第8話『こいつら全部、二重人格?』

【前回までのあらすじ】

――ボススライムとの戦闘は先延ばしになったが、何とかタニアを遊撃隊に加えた藤堂。だが、口は災いの元。余計な一言で、死亡確定? リプレイする?――


【本文】

「か、身体が動かねえー!」

「地獄へ落ちろ!」


「お、お前! か、神に仕えるシスターなら、せめて『天誅』とか言えよ! よ」うぎゃぁぁぁ!」


 脳天に彼女の一撃を喰らった王子が、スローモーションでゆっくりと膝から崩れ落ちた。一直線状に凹んだ王子の頭頂部から、シュウシュウと蒸気が立ち上る。


「あ、今度はダブル・クリティカルヒットだピョン! タニアすっごーい」


「ふぅー。騎士も鳴かずば、撃たれまい」

「ソレを言うなら、騎士じゃなくて雉キジ。……って言うか俺、剣士だし」


――ゲシゲシ、ゲシゲシ――


「グハッ」


 死に損ないが懲りずにツッコミを入れる。すぐさま彼女の黒いハイヒールの踵が、足元に転がっている王子の背中に、容赦なくゲシゲシと突き刺さる。


 ほとんど屍と化した剣士の上を、ちっちゃなバニーガールが飛び回る。


「マスター、しっかりするピョン!」


(神様、前言撤回させて下さい。こいつはやっぱり“暴力女”です)


【ゲームオーバー】の文字が藤堂の脳裏をよぎる。

 サラリーマンの意識が、ほの暗い海の底へずんずんと沈んでいった。


 窓から差し込む朝日が、六畳ほどの狭い部屋のベッドに眠る藤堂の顔に影を落としている。耳を澄ますと小鳥がさえずる声が聞こえ、外には鬱蒼と生い茂る森が見える。


「ねえ、剣一。起きて! もうっ、この寝ボスケ。起きてってばー!」


 年齢は十六歳くらいだろうか? 一人の少女が、スヤスヤと惰眠を貪る藤堂を乱暴に揺り起こしている。


 頭は黒地に白枠線の入ったケープをスッポリと被り、髪の色は見えない。両手で抱えた小ぶりな聖書を振り上げて、ポカスカと何度も藤堂の頭を殴りつける。


 怒っている風にも見えるが、はにかむような表情は何だか嬉しそうにも見える。何発目かの攻撃がヒットし、重そうな瞼がようやく開く。


「……うっ。何だ? っつ、頭が痛ってー」


 どこかで見た光景。デジャビュ。既視感きしかん。初めてこの世界に意識を送り込まれた時と同じ場面が、王子の身体をアバターにした藤堂の目の前に広がっている。


「う、うーん。タニア……? げげっ!」


 鈍い痛みが残る頭を押さえてベッドから飛び起き、大慌てで部屋の中を見回す。


「このシチュエーション、まさか【ゲームオーバー】で、最初からやり直しか?」

「へにゃ? もう! 剣一ったら、何を言ってるの?」


 頭には黒いケープ。胸元がハートマーク型にカットされた、大胆なデザインの修道服。セクシーな格好をした幼馴染のシスターが、腰に手を当てて口を尖らせる。


「何って、お前?」

「おや、ようやくお目覚めですか、若様?」


「どわっ!?」


 王子を覗き込むタニアとの間に、割り込むようにして老執事が現れる。音もなく横滑りして、カットインしてきたチュートリアルの白い髭面。


「あ、あ、やべぇ……」


 思わず仰け反った拍子に、ベッドの上からドテッと転げ落ちる。


「遊撃隊を結成なされ、最初のバトルも何とかクリアなさったようですな。おめでとうございます」


 床の上で無様に這いつくばる王子に、白髪の頭を慇懃無礼な態度でほぼ直角に下げる。


「ですが、戦闘の途中で失神なされたとは、何とも情けない。後見人たるこのチュートリアル、コレでは陛下に会わせる顔がございませんぞ!」


「なっ? お、俺は、バトルでやられたんじゃなくて、こいつに……」

「キャアアア! ま、またどこかで頭を打って、意識が混濁しているのね!」


 老執事をドカンと押しのけて、シスターが前に飛び出してくる。床に寝転がる王子の首元を締め上げながら、脅しつけるようにドスの効いた声で叫ぶ。


「タニアが回復したおかげで、何とかバトルを切り抜けたんだよね? ね? ね?」


 か細い両腕が、渾身の力で王子の胸ぐらを掴み上げる。

「ね?」と言うたびに、首を絞める、揺さ振る、振り回す。


(し、死ぬ。こ、このままだと、またリプレイになっちまう。し、仕方がない……)


