!」
ドンは笑顔でさとしに向かって手を挙げあいさつをする。
「あ、こちらこそご馳走になってしまって。ありがとうございました」
さとしは軽く会釈をする。
「あそこのコーヒー旨いからね!ブラックが一番おいしい!砂糖、ゼロだよ、さとし。でもオレは加藤だからそこんとこよろしく!」
ドンはそう言うと颯爽と二階へと続く階段を駆け上がっていく。
「……そうだ、ドンさんって加藤って苗字だったの忘れてた」
さとしはそう言うとポストへと向かう。103号室のポストのダイアルを回し開くさとし。ポストの奥に電気使用量の通知と、電気料金値上げの通知が届いている。取り出そうと手を伸ばすさとし。その時ポスト越しに見えるマンションの前の通りを、ハイコがコンビニの袋を持って歩いてくる姿が見える。いつもの笑顔はなく、無表情のハイコ。
「……」
ポスト内に伸ばした手をそのままに、いつもと様子の違うハイコを見つめるさとし。ハイコが調度ポストの前に通りかかった時、突然ハイコが立ち止まりポストの方を向く。
「……」
ポスト越しにハイコと目が合い、固唾を飲むさとし。
「何見てんだよ!ストーキングさとし!次のターゲット探しかい?ハハハ!」
ハイコは先ほどの表情とは一変、満面の笑顔でポストの反対側の投函口に指を入れ開き、さとしに声を掛ける。
「わ!びっくりした!そっち側から見えました?」
さとしはポストを覗いたまま声を出す。
「見えなかったけど気を感じたよ、ストーク王にオレはなるって感じの強い気を!ハハハ!」
ハイコはポストの反対側の投函口を指で押さえたまま言う。
「だからそのキングじゃないですから!動詞を名詞にするための……ってどっちでもないからいいけど!」
さとしは真面目にツッコもうとして途中でやめる。
「諦めた!認めた?認めたってことでいいかな、BL野郎!ハハハ」
「だから認めてないから!ってかハイコさんは何でそんないつも笑ってるんですか?テンション高いんですか?」
さとしは低いトーンで尋ねる。
「楽しいから!ハハハ!」
ハイコは笑いながら応える。
「じゃあいつも笑ってるのはいつも楽しいからですか?」
さとしは更に尋ねる。
「そうだよ、そうだよ、しょうゆーこと!ハハハ!ソースだと思った?醤油だよ!ハハハ!」
ハイコは大きな声で笑う。
「でもさっき暗い顔で歩いてましたよね?」
さとしは言う。
「……え?外が暗いから、その真似してただけだよ!ハハ」
ハイコは少し間を開けた後、やや低めのトーンで言う。
「そうですか。楽しいから笑ってるんですね」
さとしは諦めたように言う。
「うん、楽しいからだよ。ホントは笑ってた方が楽しいからかな?」
ハイコは呟く。
「笑ってた方が楽しい?」
さとしは聞き返す。
「うん。私ね……」
ハイコはいつになく低いトーンで話し始める。
「……ちょっと長くなるかもなんだけど、ポスト越しでもいいかな?目だけを見て話した方が工藤静香っぽいし!ハハ」
ハイコはそう言うと投函口から両目を覗かせる。ハイコの表情が見えなくなる。
「目と目で通じ合う……って古いですね。全然このままで構いませんけど」
さとしはツッコミつつ応える。
「私ね……昔は笑ってなかったんだ、ハハ。正確には笑えなかったのかな。笑い方を知らなかったのかな」
ハイコは時折意図的に笑いながら話し始める。黙って聞いているさとし。
「私の小さい頃ね、家で笑ってる人なんていなかったんだ。むしろみんな怒ってたし、お姉ちゃんがいたんだけどね、彼女はいつも泣いてた。私はそんな人たちを見て、怒るのも、泣くのも嫌だったからいつも無表情だった。例えるならミッフィーちゃんみたいな感じかな。ハハ」
そう言うと、ハイコの目つきが真剣になる。
「そうなんですね」
さとしは相槌を打つように小さく呟く。
「でね、私とお姉ちゃんを生んだ人たちはね、いつも怒ってたからね、親戚の人もいつも怒っててね、私とお姉ちゃんは親戚の人からもなぜか怒られてたんだ。何もしてないのにね、怒られてたんだ。ハハ」
