第2話『ひと暴れして、一路平安?』

【前回までのあらすじ】

――東京副都心の三流商事会社に勤めるサラリーマンの藤堂剣一と酒田鉄平。ボッタクリバーに引っかかり、ヤクザのナイフが酒田の首に迫る!――


【本文】

「動くな! 動くと、このデカブツの首をバッサリとやっちまうぞ!」

「うん? 何かのイベントっすか? ハッスルタイムじゃないような……」


「兄ちゃん、あんた武道の心得でもあるようだね? でもね、そんなの実戦じゃ役に立たないよ。ヤクザは手段を選ばないんだ。覚えておきなよ、おほほほ」


 勝ち誇ったように、ババアが口元に手を当てて笑った。それを聞いた藤堂が面倒くさそうな口調で叫んだ。


「やめろ! 酒田に手を出すな」

「いーや、やめないね。あたしを馬鹿にした報いだよ。死ぬまで後悔させてやる」


 カウンターの向こうで熟女ママが横柄な口調で吐き捨てる。豊かな胸元で腕を組んだまま、煙草の煙をフッとくゆらせる。


「は? 勘違いするな。チンピラ達のためを思って、俺は言ってやっているんだぜ」

「な、何だって?」


 片手に煙草を持ったまま、目と口を大きく開いてママが叫ぶ。


 今まで彼女が見てきた修羅場では、こういう場合相手は怯えて口も聞けないか、ひたすら謝罪の言葉を口にする奴しか居なかった。


 サラリーマン相手の脅し文句など日常茶飯事の熟女。藤堂の口から出た言葉は彼女にとって、テレビや映画でしか聞かないような非日常の台詞その物だった。


「先輩、もうイイっすか?」

「ああ。だが、くれぐれもやり過ぎるなよ」


 藤堂の言葉が終わらぬ内に、太い二の腕がグイグイっと二度捻られる。酒田を拘束していたヤクザが、たったそれだけで絨毯へ叩き付けられた。


「ぐはっ!」

「グエッ!」


 あっけなく振りほどかれたチンピラ二人が、店の床でうめき声を上げる。信じられない光景に動転したナイフ男が、狂ったように白刃を振りかざした。


「ち、畜生! し、死ねー」


 だが、慌てず騒がず巨体の割に器用な酒田は、その凶器をやり過ごす。前回り捌きで瞬時にヤクザの懐に飛び込んだ。


 ナイフを持つ手を腕ごと掴んで、ゴツイ肩へ一気に担ぎ上げる。背負われたチンピラの両足が、テコの原理であっという間に店の床から離れた。


「ふんぬっ!」


 気合一閃! 次の瞬間、ヤクザの細い身体が宙を舞う。柔道の大技である一本背負いが見事に決まり、床に這い蹲る三人の上に容赦なく投げ飛ばされた。


「ギャッ!」


 四人が揃って悲鳴を上げる。店の絨毯に胃液を吐き出す者や、苦痛に顔を歪ませたまま声も出せない男もいる。増援部隊がこれで全員戦闘不能になった。


「どうする、おっさん? ビビッて声も出ないか? 何なら、こいつらみたいに頼りない助っ人どもが、もう一度来るまで待ってやろうか。あんっ?」


 藤堂が、片手でとっつあん坊やの胸ぐらを掴んで吊り上げる。ただのサラリーマンが発する異常な迫力に、客の振りを装っていたヤクザの顔面が蒼白になる。


 目の前の優男が放った辛辣な今のセリフ。それがさっき自分で口にした脅し文句を、藤堂が少しアレンジしただけのものだと気が付きもしない。


「お、お待ち! う、動くんじゃないよ、二人とも!」


 その時、悲鳴にも似たママの叫びがカウンターの向こうから響いた。


 プルプルと震える彼女の両手が、小型拳銃を握り締めていた。小刻みに揺れる銃口が、刺青ヤクザの首を吊るし上げている藤堂に向けられる。


「ババア! それは洒落にならないぞ?」


「あ、あたしゃ、こうやって今まで生きてきたんだ! お、お前みたいな素人相手に舐められたら……。こ、この稼業はお仕舞いなんだよ」


「稼業だ? 舐めているのはそっちだろ。額に汗して働きもしないゴミ虫どもが! 的外れな日本語で、手前らの悪事を美化するんじゃねえ!」


 煌々と灯る店内のライトに照らされ、熟女ママの額に玉の汗が流れる。ベットリと塗り固められた厚化粧が剥がれ落ちていく。


 熟女の両手に握られた凶器を見て、藤堂は熱い怒りを冷たい闘気に変えていく。片手で吊るし上げていた中年ヤクザを面倒くさそうにブンッと投げ捨てた。


「撃ってみるか?」


 ママを見据える藤堂の手には、一本のマドラー。銀メッキされた長さ二十センチの棒だ。焼酎用の氷を入れたアイスペールから、いったい何時抜き取ったのか?