「わ、分かった。お前の協力で乗り切れた。な、情けないが、その後で気絶したんだ」


「そ、そうよね。うふふ、あー良かった。剣一が元に戻って」


(俺は嘘が大嫌いだ。だから今も嘘はついてねえ……はずだ)


 自分の信念を折り曲げてでも生き延びるサラリーマン根性の藤堂から、ようやくタニアが両手を離しポイッと王子の身体を放り出す。


「げっ」


 ゴミのように捨てられた哀れな剣士は、彼女に喰らった痛恨の一撃の傷跡を確認する。頭が凹んだかと思うほど強力な一打は、跡形もなく消えていた。


 どうやら戦闘で受けた怪我は、キャラクターがベッドで一日休養すると、全快するようだ。いわゆる巷のRPGゲームでも、常道といえば、常道のお約束仕様だ。


 まあ今回は、タニアに撲殺されてゲームオーバーになったようだが……。HPやMPが全回復した状態で、前回の続きからスタートするのは同じなのだろう。


「さようでございますか」


 皺深い顔に薄っすらとした笑みを浮かべる。二人の痴話喧嘩を察していながら、人生の大先輩はそれ以上口にはしない。ただ満足そうに髭を指でつまんでいるだけだ。


「ふぅ。……ったく、酷い目に合った」


 チュートリアル執事の言葉を聞きながら、王子が自室の床からのっそりと立ち上がる。その格好はタニアに撲殺された時と同じく、Tシャツとデニムのジーンズのままだ。


「ところで、若様。遊撃隊を立ち上げられたばかりで恐縮なのですが、次の隊員採用はいかがなさいますか?」


「次?」


「はい。遊撃隊と申しましても隊員は、実質的に若様とタニアのお二人のみ。これでは、我々の実力を見せ付けるどころか、王宮の者共の失笑を買うだけかと……」


「そうだな。隊員がたった二人しかいなくて、しかも実績はスライムを数匹倒した程度。これじゃ確かに、例の王弟殿下を見返すどころの話じゃないだろうな」


「はい。この世は“数の論理”が物を言いますゆえ」

「まったくだ。どんな社会でも、綺麗事だけでは成り立っていねえからな」


 この先ゲームを進めていく上で、他の王子や王弟殿下、そしてこの国の有力貴族達を相手に、藤堂は頭角を現していかねばならない事は目に見えていた。


 彼の脳裏に過去の苦い記憶が蘇る。サラリーマンになったばかりの頃、剣道部の部長の口利きで藤堂が就職した会社は、派閥闘争が熾烈を極めていた。


 社長派と専務派に社員全員が二つに割れて、社内でもお互いに口を聞かないほどの荒れようだった。


 入社して右も左も分からない藤堂の面倒を見てくれたのは、一人の営業マンだ。彼も藤堂と同じ母校の剣道部出身で、恩師である部長のツテでこの会社に入った一人だった。


 派閥闘争が激化する中、その先輩営業マンは専務派に属していた。


 だが、藤堂が初めて任された取引先の相手が、たまたま社長と懇意にしていた事から、いつの間にか彼は周囲から、もう一方の社長派に属していると見なされるようになる。


 数年が過ぎた頃、ワンマンで我の強い社長の独裁的な会社経営に、藤堂は疑問を感じは始めていた。温厚で人情味溢れる専務の方が、リーダーに相応しい気がしたのだ。


 何よりもその専務の人柄が、恩師である剣道部の部長と良く似ていたからだ。藤堂は今の息苦しい社長派から、いつか先輩と同じ専務派に鞍替えする事を考えていた。


 ある晩、その先輩営業マンとこっそり二人で飲みに行った夜。酔いに任せて自分の考えを話した時、彼に言われた一言が、今老執事が口にした台詞と同じだったのだ。


――やめておけ! ……この世は“数の論理”が物を言うんだよ――


