第15話『こうなりゃ自棄だ、心機一転?』
仰向けにひっくり返り、床にぶつけた後頭部をさすりながら酒田が立ち上がる。
「いいか、よく聞け! 俺がこの世界にインしてから、まだ二日しか経ってねえんだよ!」
「まさか! 一緒にネットカフェに飛び込んだじゃないっすか?」
「だろ? だけど、ホラ見てみろ。レベルだって、今日初めて上がったんだ」
【基本情報】
┏━━━━━━━━━
❙ 氏名:藤堂剣一
❙ 役職:王子
❙ 職業:剣士
❙ 年齢:16
┗━━━━━━━━━
【ステータス】
┏━━━━━━━━━
❙ LV:1
❙ HP:22/22
❙ 直攻:6
❙ 直防:4
❙ 魔攻:0
❙ 魔防:1
❙ 必殺:5
❙ 回避:4
┗━━━━━━━━━
「上がったって、先輩! レベル1じゃないっすか?」
「ああ、スライムどもと遣り合った時は、タニアも俺もレベルゼロだったからな」
「マジっすか? そんなレベルでボス戦に挑んだとは……。はぁー、凄いっていうか呆れるっていうか」
「しょうがねえだろ、成り行きだったから。じゃあ、鉄平のレベルはどうなんだ?」
「へへん。こんな感じっす」
【基本情報】
┏━━━━━━━━━
❙ 氏名:酒田鉄平
❙ 役職:なし
❙ 職業:戦士
❙ 年齢:15
┗━━━━━━━━━
【直接武器】
┏━━━━━━━━━
❙ 片手:なし
❙ 両手:大斧
┗━━━━━━━━━
【防具】
┏━━━━━━━━━
❙ 頭部:木の兜
❙ 頚部:なし
❙ 腕部:なし
❙ 手首:リストバンド
❙ 身体:皮の鎧
❙ 足首:戦士の靴
┗━━━━━━━━━
【ステータス】
┏━━━━━━━━━
❙ LV:5
❙ HP:28/28
❙ 直攻:8
❙ 直防:5
❙ 魔攻:0
❙ 魔防:0
❙ 必殺:7
❙ 回避:3
┗━━━━━━━━━
「三ヶ月でレベル5か。なあ、レベルアップのスピードとしたら、どうなんだ?」
「そうっすね。ゲームにもよるけど、遅い方じゃないっすか?」
「レベルを上げるのが難しいって事か?」
「普通のRPGじゃなくて、シミュレーションだからかもしれないっす」
「と?言うと」
「RPGだったらフィールドや地下迷宮で、モンスターに遭遇したらすぐに戦闘になって、経験値が稼げるっすよね?」
「このゲームは違うのか? 俺は、スライムを倒してレベルアップしたぞ?」
「シミュレーションゲームには、シナリオがあるっすよ」
「シナリオ? 何だ、最初からゲームの台本が決まっているのか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えないっす」
「何だそりゃ?」
「基本的には、まず【イベント】が発生するっす」
「ああ、それは何となく理解できる。昨日、タニアを仲間にする【イベント】をクリアしたからな。しかもスライムとの前哨戦も同時進行したんだぞ」
「へぇー、珍しいパターンっすね。とにかくシミュレーションは、普通のRPGと違って、馬鹿みたいに魔物を倒して経験値を稼ぐタイプのゲームじゃないっす」
「そうか……。明日になったらタニアとお前の三人で、草原に出来たって言う洞窟に、探検がてら出掛けるつもりだったのに。くそっ、当てが外れたぜ」
「悪くない案っすけど、たぶんレベルアップには効率が悪いっすよ。僕もここまで何とかレベルを上げることができたのは、【クエスト】をやったおかげっすから」
「ああ、お使いとかあるアレだな。それも聞いた事がある。で? 台本があるようで無いっていうのは、どう言う事なんだ?」
「シナリオに分岐があるっすよ。例えば誰かを仲間にしたりしなかったり、キャラが死んだり居なくなったりして、いくつものシナリオが枝分かれする場合が多いっす」
「お前が遊撃隊に加わってくれたのもそうなのか?」
「僕と出会わずに、別のシナリオでゲームが進む場合もあったんじゃないっすか?」
「じゃあ、ゲームのエンディングは……?」