「……ハァ。……ハァ」


 相変わらず流れる穏やかなBGMに混じり、ママの荒い息遣いが店内に響く。


「……ハァ。……ハァ」


 脅えた視線をあちこちと泳がせるが、頼みの綱の男達は絨毯の床に這いつくばって倒れたままだ。


「どうした? 撃たないのか」


 剣道で言うところの右青眼でマドラーを構える藤堂の切っ先が、揺れ動く銃口をピッタリと追尾する。


「何ならさっきあんたが言ったように、俺達をこの店に案内した黒服をとっ捕まえて、正規料金がいくらなのか説明させようか。ええ? どうする!」


 ただのマドラーが、まるで鋭い日本刀と化している。銀色に光る短い棒が、白刃の輝きを放ちながら真剣となって女主人に迫る。


 カウンター越しに銃を構える海千山千の女傑も、ジリジリと気圧される。知らず知らず、アルコールの瓶が並べられたバーカウンターの棚に背中を押し付ける。


 藤堂の鬼気迫るプレッシャーに、脅える銃口が徐々に下がっていく。震える膝からついに力が抜けて、ズルズルと棚にもたれて腰から崩れ落ちた。


「……か、帰っておくれ! いいから。とっとと、帰っておくれ!」

「ああ、ごちそうさん。行くぞ、鉄平」


「はい。あっ、そこの四人。早く病院に連れて行った方がいいっすよ。たぶん肋骨とか、肩の骨とか逝っちゃってるから」


――ガチャッ――


 その時、再び店のドアが開いた。藤堂と酒田が思わず身構える。そこには、カウンターレディの二人と新しい客達が外界の喧騒を伴って立っていた。


「ただいまー。ママ! お客様ご案内でーす。って……あれ?」

「どうぞー。ホラ、貸切状態でしょ。すっごいサービスしちゃうから……え?」


 営業スマイル全開のセールストークを続ける女達が、店内のありさまを見て目をパチクリさせた。両手を口に当てて、信じられないように呟く。


「うっそー」

「何なの? どうしたの?」


「あ、すいませんね。今夜は俺達が最後の客で、今日はもう閉店だってさ」

「そうそう。この辺は物騒だから、あんた達も早く帰った方が身のタメっすよ」


 ドアの内側には、マグロのように横たわるヤクザ共の姿。藤堂と酒田の言葉を聞いて、女二人に引っ張って来られたカモ達が、脱兎のごとく走り去る。


――■――□――■――


 ボッタクリの店から意気揚々と引き上げた二人だったが、さすがに酔いが醒めるに従って現実に戻る。


 ヤクザ達もそうだが、その前に大事な取引相手にあれほど無礼を働いたのだ。気が咎めない訳がなかった。


 初めの内は酔いに任せて大通りを肩で風を切っていた藤堂達も、今ではコソコソと身を潜めながら歌舞伎町の裏通りを逃げるように歩いて行く。


「先輩、今日はすいませんでした」

「馬鹿野郎! お前が社長にビールを掛けた時は、寿命が縮んだぞ。まったく」


「どうしてあんな事をやっちゃったのか、よく分からないっす」

「ちっ、どうしようもない酒乱だな。太っ腹の社長に明日電話しておけよ!」


「了解。でも先輩。僕もうあんな店は、こりごりっすよ」

「まさか、ババアが拳銃を出すなんて思わなかったからな」


「やっぱり客引きの口車に乗って付いて行くと、ろくな目に合わないっすね」

「確かに。俺達を案内したあの黒服、今度見つけたら只じゃ済ませない……あっ」


 言葉を切った藤堂が立ち止まる。前方には夜の闇に包まれる歌舞伎町の繁華街。目を細めて大通りの向こう側を見据えている。


「どうしたんすか? 先輩」

「噂をすれば何とかってやつだ。見ろ、あそこ!」


 通りを二つ挟んだ交差点。シアターストリートと表示された看板の向こうに、相変わらず酔っ払いのカモ達に声を掛ける事に忙しい若者の姿が見える。


「社長! どうです? 飲み放題。良い娘を付けますから。四十五分、五千円ポッキリ。大丈夫、すぐそこですから。さぁ、オイラがご案内しますよ」


 通りを吹き抜ける風に乗って、藤堂たちに使ったのと全く同じキャッチのセリフが聞こえてくる。


「見つけたぞ、あん畜生。俺達を嵌めたガキだ!」

「あ、本当だ。また『オイラ』とか言ってるっすね」


 二人の気配を機敏に感じ取ったのか、それとも只の偶然か。当の本人が、ふとこちらを見る。殺気立つ男達の視線を受けるや否や、一目散に逃げ出した。


「あ、待ちやがれ! 鉄平、お前は右から回り込め。挟み撃ちにするぞ」

「了解っす」


 藤堂が道路に飛び出すと、プワーンっと車のクラクションが辺りに響く。お構いなしに踊るようなステップで車群をかき分け、一気に通りの反対側へ躍り出た。


「うはっ! さっすが、先輩。剣道インターハイ(全国高等学校総合体育大会)で三年連続日本一の足捌きは、全然錆び付いていないっす」


 大柄な体躯をドタドタと走らせながら、逃げた黒服を追い込むようなルートへ走り出す。


(さっきもマドラーで拳銃に立ち向かうなんて。いくら古武術を教えている親父さんから、免許皆伝を貰ったと言っても。……時々、僕もついて行けないっす)