 彼の言葉どおり社長派は裏工作を繰り返して、どちらにも属さない中間派を取り込み始める。なおかつ専務派の社員の切り崩しも辞さなかった。


 性格的にそんな活動を是としない専務は、徐々に多数派を形成していく社長派に追い詰められていった。


 資本主義社会は弱肉強食の世界だ。


 しかもこの時期、間の悪いことに他社との販売競争において、温厚な専務の人柄が逆に仇となる事件が起こる。


 叩き潰すべきライバル企業に、余分な情けをかけてしまったのだ。


 その結果、専務の判断は会社に倒産の危機を招くという最悪のシナリオに突入することになった。何とか社長派の尽力でその難局は乗り切ったものの……。


 専務派と呼ばれた社員達は、自主的に退社するか会社の隅で飼い殺しの状態となってしまった。藤堂の先輩も、辞表を提出して会社を去っていった。


(先輩、今頃どうしているんだろうか?)


 だが、過去の感傷に浸っている場合ではない。今やるべき事は、早くこのゲームをクリアすることだ。


 幸いこの土日は、仕事の予定はなかった。かといって、いつまでもこんな世界で遊んでいるわけにもいかない。さっさとゲームを進行させてしまうに越したことはない


「若様、それで次の隊員はどうなさいます?」


 急に黙り込んだ王子の顔を覗き込むように、チュートリアルが問いかける。おまけにいつものスキンシップで、彼の両手を握り締めている。


「あっ! そうだ。そう言えば、俺の後輩はどこへ行きやがった!」


 鬱陶しい執事の手を振りほどいて王子が叫ぶと、チュートリアルとタニアが頭の上にクエスチョンマークを並べて、一斉に声を上げる。


「は?」

「剣一、後輩っているの?」


「あ? まあな。後輩って言うか、部下って言うか。パシリと言うか……。なあ、爺さん。俺がタニアを助けに行く前、ベリハムの村長に尋ねた事を覚えているか?」


「この村に、酒田鉄平という人物がいないか? でございましたな」


「そうそう。さすが、爺さん凄い記憶力だな」

「執事のたしなみでございますゆえ」


「そいつは、俺よりもデカイ大男でさ。たぶん職業は、戦士か何かだと思うんだが?」

「巨漢の戦士でございますか……」


 老人が腕を組み右手を白い髭に覆われた顎に添える。目を閉じ、首を捻って考える。


「さて? そのような人物は、見当がつきませんな」

「うーん、タニアも知らないよ。この村の住人じゃない事は確かね」


「そうか、参ったな」

「若様。村長にもう一度、お会いになってみてはいかがでしょう?」


「そうだな。昨日はあの村長、スライムの襲撃で完全にパニクって、全くそれ所じゃなかったしな」


「ねぇ、ねぇ。その人が、新しいメンバー候補なの?」


「ああ。能天気な所はあるけど、頼りになる奴だよ」

「へぇー。じゃあ、村長さんの家へ行ってみようよ。早く、早くー」


 キラキラと大きなグレイの瞳を輝かせ、急かすように王子の腕を取る。藤堂の部下が気になるのか? それとも、この場を早く離れたい理由でもあるのか……?


 胸元が開いた彼女のけしからん修道服。まるで合成皮革のようにヌメヌメと光る生地が、制服を大きく持ち上げる彼女のけしからん身体の線にピッタリと張り付いている。


「わ、分かったから。そんなに引っ張るなよ」


 深い谷間を魅せる絶景から、無理やり視線を外して立ち上がる。すっと横に並んで腕を取られた王子の肘を、柔らかく弾力性のある何かが押し返してくる。


「おっ、おい!」


 この世界で初めて目を覚ました時、調子に乗って彼女の胸にタッチして泣かせてしまった記憶が蘇る。ついでに、その時の素晴らしい手の感触も思い出してきた。


(あっ、ヤバイ)