「この世界は、とんでもない仕様すっからね。ひょっとして結末は無限にあるかも?」
「くそっ!」
「さっき言ったとおり、この物語は先輩が主人公で僕は脇役って立場っすよね」
「どうもピンとこないんだが、本当にそうなのか?」
「だってこの三ヶ月、僕にはイベントらしいイベントなんて無かったっすよ」
「ここで俺と再会したのが初イベントって訳か?」
「そうっす。まあ王子と女戦士のキャラとしては、初対面っすけどね」
現実世界の日本では、同じ会社に勤めるサラリーマンの先輩と後輩の間柄だが、このゲームの世界では、お互いに旧知の仲ではない。
「三ヶ月かー。よく考えたら、僕の本当の身体大丈夫かなー。お腹が空いて、餓死してたりしないかなー?」
「そんな訳ねえだろ? お前が過ごしてきた三ヶ月は、あくまでもゲーム内での時間経過だろ? コッチの世界が、現実世界とシンクロしている訳じゃあるまいし……」
「そうすっよね。ウォー・シミュレーションゲームなんかじゃ、敵の首都を陥落させるのに、ゲーム内のシナリオの中で何ヶ月も掛かる物が結構あるし。あはは」
呑気な部下が、さして心配している様子も見せずに笑い始める。
「まあ、僕の本体が空腹で死にそうになったら、その内勝手に目が覚めるっすよ。そうしたら、先輩も起こしてあげるっす」
「そうだな。頼むよ」
藤堂は部下の酒田に軽く答えたが、内心ではかなり焦っていた。
(確かにコイツが腹を空かせて目を覚まし、ネットカフェで暴れるのを待つっていうのも一つの選択肢だ。だが、それはいつになるんだ?)
目の前ではお気楽な部下が、うんうんと納得顔でヤバ過ぎるこの状況を自己完結している。藤堂は、酒田と同じように安易な考えにその身を任せることは出来なかった。
(もしコッチの世界の一日が、現実世界ではたった一秒だったら?)
王子のアバターを身にまとった藤堂が自問自答する。
(その計算だと、鉄平の奴が過ごした三ヶ月……。現実世界じゃ、たった九十秒くらいしか経過していない事になるじゃねえか)
知らず知らずの内に、藤堂が腕を組む。サラリーマン時代から、やっかいな状況に直面すると彼はこうやって腕を組んで熟考する癖があった。
(確か人間の脳って奴は、ほとんど使われていないんだったよな? もし、このゲームが、使っていないその部分を全て利用していたりしたら、十分ありうる話じゃねえか?)
実際、藤堂の姿形は学生時分に戻っている。もちろんコレも藤堂の記憶から読み取ったデータを光の速度で処理しているのだろう。
魔法の効果や魔物の存在もその神速の演算情報処理速度で、藤堂の目の前に存在している。
そんなモノが当たり前のようにまかり通るこの世界、時間の経過速度や感覚など当てに出来るはずもなかった。
(もしコッチの一日が、リアルじゃさらに一秒の半分以下だったりしたら? 一年は、えっーと三分ちょっとだな。十年でも三十分、百年でも……五時間足らずか)
「クソッ。こっちの世界にいるアバターの方が、先に老衰で死んじまうぞ!」
「え? 何か言いました?」
それまで黙って胸の内で思案していた藤堂の口から思わず漏れた言葉に、酒田が聞き返す。
「ああ? 早くお前の腹が空くといいなと思っただけだ」
「了解っす。コッチの世界でも、ガンガンと腹ごなしに戦闘するっす」
「それにしても、ゲームにログインしたのがこうも違うのはどういう訳なんだ? 俺はまだ二日目なのに、お前が三ヶ月っていうタイムラグはどこからきたんだ?」
「このシナリオだと、王子を手助けする戦士のキャラは、最初王子よりもレベルが高いすよね。だから単純に脇役でも、そのレベルアップする期間が必要だったとか?」
「ゲームのシナリオライターって奴は、そんな細かいところまで凝るのか?」
「普通は有り得ないっすね。でも、このゲームは桁外れに常識を超えているっす」
「結局のところどうなんだ? リアルでお前が腹を空かせる話はともかく、俺達はどうすりゃこの世界から現実へ帰れるんだ?」