 こんな事を考える酒田も、実は上司に負けてはいない。ボッタクリの店で見せた技でも分かるとおり、藤堂が剣術の達人なら、こちらは柔道の天才だった。


 学生の頃は柔道界で無敗を誇り、上司と同様にインターハイで二度の優勝。ちなみに優勝できなかった年は、試合前日に焼肉を食べ過ぎて欠場したからだ。


 ドタドタと走る巨漢が、ラーメン屋の前をいったん通り過ぎてから戻って来る。芳ばしい香りが漂う赤提灯の前で、逡巡してから名残惜しそうに再び走り出す。


 その頃剣術の達人は、帰宅を急ぐ酔漢達の間を疾風のようにすり抜けていた。藤堂が通り過ぎるだけで酔っ払いは尻餅をつき、キャバ嬢達のスカートが翻る。


「あそこか、待ちやがれ!」


 ちょうど通りの角を曲がって行く性悪な若い客引きの後ろ姿。それを眼にした藤堂がダッシュする。彼を追って路地裏からさらに一本奥の小路に飛び込んだ。


 だが、何故かそこに黒服はいない。キョロキョロと辺りを見回すが、自分の事を『オイラ』と呼ぶ奇妙な若者の姿は、煙のように消え失せていた。


「畜生、おかしいな。あのガキ、どこへ行きやがった。確かにこっちへ逃げて来た筈だが……。この俺が見失うなんて、あいつそんなに逃げ足が早いのか?」


 時刻は午前三時を過ぎたばかり。繁華街から奥へ入り込んだ路地は、街灯の明かりも薄暗い。だが、藤堂の目を盗んで黒服の少年が隠れるスペースはない。


「あ、先輩。ハァ、ハァ、ハァ……」


 そこへ息を切らした酒田が、ちょうど逆方向から駆けつけて来た。


「鉄平、奴はそっちにいなかったか?」


「ハァ、ハァ、ハァ。見ていないっす。ハァ、ハァ、ハァ。すいません。力仕事は得意なんっすが、走るのはどうも苦手で」


 ボッタクリバーへ案内した若者をサラリーマン二人が見失った時、大通りの向こうから同じように誰かを捜し回る声が聞こえてきた。大勢のチンピラ達だ。


――おい、いたか? 二十代のリーマン二人組だぞ!――

――ひとりはデカブツで、もうひとりはキザ野郎だ。――

――姐さんに恥をかかせた奴らをぶっ殺せ!――

――そいつら、おめおめとこの街から逃がすんじゃねえぞ!――


 道路沿いに立てかけられたキャバクラ店の看板の陰に身を潜めた二人の猛者が、今頃になってようやく今夜の大立ち回りを本気で後悔し始める。


「マズったな。さては、あのとっつあん坊やの差し金だな。畜生こんな事なら、黒服のガキなんか放っておいて、さっさとこの街から引き上げるべきだったか」


「先輩、すいません。僕がやり過ぎちゃったせいっすね。酒が入ると、どうにも見境がなくなるんすよ」


「いや。あのババアの言い草には俺もカチンときたからな。お前がいてもいなくても、結果は同じさ。それよりも、今は鬱陶しい追手の奴らをどう煙に巻くかだ」


 午前三時を回り、普段ならば客足も途絶える歌舞伎町だが、今夜は街中がまるで蜂の巣を突いた様な大騒ぎになっていた。


 ドタバタと走り回る本職のスジ者達の他に、暴力団の二次、三次団体の準構成員ジュンコーの若い奴らまでが、血眼になって二人を狩り立てる。


 ゴールデンウィークで警戒中だった新宿警察署の警官と衝突している組員までいる。殺気だった男達が、街の至る所で声を荒げて人間狩りを続けていた。


 大通りの方角に目をやると、若い兵隊達に無理やりタクシーを止められて、哀れなサラリーマンの二人連れが引きずり出されているのが見える。


「あちゃー。しらみ潰しって奴か。この様子じゃホテルやサウナなんかも見張られているな、きっと。逃走手段と経路をどう確保するか……。くそっ頭が痛いぜ」


「あのう、先輩。一つ言ってもいいっすか?