「お待ち下さい。若様!」


 若干前屈みになった王子を引き止める老執事の声に、何故かシスターがピクッと反応する。早く彼を連れ出そうとするタニアも、その動きをピタリと止めた。


「新しい隊員をお探しに行かれるのであれば、ついでにお二人の装備を整えられてはいかがでしょうか?」


 その声を聞いてタニアが、なぜかホッと一息つく。


「装備?」


 そんな彼女の表情の変化に全く気が付かず、王子は老執事の言葉に首を捻る。何の事かピンと来ない彼に、彼女がここぞとばかりに口添えする。


「うんうん。それがいいよ! さっすが、爺やさん。ねぇ、剣一。村の雑貨屋で、私達の装備を買っておこうよ。次にいつバトルが始まるか分からないでしょ?」


「ああ! なるほど。そう言えば俺、装備は確かナイフだけだよな」


 ゲームの主人公である王子が最初から持っていたのは、ナイフと薬草それに【運命の鍵】という使い道も分からないアイテムだけだった。


「ワーシントン王国の北の外れにある、この辺鄙なベリハムの村には、武器屋や防具屋などはございません。全ての所持品を取り扱う雑貨屋が一軒あるのみでして……」


「確か村長がスライムを隔離するのに使う呪札が、その雑貨屋にあるとかないとか呟いていたような?」


「さようで。武器、防具、道具から日常品一式に至るまで。村の雑貨屋は、まさに田舎の“コンビニエンスストア”ですな」


(そんな単語がスッとキャラの口から出てくるところを見ると、やっぱりこの世界が日本のゲームなんだなって気がするな……)