「えーっと先輩、覚えています? あのネットカフェの受付美人の言葉」
「まあな。時間無制限。行動は全く自由。驚愕のエンディング。仲間と一緒に大陸統一するか、屍の山を築いて一人覇道の道を選ぶかってアレだろ?」
「それそれ。結局は、このゲームをクリアすれば、元の世界に戻れるって事じゃないないっすか?」
能天気なゲーム好きがお気楽な調子で大きく頷く。
「お前、簡単に言うけどな。俺はまだレベル1なんだぞ? この世界、アメリア大陸だっけ? それを統一するって、いったいいつになるんだ?」
「大丈夫っすよ。それまでには、絶対に僕の腹を空かせてみせますから」
お気楽極楽を地で行く呑気な部下が、女戦士のお腹をポンと叩いて確約する。
(漫画喫茶での二時間が、ひょっとするとコッチじゃ二十年かもしれないがな)
空気が読めない酒田にこれ以上言っても仕方がないと思わず目を伏せる。
「クソッ、他にいい手が思いつかねえー。今はシナリオどおりに動くしかないようだな。けど、誰だか知らないが、元の世界に戻ったら絶対にソイツをぶちのめす!」
「難しい事は良く分かんないっす。その辺はお任せしますから、僕は先輩がこの世界に君臨できるように、誰彼構わず敵をぶっ倒せばいいっすよね?」
「待て、待て。人を暗黒大魔王みたいに言うな! 今はとにかく役立たずの王子が徐々に力をつけて、このワーシントン王国の中で台頭していくのがスジってもんだろ?」
「シミュレーションゲームだったら各国が力をつける前に、まずは一気にぶわーっと隣国へ攻め込んで、勢力拡大の基盤を確保する鬼畜戦法なんかもあるっすよ?」
さすが、かなりの数のオンラインゲームをやりこんだだけの事はある酒田のセリフだが、藤堂が顔をしかめる。
「今日お前がいなければ、俺達はスライム相手にボロ負けしていたんだぞ? 俺とタニア。そしてお前の三人しかいない遊撃隊で、そんな無謀な事が出来るか!」
「そこはホラ、ゲームって事で」
「あのなぁ。この国には騎士団が四つもあるんだぞ。それが今じゃ戦線はこう着状態らしい。俺達遊撃隊で勝てるような相手なら、とっくの昔に隣国を併呑しているさ」
「そういやそうっすね。今は、仲間を集めるのが先決って事っすか」
「まあな。俺達の行動の基本方針が大陸統一って事なら、地道に力をつけるしかないだろ? そういう訳で、今からRPGの基本に戻る事にする」
「何っすか? それ」
「当然、情報収集だろ? お前はこの世界じゃ三ヶ月も先輩だからな。色々聞きたい事がある」
「ああ、なるほど。僕に分かる事なら何でも答えるっす」
「この世界は基本的にファンタジーだよな? だから、家電製品や自動車に飛行機なんて、当然ここじゃご法度なんだろ?」
「そのとおりっす。ファンタジーRPGの中で、いきなり主人公が携帯電話やタクシーを利用するなんて、雰囲気ぶち壊しっすからね。それと同じっすよ」
「あ、そう言えば携帯がないんだな。今まではほとんどソロプレイみたいだったから、そんなに感じなかったけど、ないと分かるとやっぱり不便だな」
「あ、それは……」
「ハイハーイ! マスター、それはこのフェアリーにお任せあれピョン!」
酒田が何か言おうとした時、ヒョコッと次元の隙間から顔を覗かせたウサギ妖精が、自分の役目を果たそうとして二人の頭上を飛び回る。
二十センチほどの体長に黒のバニースーツが、しっかりと胸の谷間をサポートしていた。ブロンドの髪を小さな頭の後ろでポニーテールにまとめている。
赤の蝶ネクタイと蒼いカフス。黒い網目模様のタイツ姿の妖精が、キラキラと透明な羽根をひらめかせて、リビングルームの大机の上に舞い降りた後、妖艶に脚を組む。
「遊撃隊員同士なら、いつでもどこでも連絡が取れるピョン!」
「へえー、どうやって?」
「簡単だピョン。まずは、遊撃隊のメンバーリストを出すピョン」
いつものように、フェアリーが可愛くウィンクすると今までリビングルームしか映っていなかった藤堂の視界に、データ画面がポップアップしてきた。