「何だ? ここから逃げ出す名案でも思いついたのか? 言ってみろ!」


「僕、腹が減ったっす」

「だぁぁぁ! 逃げ出す名案って言っただろ! お前の腹具合なんて知るか!」


「だってほら。ちょうどあそこに漫画喫茶の店があるっす。僕達が朝までヤクザから身を隠すには、持って来いだと思いません?」


 酒田が指差すビルの最上階。夜空の星を霞ませるネオン群の中に、インターネットカフェの看板がぼんやりと浮かんで見える。


「へぇー。お前にしては冴えているじゃないか。よく気がついたな」

「優れた柔道家は、自分の周りだけじゃなく全体を視野に入れて闘うものっす」


「嘘をつくな! どうせ、お前の胃袋レーダーが空腹で悲鳴をあげたんだろ?」

「あはは、バレました?」


「まあいい。確かにここじゃ、すぐに見つかっちまうな。ビルまで走るぞ!」

「了解っす。まずは丼ぶり系で腹ごしらえ、その後は麺類だな。デザートは……」


 周りにヤクザの眼が無い事を確認しつつ、立て看板の後ろから二人が飛び出した。ネットカフェのテナントが入るビルの入口へと走り出す。


 ビルのエントランスへ駆け込む前に、藤堂がもう一度チラッとビルの屋上を見上げる。自動ドアがもどかしそうに開き、ようやく二人を中へと迎え入れた。


「おい、鉄平。さっき見たネットカフェの看板だけど、ライトが消えていたぞ? 今日が休みとか、店が潰れちまっているって事はないか?」


「何言ってるんすか、ちゃんと確認しましたって。ほら九階っすよ。他の店の看板はないから、フロア貸し切り営業っすね」


 エレベーター横に据えられたビルのテナント表示版を指さしながら、疑り深い先輩を急かす。チーンという音と共に古びた昇降機のドアが開いた。


「お、おい。ちょっと待て」

「早く、早く。通路に立っていると表通りからヤクザに見つかっちゃいますよ」


 さっさと一人で中に乗り込んだ能天気な部下が、大きな手でおいでおいでを繰り返す。五人乗りのエレベーターは、巨漢の酒田一人でブザーが鳴りそうだ。


 普段であればもう少し冷静沈着な藤堂だが、今夜はどこか精彩を欠いていた。何者かに招かれるようにエレベーターへ足を踏み入れる。


 この時すでに、彼の脳裏からビルの屋上に掲げられた看板に対する疑問が消え去っていた。


 閉まる扉の横に設置してあるテナント表示が、いつの間にか一階から五階までの【事務所・店舗】と六階から八階までの【味の名店街】だけになっている。


 二人が見た、さっきまで確かにあった、九階にあるはずのインターネットカフェの表示が、幻のように消えていた……。


「なあ、鉄平。俺はこういう店には入った事がないけど、お前はどうだ?」

「任せて欲しいっす。ほら、見て下さい。どうです?」


 狭い昇降機の中で、大男が背広の内ポケットから誇らしげに取り出した名刺入れには、新宿にあるほとんど全ての漫画喫茶の会員証が入っていた。


「すごいな」

「でしょ? でも、この店は初めてっす。こんな裏通りに漫喫あったかな?」


「柔道以外の趣味がコレかよ。お前いい加減、彼女でも作ったらどうなんだ?」

「よく言いますよ。先輩こそ剣術ばっかりで女の扱いは、からっきしのくせに」


「からっきしとか、言うんじゃねえ!」

「だって親父さんが、『息子が剣一筋なのは良いが、女っ気が全然ない!』って」


「あ、アイツの事は言うな。『修行の旅に出る』なんて抜かしやがって。今でも失踪中のままなんだぞ。高校を卒業してから、俺がどれだけ苦労したか……」


 ノロノロと上昇するエレベーターの中。ゆっくりと九階に向かって黄色いランプが流れる。乗客達は、何故誰もがその表示を見上げてしまうのだろう?