 そんな事を胸の奥で考えながら、藤堂は当然のように浮かんだ疑問を口にする。


「けど、爺さん。金はどうするんだ? 遊撃隊って、軍資金あるのか?」

「おお、コレは失礼いたしました。フェアリー! 出ておいで」


 白手袋の両掌をパンパンと打ち鳴らすと、チュートリアルの目の高さの空間に歪が生じ、十センチ程度の穴が開く。どうやら自分が召喚した妖精を呼び出すようだ。


 だが、いくら待ってもバニーガール姿のウサギ妖精は、その穴から顔を出さない。それどころか規則正しい小さな寝息が、空間の裂け目から聞こえてくる。


「すぴー、ZZZ。すやすや、ZZZ……」


「おや? 『昼夜を問わず若様のお手伝いをします』などと涙ながらに訴えるから、数多の妖精達の中から貴女を選んで差し上げたのに。しょうがない娘ですな」


 苦笑しながら老執事が中を覗き込むと、大樹に開いた穴のような狭い部屋に、小さなバニーガールが丸くなって寝転がっている。


「あー? どれどれ」

「あーん、タニアにも見せてー」


 チュートリアルを押しのけて、代わる代わる二人が穴の中を見る。


「あいつ結構、寝相が悪いんだな」

「そうね。ちょっとヨダレ垂れていたりして。可愛いー」


「もうよろしいでしょう、お二人とも? 妖精を起こして、少し意見しなくてはなりません。フェアリーがいないと、軍資金のデータ移送が出来ませんゆえ」


「あの娘もこっちに出てきたばかりで疲れたんだろ?」

「あんまり厳しく言ったら可愛そうだよ。軽く、軽くね? 爺やさん」


「ご安心下さい。私、執事を天職として六十数余年。これまで本気で誰かに対して腹を立てたり、怒りをぶつけたりした事がないのが自慢なのです」


 フッと口の端を上品に上げるチュートリアル。暗褐色の珍しい燕尾服と六個ボタンを前で止めた胴着は、国内でも一二を争う執事に与えられた称号だ。


 ワーシントン国王陛下からの信頼も厚い老人が、温和な表情を一ミリたりとも崩さずに妖精が寝ている穴を再び覗き込む。


「フェアリー。もう朝ですぞ」

「すぴー、ZZZ」


――ピキッ!――


「王子もお待ちかねだと言うのに。こんな事では、私の代役を果たせないでしょう?」

「すやすや、ZZZ」


――ピキッ! ピキッ!――


「早く目を覚ますのです。若様のお手伝いをするのではありませんか?」

「グゴー、ZZZ」


――ピキッ! ピキッ! ピキッ!――


「ねえねえ、剣一? さっきから聞こえる、ピキッって言うこの妙な効果音なんだけど」


「い、言うな! 今まで俺は……。これほどの“恐怖”を感じた事は、たったの一度しかねえ。それは、親父が大事に育てていた盆栽の植木鉢を木っ端微塵に砕いた時だけだ」


 顔面から嫌な脂汗を滴らせる王子が、あっけらかんと尋ねるシスターを制する。


 ちなみに、ここで彼が言った“親父”とは、無論ワーシントンの国王陛下の事ではなく、リアル世界の日本で現在失踪中、古武術の師匠でもある藤堂の実の父親の方だ。


「陛下って、そんな趣味があったのね」


 国王に盆栽いじりの趣味があったかどうか? タニアが首をかしげる。

 だが、そんな事はお構い無しに王子の膝がガクガクと揺れ始める。


 彼が瞬き一つせず、チュートリアルを凝視していると、シスターが耳にした嫌な音が、再び部屋に響き渡る。


――ピキッ! ピキッ! ピキッ! ピキッ!――


 それは二人が聞き違える筈もないほど大きく、老執事のこめかみ辺りから聞こえていた。


「ふふふ、しょうがありませんね。最近の若い妖精は……。ほいっと!」


 そう言いながら、老執事が自嘲めいた表情を浮かべて肩をすくめる。サッと白手袋の右手を高々と振り上げて、ためらう素振りも見せずに穴の中へ片手を突っ込んだ。


 フェアリーをむんずと掴んで引っ張り出し、地獄の悪魔も逃げ出すような呪いの声でウサギ妖精を罵倒する。


「テメェ! くぉら! いつまで寝てケツカル! 舐めたマネしてやがるとそのぴょんぴょん耳から指突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせたろか、われ!」


「ヒッ!(三人分)」


 小さな悲鳴は、叩き起こされたウサギ妖精だけのものではない。シスターはおろか、王子までもが顔面蒼白になったほど、老人の変貌振りは凄まじい!