【メンバーリスト】
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
❙ 藤堂 剣一 LV1 【王子】:【剣士】
❙ タニア LV1 【令嬢】:【シスター】
❙ 酒田 鉄平 LV5 【――】:【戦士】
❙ チュートリアル LV― 【執事】:【――】
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「後はカーソルを動かしてからメンバーの名前を選ぶと、個人データが現れるピョン」
「ふむふむ」
そう言いながら、当然この場にいないタニアの名前に焦点を当てる。白く点滅するカーソルが固定されたのを見計らってから、瞬き二回のダブルクリック。
【基本情報】
┏━━━━━━━━━
❙ 氏名:タニア
❙ 役職:令嬢
❙ 職業:シスター
❙ 年齢:16
┗━━━━━━━━━
【ステータス】
┏━━━━━━━━━
❙ LV:1
❙ HP:22/22
❙ 直攻:3
❙ 直防:4
❙ 魔攻:0
❙ 魔防:3
❙ 必殺:4
❙ 回避:5
┗━━━━━━━━━
「マスター。この画面でタニアの顔にカーソルを当ててから、瞬き二回で実行すれば、タニアと連絡が取れるピョン」
「へえー。遊撃隊員限定とは言え、それは便利だな」
そう言いつつ、【基本情報】の左端でニッコリ微笑むタニアの似顔絵にカーソルを当てて、思わず瞬きを二回してしまう。
「あっ! マスター。言い忘れたけど、この連絡方法って、相手の状況とかお構い無しで画面が繋がっちゃうから。緊急事態とかで使う以外は、気をつけて……」
フェアリーがそう注意した途端、藤堂が見ていたタニアの似顔絵が、パッと映像に切り替わった。
――え? どうしたの、剣一! まさか、またスライムが出たの?――
まさにテレビ電話機能を有した通信手段だった。さっきまで色っぽい修道服を着た似顔絵だったタニアが、なんと今は全裸状態で画面に映し出されている。
キシリトール教会のお風呂場だ。なぜか日本の伝統的な和風ヒノキ風呂が、一糸纏わぬ姿のシスターの背中越しに見える。
もうもうと溢れかえるような湯気が立ち込める中、微妙な両腕の位置と肌に塗りたくられた真っ白な石鹸の泡が、かろうじて彼女のバストトップを隠していた。
ついさっきまでサラリーマン二人組みは、自分たちが元の世界に戻れるかどうかという超シリアスなドラマを展開していたはずだった。
だが、突然映し出されたシスターのエロ動画。それを直視した藤堂が噴き出す鼻血一発で無残にも砕け散った。
「ぶはっ!」
あまりにも突然の出来事に、この物語はなすべもなくコメディと化していく。
――血が出ているじゃない! 剣一しっかりして!――
「ば、馬鹿! 手を動かすなって! 泡が流れて見えちゃうだろ!」
バクバクと破裂しそうな心臓を押さえ込み、慌ててそっぽを向く。だが、ウサギ妖精であるフェアリーの補助による支援効果は、視界の方向に左右される事はない。
つまり藤堂がどっちを向いても、そこには素肌を晒したタニアの映像が、ずっと映し出されているのだった。
「だぁぁぁぁ!」
もうパニックが留まる事を知らない。普段の研ぎ澄まされた氷のように冷静沈着な剣士はどこへやら。部屋の中央の大机の周りをドタバタと駆け回る。
両手を前に突き出し、車のワイパーのように動かして何とかエロ画面を閉じようとするが、まったく意味がない行動だ。
単純に目を閉じればタニアの姿は見えなくなるのだが、そこは男の本能が勝るのか? 藤堂の大脳から瞼を司る神経に、お宝映像を遮るような命令は伝達されそうもない。
――緊急事態なのね? 待ってて! すぐ行くから――
「ちがーう! し、心配するな。こ、これはちょっとした事故だから」
上を向きながら、握り拳でゴシゴシと鼻血をふき取る。
――事故って何?――
「うっ!」