「親父さん中丞流の使い手っすよね。先輩ん家の道場で、何度ぶん投げられたか。竹刀も持ってないのに、インターハイ優勝者の僕がまるで子供扱いだったし」


 江戸時代より代々続く藤堂家に、連綿と伝えられる古武術『中丞流』は古武術の内で剣術の一流派である。無論スポーツとしての武道となった剣道ではない。


 あくまでも実戦一筋。例えば、相手の喉を突くと見せかけるフェイントから、一転して敵の小手に痛撃を浴びせるなども、中丞流の主要な技の一つである。


 また、藤堂がマドラーで代用したような短い武器を使い、相手を殺傷せずに取り押さえる組討も取り入れている点が、この流派の大きな特徴の一つだ。


「そういえばお前あの時、親父に怒鳴られて畳の上で小便漏らしたよな?」

「あー、あー。先輩だって稽古中にウンチ漏らしたじゃないっすか」


「ば、馬鹿。人聞きの悪いことを言うな。ア、アレはああでも言わないと、親父が便所に行かせてくれなかったから、嘘をついただけに決まっているだろ」


「本当っすか、それ? 顔真っ赤にして半泣きだったような……」

「お前がそれを言うのなら、こっちだって……」


 その時、無機質な音と共にエレベーターの扉が開く。情けない過去をほじくり合う二人が、もう少しで取っ組み合いになる前に店へと着いた。


 酒田が言ったとおり、どうやらフロア全て貸し切り営業のようだ。そこに通路はなく、何列もの本棚に収納された漫画本や雑誌が、規則正しく並んでいた。


 恐る恐る店内へ足を踏み入れた二人を、ネットカフェの受付嬢がニッコリと出迎える。


「いらっしゃいませ」


 カウンター越しに魅せる彼女の笑顔は、それまで言い争っていた二人の心を溶かすには十分過ぎた。ショートカットの髪がこれほど似合う美女も珍しい。


 服装は黒のジャケット。腰元でキュッと絞ったタイプの制服が、柔らかくてしなやか素材で出来たピンクのブラウスをさり気無く引き立てる。


 首に巻いた碧いスカーフは蝶結びではなく、小粋にクルッと結んでいるだけだ。タイトなミニスカートから、美しいラインの素脚が長く伸びている。


「どうかなさいまして?」

「い、いや別に。初めてだから少し緊張しちゃって」


「当店では、ゆっくりとおくつろぎ頂けますわ。どうぞこちらへ」


 免許証などの身分証の提示を求められない事に少しの疑問を覚える事もなく、二人はフラフラと彼女の後に続く。


 前を進む彼女の魅惑的なヒップが左右に揺れる。それをぼんやり眺めながら歩いて行く二人の思考が、ゆっくりと麻痺していった。


 店の奥へと続く通路。いったいどこまで歩くのか? それさえ既に二人は気にならなくなっていた。左右に波打つ魅惑的な腰つきを追いかけて行くだけだ。


 絨毯の敷かれた廊下には藤堂と酒田以外、客の姿はなかった。ショートヘアの美女が時々笑顔で振り返り、どこまでも先の見えない通路を黙々と案内して行く。


 一枚の扉の前でようやく彼女の足が止まると、部屋の自動ドアがスッと音も立てずに開く。まるでモデルのような立ち振る舞いで、そっと二人を中へ誘う。


「どうぞ、お入り下さい」


 ニッコリ微笑む彼女に導かれるまま部屋へ入った二人の前に、百インチは優にありそうな壁掛け式の超大型液晶画面が現れた。


 それを真正面に見据えた場所に、キングサイズのリクライニングシートが二台並んで鎮座している。見慣れぬメーターやチューブがどこか異様だった。


「さぁ、お二人とも。お掛けになって……」


 マッサージチェアのようなシートの間から、抗いきれないソフトな声が響く。彼女の立ち位置は近くない。だが、すぐ耳元で囁かれるような気分に陥る。