「このガキャ! ふざけやがって。若様の信頼を損ねたら、どうするつもりか言ってみやがれ。オラオラ! 黙ってちゃ、分かんねえだろうが! 糞ガキがー」


 うたた寝中の天国から突然、地獄に突き落とされたフェアリー。顔の半分以上が眼じゃないかと思えるほど大きく見開き、アワアワと声にならない声を上げる。


「連帯責任だな! 今からウサギ妖精の世界へ乗り込むからな。お前の仲間全員、チュートリアル様の特製究極魔法『火炎滅殺地獄車』をお見舞いしてやろうか、え?」


 眼窩に嵌められた片眼鏡の奥に地獄が見えた。容赦なくフェアリーを振り回した後、どアップの髭面を彼女の顔の前に近づける。


 哀れなウサギ妖精が、プルプルと首を振る。ピンと立っていた両耳は、二本ともペタンと頭の上で垂れている。


「ウサギの丸焼きをこの村の“名物”にするっていうのも悪くないかもな。くっくっく」


 RPGのラスボスでも吐かないようなセリフが、次々と口から飛び出してくる。しかも恐ろしいのは、彼が柔和な表情をまったく損なわずに恫喝している事だ。


「フェ、フェアリー。た、た、只今起きましたでありますピョン!」


 白手袋にガッチリホールドされたフェアリーが、ピンと背筋を伸ばして敬礼する。部族の悲惨な未来を回避するのに必死だ。透明な四枚の羽と両耳もシャンと伸びる。


 まるで精巧に出来た美少女フィギュアそのものだ。


「おや、起きましたか? はい、お早うございます。では早速、王宮の使者が置いていった軍資金のデータを送致いたします。フェアリー、準備はよろしいですか?」


 憑き物が一瞬で落ちたように、チュートリアルの言葉遣いが、いつもの口調に戻る。

 あんぐりと口が開きっぱなし王子とタニアは、老執事の本性を垣間見た気がした。


「“準備おさおさ怠りなし”でありますピョン!」

「結構」


 そう言いながら、白手袋を嵌めた手で空中に見慣れぬ文字を描き出す。金色の鮮やかな軌跡が小さな星の粒となって消え去った。最後に指をパチンと鳴らす。


「せ、千バーツの入金を確認したでありますピョン」


 引き吊った笑顔でウサギ妖精がウィンクすると、藤堂の視界に所持品画面がポンッとポップアップしてくる。


【所持品】

 ┏━━━━━━━━━

 ❙1000 B

 ❙ 薬草

 ❙ 運命の鍵

 ┗━━━━━━━━━


「は? “B”って“バーツ”の頭文字なのか? 確かタイ王国の通貨単位だったよな。えらくマイナーだけど、アメリア大陸ならやっぱり“ドル”だろ?」


 王子の中身は、三流だがそこは商事会社の営業マンである藤堂だ。以前、東南アジアからの輸入品を取り扱った事もあるので、通貨単位にはそこそこ詳しい。


「は? “ドル”などという通貨は、この大陸にある四十と九つの国々でも聞いたことがございませんが?」


「あー? この世界の統一通貨が“バーツ”? “ドル”とか“円”じゃなくて?」

「さようで」


「何ていい加減な設定なんだ。アメリア大陸限定の基軸通貨って言うのなら、せめて欧州連合(EU)の世界通貨“ユーロ”にして欲しいもんだ」


「うーん。最近の若様は時々、爺の知らない言葉を口に出されますな。これはやはり、タニアに喰らったクリティカルヒットの後遺症でしょうか?」


「ちょーっと! じ、爺やさん。ご、誤解しないで頂戴ね。わ、私は剣一を優しく、優しく起こしてあげただけ……」


「そう言えばタニアって、王子の脳天にダブル・クリティカルヒット(通称ダブクリ)もお見舞いしていたピョンよね!」


 うんうんと頷きながら、昨日の惨劇を思い浮かべて腕を組む。


「キャアー!!! フェアリーってば、なんて事言うのよ! ちょっとこっちへ来て」

「あん!」


 焦ったタニアが爺やの手の中から、おしゃべりなウサギ妖精を奪還する。ヒラヒラと透明な羽根を震わせながら、小さい人形のようなバニーガールの顔に不安が奔る。


 執事の次はシスターに鷲掴みにされたフェアリーが、部屋の外へと連れ出されて行く。


 藤堂は可哀相にと思ったが、空気を読まない彼女も自業自得だった。

 他人事とは思えない一言多いウサギ妖精を、同病相憐れむ眼差しで見送るしかない。


「えーっと。どこまで話したっけ? あ、そうそう。所持金ゼロだったのが、千バーツに増えているな」


 藤堂の強引に話を引き戻す展開を気にする事もなく、老執事が答える。


「はい。王宮が用意した雀の涙ほどの軍資金とこの日のために、私が爪に火を灯して蓄えたものでございます」


(まさかこの世界の為替レートも、一バーツ=三円程度なのか? まあ、たとえそれが分かったとしても、物価指数の方もさっぱりだから全く意味はないけどな)