一瞬。一秒の何分の一か、藤堂は口ごもった。だが、サラリーマン時代に培った十八番【咄嗟の言い訳】を炸裂させて窮地からの脱出を試みる。
「あ、そうそう。鉄平とちょっと剣の稽古をしていたんだ。な、そうだろ?」
「へ? あー、そうっす。もうちょっとで、先輩に首を斬り落とされそうになったっす」
二人のやり取りにまったく気の利かない後輩が、何事もなかったように答える。
「てめぇ! それは、お前がふざけた口調で喋るからだろ……」
「だって、問答無用の斬戟っすよ。斧を出すのが遅れたら絶対に死んでたっす」
ギャーギャーと男二人が騒ぎ始めるのを、画面の向こうからタニアが呆れ顔で見つめている。
――なーんだ、心配して損した。もうっ、緊急連絡かと思ったんだから!――
「悪い、悪い」
――じゃあね剣一。また明日……って。え? あれ? ひょ、ひょっとして……まさか?――
遊撃隊員同士の魔法通信による王子からの連絡が、急を要するものではなかったと悟ったタニアが、ようやく自分のあられもない格好に気が付く。
一際大きく見開かれた瞳。その視線がゆっくりと下へ降りていく。重力を物ともせず自己主張する胸元から、女王蜂も真っ青になるほどくびれた腰。
かろうじて石鹸の真っ白な泡で肝心な部分は隠されている状態だ。
スローモーションの逆再生のように、彼女の視線が上へと戻って来る。
入浴中だった彼女。その目の前に展開するデータ画面から、自分を見つめている王子の目線とぶつかる。
――ね、ねぇ。剣一? つかぬ事をお聞きするんだけど、今タニアの格好はどんな風に見えているのかな?――
「うっ。そ、それを答える前に……。そっちからは、俺の姿はどう映っているんだ?」
――Tシャツにジーンズ。さっきと同じだよ――
「せ、正解。つ、つまり。この通信は、現在進行形のライブ映像って事だろ?」
――ほむほむ。で? タニアはどう映っているのかな?――
「素っ裸……だな」
――キャアアアアアアアアア! 馬鹿、エッチ、変態!――
抱きしめるようにして、両腕を胸に巻きつける。だが、たっぷりと脂肪が乗ったグラマーな双丘は、それぐらいでは藤堂の視線を遮る役には立たない。
白い手が洗い場にあった桶をむんずと掴んで、バシャーンと水を撒き散らす。
その瞬間、王子が見とれていた画面は、水しぶきと共にブラックアウトした。
いかに魔法通信といえども、さすがにタニアの掛けた水が藤堂をびしょ濡れにする事はなかった。
【剣一! 明日、覚えていなさいよ】
だが、黒い画面のまま聞こえてきた彼女の低すぎる声は、王子の心を氷点下まで冷たくさせるには十分すぎた。
「マ、マスター。こ、この魔法通信は緊急事態とかで使う以外は、気をつけて……」
十人掛けの大机に敷かれたアメリア大陸のMAPの上で、フェアリーが注意事項を繰り返す。ペタンと網タイツの脚をM字にしながら座り、ワナワナと震えている。
「あははは。分かった。身をもって分かった。もう遅いけどな」
がっくしと首をうなだれた藤堂が諦めの境地に至る。思わず頭に浮かんだ言葉が、口の端を突いて出る。
―――― 君泡や生の裸は尽くるとも、世に盗み見の種は尽きまじ ――――
「先輩、それ大泥棒の石川五右衛門の時世の句……
―――― 石川や浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽きまじ ――――
のパクリっすよね?」
妙な所で頭が回る部下が、からかい半分で冷やかす。
「う、うるさい。クソッ、今度は遺書でも用意しておくか」
自嘲気味に吐き棄てる王子のところへ、晩御飯の仕度を整え終わったのか、老執事のチュートリアルが得意そうな顔で戻って来る。
「若様! お待たせ致しました。今夜は特製シチューですぞ。遊撃隊に新しくご加入下さった酒田様も、思う存分召し上がって……。おや? どうかなさいましたか?」
「いや実は今、そのちっちゃなバニーガールが、遊撃隊員同士の魔法通信を説明してくれていたっす。そうしたら、先輩とタニアさんがちょっと……」
