後編:あなたは髪を信じますか?
退屈な授業もあと数分で終わる。俺は「まだかまだか」と小声で呟きながら疼いていた。
学業という義務からもうすぐ解放される六時限目。俺は教室の窓際近くの自席からそっと一本のスプレー缶を取り出す。
それにはシンプルかつスタイリッシュな文字で【
俺がこの五年間で試してきた育毛剤は百種類は下らないだろう。薬局など市販の物はもちろん、深夜のテレビ番組や無差別に送られてくる商品カタログ、そして現代人の生活には欠かせない、熱帯雨林の名前の大型通販サイトにある物、その数多くに手を出してみた。
「おい」
香りやベタつき、肌への相性、成分云々にコストパフォーマンス。そのどれもに得点やレビューをノートに記している。その膨大な記録は一冊の書籍にできるほど素晴らしい出来といえよう。
ただし、すべての品物がこの言葉で締めくくられている。『しかし残念ながら、効果はなかった』と。
「おい」
だが俺は微塵も諦めるつもりはない。いつか良い結果となる自分だけの運命のひと品と出会えるはずだ。なので、新商品を手にする度に希望に満ち溢れていた。
「おい」
この【SONIC GROWS】は、お客様満足度99.9%という実績があり、世界育毛なんとか大会で7年連続【最優秀賞】をとった優れものらしい。
説明書きには、一日三回、七時間おきに使用するよう書かれている。今朝の使い心地は中々のものだった。
「おい、鷲頭!聞いているのか!」
野太い怒号が俺の耳元で響き渡り、思わず椅子から尻が浮く。
「ぬお!先生、脅かさないでくださいよ!」
いつの間にか目の前に立っていた数学のオッサン教師が、こめかみをヒクヒクさせながら、そしてクラスメイト全員がこっちを注目していた。どうやら少しばかり自分の世界に浸ってしまったらしい。
「先生もよかったらこれ、使ってみますか?先生は俺のU型ハゲと違って、O型つむじハゲですから、そっちの方がホルモン性質上、効果抜群かもしれません」
教職者を真面目に心配しての俺の勧めは、なぜか教室を爆笑の渦で包んだ。
しかしそんな中、鷹山だけはクスリとも笑わずに、こちらに視線を向けつつも俯き気味でどこかを注視しているように思えた。
俺は授業終了の鐘とともに教師に「ちょっと職員室までいいか?」と、拒否権などないであろう任意同行を求められた。
◆
教師に小一時間ほど搾られた俺は、一人校舎の廊下を歩いていた。
説教の途中、ピリピリする教師に「イライラは抜け毛の大敵ですよ。落ち着きましょう」と言ったのは失敗だった。それが拘束時間を長引かせてしまったようだ。
こんなに教師に怒られたのは、中学三年生の時に進路調査票に『ロン毛』と書いて以来ではなかろうか。まあ、あの時は少しばかり厨二病をこじらせていたと反省している。
鞄やら育毛剤やらを取りに教室前にたどり着いた俺は、腕時計を見る。時刻はあと少しばかりで夕方の五時を回ろうとしていた。
今回、購入した育毛剤【SONIC GROWS】は使用は七時間おきと説明書きにある。つまりは今からつけたら、次は早くても夜中の十二時までは使用することができないのだ。
風呂で頭を洗うタイミングや翌日の使用時間もずれる。何より夜更かしは抜け毛の大敵だ。
俺は軽くため息をつきながら教室の扉を開けた。その瞬間、白熱電球のような眩しいオレンジ色の光が俺の目に射し込んだ。
思わず両腕で目を覆うように庇いながらも俺は教室内に視線を向ける。
どうやら、教室の窓に射し込む夕陽の光が何かに反射しているようだが、それにしても眩しすぎる。
何とか光を遮るように、腕の下の隙間から覗かせたその先には、一人の女子の制服が見える。どうやら俺の席の前にいるようだ。
「あ、わ、鷲頭…君」
聞き覚えのある声だった。そのとき、夕陽が少しだけ雲間にでも隠れたのだろうか。眩しさが少しだけ和らぎ何とか薄目で声のする方を見る。
隙間から見える一人の女子生徒の姿と顔。そこには、鷹山 美桂がいた。
片方の手には蓋が開いた俺の育毛剤【SONIC GROWS】が握られている。
そして、もう片方の手には俺の中で彼女の憧れのシンボルともいうべき、全俺が泣いて羨む、黒真珠のように美しいあの黒髪が丸ごとあった。
若ハゲの俺と見事なスキンヘッドを輝かせる鷹山。
二人だけの教室は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。
(つづく)
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