ハイコの目が哀しげになる。
「怒られ過ぎてね、お姉ちゃんは泣かなくなった。正確にはもう泣かなくていい世界に旅立った。そんな世界ないのにね、ハハ」
ハイコは低いトーンで笑う。
「……」
さとしは黙って聞いている。
「そんな時でもね、私は無表情を決め込んだんだ。そんなんだからね学校でもね、のっぺらぼうって言われてね、気付いたらみんな人形遊びに飽きてね、一人になってたんだ、ハハ」
ハイコは続ける。ポスト越しに軽く頷き相槌を打つさとし。
「でもね、やっぱ表情に出さなくてもさ感情があってね、なんでこんな事になったのかなって悩んでね、鏡みたらね、ミッフィーちゃんがいてね、何かアホらしくなってね、笑っちゃったんだ、ハハ。そしたらね何か少し楽になった気がしてね、それからその鏡に映ったミッフィーちゃんをね思い出してね、思い出し笑いするようになったの、ハハハ」
ハイコは大きな声で笑う。笑い声とは裏腹に、その目には薄らと涙が浮かんでいる。
「思い出し笑い……」
さとしは呟く。
「うん。思い出し笑いするようになったらね、一人になることが少なくなった。笑うとみんな仲良くしてくれるし、ちょっと楽しくなるんだって思った。だからそれ以来悲しいときも、ムカついたときも全部頑張って笑うようにしたんだ。ハハ」
ハイコは小さい声で笑う。
「喜怒哀楽の表現が全部笑うことだったんですね……」
さとしがボソッと呟く。
「うん。でも正確には怒哀だけだったかな、ハハ。あ、でも今はね、喜と楽で笑ってるよ!マルミエールのみんながそうさせてくれてるんだよ!ハハハ!」
ハイコはそう言うと笑う。
「なら良かったです」
さとしは呟く。
「だから私はね、みんながつらい時はねその分笑うの。だからね、さとしがスーパーひとしくん出してね、もし間違えたとしてもね、私がその分笑うから、さとしは泣いたらいいよ!それだけは間違いないから!ハハハ!間違い探し!」
ハイコは大きな声で笑う。
「ハイコさん……ホントに笑ってくれますか?」
さとしは呟く。
「どうかな?ハハハ!」
ハイコは再び笑う。
「ええ?前言撤回ですか!?」
さとしはツッコミ口調で言う。
「ハハハ!さっきの前言を撤回だよ。いつでも、何回でも私は笑うから!ハハハ!」
ハイコは笑い声が周囲に響き渡るくらいの声で笑う。
「ははは」
さとしも小さい声で笑う。
「あ!」
ハイコが突然大きな声を出す。
「どうしました?」
さとしは尋ねる。
「コンビニでまさかり買ってくるの忘れてた!」
ハイコはそう言うとポストの投函口を閉める。
「ええ?まさかり?まさかりって!金太郎か!」
ポスト越しに去っていくハイコにツッコむさとし。その後ろ姿は涙を拭っているように見える。ハイコの姿が見えなくなる。
「……むしろ金太郎飴ですか、ハイコさん。いつでも、どこでも笑顔が出てくる金太郎飴女……」
さとしはそう小さい声で呟くと、ポストを覗いたまま微笑みを浮かべる。
103号室に戻るさとし。ポストから取り出した電気使用量の通知と電気料金値上げの通知を机に置くと、ベッドに仰向けに横になるさとし。
「ふう……今日は盛りだくさんだったな」
そう呟くとふと横を向くさとし。本棚の下の床にペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみが3体転がっている。仲良く落ちて並んでいるように見える。バーミヤンの顔を目に浮かべるさとし。
「スーパーひとしくんが出せない」
「でもさとしとかみんなには全力で行って欲しいと思うんだ」
トビーの顔を目に浮かべるさとし。
「オレはもう仲間を失いたくない。そのためなら自分の心も恐怖心も犠牲にすることにしたんだ。さとしが困ったら絶対助ける。みんなもそうだと思う」
シームレスの顔を目に浮かべるさとし。
「私は普通に自分もマルミエールのみんなも、さとしも、全部を守るために言いたいことは言うから。だからさ、さとしも苦しいんなら自分に素直にしたらいいよ」