「ほうほう、さようでございますか。――フェアリー?」
酒田の言葉でこの場の事情を察したのか、自愛に満ち溢れた老執事の眼差しがウサギ妖精にまっすぐ注がれる。
「ヒッ?」
いつもなら元気良く真っ直ぐピンと立っている筈のウサ耳が、へにゃんと萎れて垂れ下がっている。
「若様に魔法通信の手ほどきをする前に、ちゃんと注意事項を説明しましたか?」
ワーシントン王国でも一、二を争うほど優秀な執事は、ニッコリと笑みを浮かべながら妖精に優しく問い掛ける。
だが、眼窩に嵌めた片眼鏡の奥から身も凍るような波動が伝わってくる。
「し、しましたピョン。緊急事態とかで使う以外は、気をつけてって……」
「ほう? ちゃんと【先に】説明したんですね?」
「さ、さ、先にじゃなくて、後だったかもピョン」
「なるほど」
たった一言そう呟いたチュートリアルの背景が、地獄の暗黒面へと変貌していく。白手袋の指がつまむ髭が、鋼の剣を髣髴とさせるほど鋭利な刃と化す。
「じ、爺さん。まあ誰にでも間違いはあるだろ? 俺がちゃんと最後までフェアリーの説明を聞いてから、タニアと連絡を取れば良かったんだからさ。なっ?」
またしても人格崩壊してRPGのラスボスに変身しそうな老執事を、何とかなだめようとして藤堂も必死の対応を図る。
「ほら、単に手順前後しただけだろ。ここは俺に免じて……」
「ご安心下さい。私、執事を天職として六十数余年。これまで本気で誰かに対して腹を立てたり、怒りをぶつけたりした事がないのが自慢なのです」
(嘘をつくな! 嘘を。あんた、日本のヤクザがビビッて声も出ないぐらいの罵声を浴びせるくせに)
「フェアリー、良かったですね。貴女のマスターが心優しい王子様で」
「は、はい。フェアリーは世界で一番幸せな妖精だピョン」
チュートリアルがそう言うと、女の子座りしたままだったウサギ妖精は、机の上で直立不動の姿勢を取って最敬礼で答えた。
「若様のお気持ちを慮って、今回は大目にみましょう。その代わり、少しお手伝いをしてもらいましょうか」
「了解でありますピョン。フェアリーに出来ることなら、何でもしますピョン」
ホッと一息ついたフェアリーが肩の力を抜いて返事をする。
「そうですか。それは助かります。では、厨房まで一緒に来て下さい」
「はい……。って、どうして両手でフェアリーを鷲掴みにするピョン?」
「気にする必要はありません。ただ、今晩の料理がもう一品あればと思って」
「ヒッ!?」
何かを思い出したのか? ウサギ妖精が息を飲む。
「くくくっ。実は今、ベリハムの村の名物料理を研究中でして」
「う、うさぎの丸焼き!」
「この村は貧しいのです。遊撃隊の財政支援を行なってもらうためには、どうしても村おこしが必要不可欠なのです。分かりますね?」
両手でガッチリと妖精をホールドしたまま、極寒の笑みを湛えながら髭面を寄せて言い聞かせる。
イヤイヤするように首を振るフェアリーだが、白手袋の呪縛で逃げ出す事が出来ない。
「遊撃隊の未来のために、一肌脱いでもらいますよ」
「フェアリーの皮を剥ぐですか? うじゅるるる」
「若様の血と成り肉と成ってお仕えするのですよ」
「フェアリーは、名物料理の具材になるですか? ぐじゅるぐじゅる」
脂汗と涙が鼻水とごちゃ混ぜになって、可愛い妖精の顔が台無しだ。
「では、若様。料理をもう一品追加して参りますので、今しばらくお待ち下さい」
「マ、マスター! 助けてー。お慈悲をををを……ピョン」
チュートリアルの手の中で硬直しているフェアリーが、王子に視線を投げかけて涙ながらに訴える。
だが、藤堂は唇を噛み締めて彼女の願いに背を向けた。
(済まないフェアリー。俺の運命もお前とそんなに変わらないんだ。先に逝って待っていてくれ。明日の朝タニアと顔を合わせた瞬間、俺もすぐにそっちへ逝くから)
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