 内心、藤堂は千バーツでどれだけの買い物ができるのか、見当もつかなかった。


――ガン! ガン! ガン!――


 その時、タニアとフェアリーが出て行った部屋の外から、凄まじい音が三回響いた。


 それがどんな音かと言うと、まるで誰かに無理矢理言う事を聞かせるために、廊下の壁をぶち抜いて見せ、恐喝まがいの恫喝を与える時に生じる音と言えば分かりやすい。


 王子が二人の消えたドアから無理矢理視線を外す。


「な、何か聞こえたか?」

「さて? 最近トンと耳が遠くなりまして……」


 苦笑いを浮かべながら、とりあえず何も聞こえなかった風を装う。

 話を元に戻し、生活費をやりくりして軍資金を捻出してくれた老執事に礼を言う。


「サンキュウ。まずは村長の家に行くか。酒田の居場所を突き止めないとな。その後で雑貨屋に寄って装備を充実。そして最後にボススライムとのリターンマッチだな」


 その声を耳にしながら、タニアとフェアリーが部屋に戻ってくる。


「うんうん。その順番でいいんじゃない? 早く行こうよ、剣一」

「そ、そうだピョン。善は急げ、マスター。レッツゴーだピョン」


 なぜか一秒でも早くこの家から離れたいと願うシスター。そして、部屋の外の廊下で何があったのか? 引きつった顔で、タニアに同意するウサギ妖精。


 セクシーなシスターと小さなバニーガールが、二人して王子の腕と服を引っ張る。


「な、何だ? 分かったよ。ちゃんと行くから、よせってば」

「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」


 部屋を後にする三人を見送るように、老執事が深々とお辞儀をした。


――■――□――■――


「もうっ! 爺やさんてば、あの激変する性格何とかならないのかなー?」

「フェアリーなんて、さっき心臓が二、三回止まっちゃったピョン!」


 プンプンと頬を膨らませるタニア。

 その隣では小さな手をグーにしながら、両腕を下へ伸ばして抗議するフェアリー。


「まったくだ。さすがに俺も小便をちびりかけたぜ。何だ、あの爺さん。俺の代わりに、このアメリア大陸を一人で統一出来るんじゃねえか?」


「うんうん。あながち無理ではないかもね?」

「その後、余勢をかって妖精界も攻め滅ぼすつもりだピョン!」


「いい、剣一? 爺やさんは、私が勤める教会の神父様と仲がいいの。タニアがシスターにあるまじき振る舞いをしたなんて、口が裂けても言っちゃ駄目だよ」


「ははーん、それでか? さっき、俺を撲殺した事を喋ろうとしたら……」


「何ですって……?」


 ぼそっと一言『装着』と呟いたタニアの手に、悪魔の杖(藤堂にはそう見える)が出現したのを目に留めた世渡り上手なサラリーマンが、速攻で前言を取り消す。


「何でもありません!」


「うふふ、そう?」


 天使の笑顔を浮かべるシスターが、手にした武器を何事もなかったようにそっと背中へ隠した。


「神父様からお父様に“間違った情報”が流れちゃうと、タニアは王城へ連れ戻されちゃうんだからね! それでもいいの?」


「ああ、気をつけるよ」


(“間違った情報”……か。この娘の言い分を聞いていると、どうやら彼女の父親であるジョナサン伯爵が、深謀遠慮の策を弄した訳でもなさそうだな)


【首都防衛】

『第一王子アンドレ:ダイアモンド騎士団』


【南部戦線】

『第二王子ミハエル:オパール騎士団』+『王弟殿下ガスバル:ガーネット騎士団』


【東部戦線】

『第三王子マックス:エメラルド騎士団』+『ジョナサン伯爵:サファイア騎士団』


 昨日老執事から入手した情報を元に描いた、病弱な国王の後釜を狙う勢力図。藤堂はこれから先、自分の行動を左右するであろう重要な情報をもう一度頭に描いた。


 南部・東部戦線を支える二つの勢力を天秤にかける切れ者の第一王子アンドレ。

 そして、今回妾腹の第四王子たる剣一を担ぎ出そうとする策士の王弟殿下ガスバル。


 さらに、この緊迫した情勢を何年も前から予想していたかのようなジョナサン伯爵。


 藤堂は彼が何年も前から、第四王子たる自分の傍へ愛娘を張り付かせておいたのではないかと疑っていたのだ。


(どうやら爺さんが言ったとおりジョナサン伯爵って人は、実直な性格なのかもしれないな。ただ、ワガママに育ってしまったタニアに、意外と手を焼いただけなのかも?)


 一人の父親として敵味方が跳梁跋扈する王宮よりも、どこからも攻められる心配のない安全なこのベリハムの村で暮らす方が、娘は幸せになれると考えたのかもしれない。


「マスターってば! ぼうっとタニアの顔に見とれていないで、早く行くピョン!」


「なっ? ば、馬鹿! 変な事言うな」

「え? そうなの? もうやだ、剣一ったら……」


「もうぅぅぅ! 早くしないと、チュートリアル様が妖精界へ乗り込んで行っちゃうピョン! 私の仲間がみんな丸焼きにされて、特産品にされちゃうピョン!」


「へい、へい」

「村長さんのお家は、公民館を挟んだその向こうだよ」


 種族の危機を訴えるフェアリーに促され、遊撃隊の二人が王子の自宅を後にする。

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