 気がつくと二人は、シートの上で仰向きになって寝かされていた。背もたれの角度が微妙に調整され、パノラマのように迫力ある大画面が二人の眼前に広がる。


「楽な姿勢でおくつろぎ下さい。本日は特別サービスデイですわ。お二人には、バーチャルリアリティの最新ゲームを楽しんで頂きますね」


 横並びのシートの間に立つ美女が、にこやかに白い歯を見せる。座席の横にあるタッチパネルを真っ赤なマニキュアの爪が次々とオンにしていく。


 だが、サラリーマン達の瞳は彼女のほっそりした手の動きを追えない。液晶画面に次々と描き出されるカラフルな幾何学模様をじっと見つめるばかりだった。


「ゲームの種類はシミュレーション形式のロールプレイングゲーム。お二人が物語の中のキャラクターの一人になって、冒険の旅へとご参加して頂きます」


 説明する彼女の声に合わせて、シートのヘッドレストが迫り出して、フルフェイスのヘルメット状態になる。二人の頭部がプラスチック製のマスクに覆われた。


「そして、様々に開催されるイベントやお二人の前に立ちはだかる障害を乗り越えて、最終的にクリアを目指すごくごく一般的なゲームですわ」


 いつの間にか語りかける美女の姿が、部屋の中から消えていた。だが、ソフトで甘い説明は途切れることなく続けられ、男達の脳裏に情報を刻み込んでいく。


 いったい、彼女の声はどこから聞こえてくるのか……?


「制限時間はございません。ストーリー中の行動は貴方達の思いのまま。選択次第では、驚くようなエンディングが……。自由度はマックスに近い設定です」


 広々とした部屋の中央に、奇妙な装置の付いた二つのリクライニングシート。そして、そこに横たわる二人のサラリーマンと超大型液晶画面。


「仲間と一緒に、戦乱の続く大陸統一を目指すも良し。また、王国の玉座を奪って屍の山を築き、一人覇者の道を突き進むのも良し」


 いつの間にか、大画面一杯に映し出された幾何学模様の立体映像が、受付美女の姿へと変わっていた。部屋の照明がスッと落とされて、辺りが闇に包まれる。


「何より無事にゲームをクリアなされることを、心から期待しておりますわ。藤堂剣一様。そして、酒田鉄平様」


 身分証明書見せた訳でも自己紹介をした訳でもない二人は、『なぜ彼女が自分達の氏名を知っているのか?』などは、既にどうでもよくなっていた。


 受付美女の顔が徐々に引き伸ばされていき、一枚の地図へ変わる。まるで十八世紀の古ぼけたマップだ。


 裏側からまるで火の点いた線香でなぞられる様に、古い地図の表面に次々と虫食いの穴が開けられていく。それらが繋がると、一つの言葉になった


『アメリア大陸の戦乱』


「さあ、スタートボタンをクリックしてみて下さい。うふふ、マウスなんて必要ありませんわ。ただ念じるだけ……」


 立体映像と化した美女が、まるで液晶画面から飛び出すように二人へ手を差し伸べる。脳の一番奥、深層心理にとろけるような甘いささやきが忍び込む。


「さぁー、早く……」


 ゲームタイトルの下で白く点滅していたSTARTの文字が、赤へと反転する。タイトル名の背景となった色褪せたマップの焼けた穴が、徐々に広がっていく。


 古ぼけた地図が、やがて炎に包まれて焼け落ちた。画面がブラックアウトし、Loadingの文字と横に伸びるゲージバー。データの読み込み率を示すパーセントが表示される。


「うふふ。では、お二人とも。ご武運を……」


 受付美女の声とともに、サラリーマン達の記憶もここで途切れた。

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