テイジーの顔を目に浮かべるさとし。
「さとしもさ、時間がなくても時間を見つけてやっちゃうこととか、時間を作ってでもやりたいことで1番を目指しなよ!きっと1番になれるよ!」
ドンの顔を目に浮かべるさとし。
「オレはね、人自体はみんな元々MECEだと思うんだよね。全く同じ思考のやつもいないし、まったく的外れな人もいないだろ?だからさ、さとしもMECEなんだよ」
「さとしがやることはいつも唯一。だからさ自信持って思った通りに生きなよ!そんなさとしを漏らすやつは、少なくともあのマンションにはいないから!」
「だから私はね、みんながつらい時はねその分笑うの。だからね、さとしがスーパーひとしくん出してね、もし間違えたとしてもね、私がその分笑うから、さとしは泣いたらいいよ!それだけは間違いないから!ハハハ!間違い探し!」
それぞれの言葉を思い出し目を強く閉じるさとし。目を開け天井を見上げる。
「ああ。うざいな……」
ボソッと呟くと立ち上がるさとし。床に落ちているペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみを拾い上げ、本棚の上に置く。
「何もできないオレが……か」
そう呟きながら恐竜のぬいぐるみをペンギンとくまに挟むような形で立たせるさとし。ふと本棚に置いてあるカレンダーを見つめるさとし。
「今週末鼻見だったな……」
翌週。103号室。カーテンを半分開いた窓から夕日が差し込んでいる。さとしがベッドに座り問題解決プロフェッショナルの最後のページを読んでいる。読み終え本を閉じるさとし。背表紙を見つめるさとし。
「やっぱ難しいわ」
とその時、
「ゴン!」
何かが玄関のドアにぶつかる音がする。
「!?」
尋常ではない音に驚き玄関へと急ぐさとし。ドアを思いっきり開けるさとし。
「なんだ!?」
開いたドアからさとしが焦った顔を覗かせる。横を向くとそこにはまさかりを担いだハイコが立っている。
「うわー!」
叫び声を上げるさとし。
「ハハハ!」
「はは!」
さとしの様子を見て笑うハイコとその後ろに立つバーミヤン。
「笑いごとじゃないですよ!リアルに危なすぎます!!」
さとしは大声で怒鳴る。
「危険は隣り合わせなんだよ!人生は!ハハハ!でも私がお隣さんじゃなくてよかったね!ハハハ」
ハイコが満面の笑顔で言う。
「みんな待ってるから屋上行こう!鼻見だよ!そうだ、屋上行こう!」
バーミヤンも微笑みながら言う。
「そうだ、って『そうだ京都行こう』みたいな思いついた感がない!すでに行こうって言った後に言われても!」
さとしはツッコむ。
「ツッコミが丁寧だね、さすがさとし!」
バーミヤンは穏やかに言う。
「じゃ屋上行こう!そうだ、屋上行こう!ハハハ」
ハイコもバーミヤンを真似て言う。
「だから!まあ今日はヒマだし行きますか!」
さとしはいつもより高めのトーンで言う。
「今日はね、秋フェス!サバートニックだよ!ハハハ!」
ハイコが笑いながら言う。
「そう!サバと肉!」
バーミヤンが言う。
「またサバですか!サマーソニックみたいに言うな!それに肉ってサバだけ具体的!」
さとしはツッコむ。
「ごめんね、みんなサーバから食べたいくらいサバが好きなんだよ」
バーミヤンが真顔で言う。
「そう、サバのことになるとみんなサバイバルになるから気を付けて!まさかりは必須だよ!ハハハ」
「だからまさかりは危険過ぎます!」
真剣な表情で言うさとし。
「まーさかりかーついだ慎太郎!石原!ハハハ」
ハイコが歌いながら二階へと続く階段を上がって行く。微笑みながら続いて階段を上がって行くバーミヤン。
「まったく」
そう言うと笑みを浮かべ二階へと続く階段を上がって行くさとし。
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