其ノ終 薊堂へようこそ
――いつの間にか夢の中にいた。
これは夢なのか、遠い思い出なのか。あの日あたしは深い森の中にいて、心細さに涙を堪えていた。
耐え切れずにしゃがみこむ幼い少女を木漏れ日の中に見た。声をかけようか戸惑ううちに光が強くなっていく。
いつしか、涙を溜めているのは自分だった。物心ついたばかりほどのあたしが、祖父の目から離れて迷い込んだ鎮守の森。好奇心で探検に来たはずの勇ましい少女はもう存在しない。そこにいるのはただ、大好きな祖父と両親にもう一度会いたいと願う三歳の女の子。
ああ、あの時は本当に最期の別れだと思っていた。神社の敷地の中での迷子なのに、小さな少女には今生の別れに感じていたんだ。それをありありと思い出していると、新緑の陰がくらりと明るんだ。
太陽の白ではなく、蒼色の灯火。振り向いた先には一人の青年がいる。
当時のあたしには見覚えのないひと。そしてその後も、幼い頃に逢ったことさえ薄れてしまった、薄色のスーツの男。
『迎えに来たよ、翠仙』
差し出されたてのひらが、あたしの涙を留める。シャツの釦がきっちり留められている様子を見て、夏なのに暑くないのだろうかと見当はずれなことを思った。
初夏だった。引かれる指先が冷たく心地良い。薄青のワイシャツが日差しに優しかった。
『皆心配してる。おいで、さあ、お祖父さんも探しているよ』
柔らかな微笑みが、あたしの心を穏やかにさせる。
ふと、足許に目を向ける。彼の影は、まるで耳と尾のある獣のように見えて。
あの日からずっとあたしは、彼に助けられてばかりいる。
カーテンの隙間から覗き下ろしても辺りは薄暗く、油断すれば降りだしそうな空色の悪さに思わず身震いをする。
せっかくの太陽は厚い雲に隠れてしまっているらしい。
庭木も色褪せる季節。カレンダーの枚数はいつしか残りを数える方が少なくなっていて、それに合わせて、先日の夜に耐え切れずに引っ張り出して来たストーブの上で赤色のポットが温かそうな湯気を吹いている。
「あー、寒かった」
帰宅一番、ソファに腰を下ろしながら挨拶もそこそこに膝を抱える。そろそろ制服の防寒対策を考える時期かもしれない。
鼻先に緑茶のいい香りが届いた気がして振り返る。見れば今日は顔を出していたらしい冴くんが、あたしの元へお茶菓子を運んできたところだった。
「毎日大変ですね」
「学生の本職だから仕方ないんだけど……寒いのは苦手で」
本当ならもう湯たんぽを抱えて生活したい。簡易カイロを携帯してはいるけれど、指先だけ温まっても大した効果はないような気がする。その時、目の前の彼らの正体に思い当って、
「ねえ、冴くんたちは狐の姿にはなれないの?」
「勿論なれますが……」
まだ幼さを残した面立ちで、その灰色の長い髪を揺らしながら首を傾げる。きっと、突然何を言い出したのかと疑問に思っているのだろうけれど、続けざまに頼み込めば、
『これでよろしいでしょうか?』
くるりと体躯を反転させたかと思った次の瞬間には、ソファの片隅に灰色の毛並みの狐が背筋を正して座っていた。髭を揺らせばどこからともなく、聞きなれた冴くんの声で答える。
あたしは思わず手を伸ばして、彼を抱きかかえる。
「そう! 可愛い! あったかい!」
野生の狐――こうなると野生かどうか区別が難しいけれど、とにかく動いている狐を目の当たりにするのは初めてだったのと、予想よりもふかふかした手触りに心が躍る。
膝にかかえて、ぎゅうっと抱きしめてみる。そうか、冬毛だからこんなにふかふかなのか。時々道端で会う日向ぼっこをしている猫の背中の毛並みを思い出して、陽光を浴びた布団の温かさも恋しくなって、ついつい顔を埋める――
「こら」
埋めようとしたのに、冴くんの狐姿が腕の中から離れていく。
見上げれば、ソファの背を越えて伸ばされた常葉の腕が彼の首の根元を掴んで引き剥がした所だった。
「日本語の通じない室内犬じゃないんだから、ベタベタ触るものじゃないよ」
「えーだって、犬や猫だと逃げられちゃうんだもん」
「冴も、あまり翠仙を甘やかさないでくれ」
ソファの背の上に下ろされて、最初は大人しくしていた冴くんだったけれど、常葉が溜息をはいたのをみて、ゆっくりとまばたきをする。それからまたくるりと身体を回すと、
『差し出がましいことをいたしました』
その言葉を残して、元通り人間の少年の姿に戻る。そうして何故か澄ましたような笑みを浮かべて、
「このお役目は常葉様のものだったのですね」
その言葉の意味を理解するのに少し余計に時間を使う。
このお役目、っていうと――つまり。
本当に失礼いたしました、と言葉を重ねる様子に、慌てて口を開いて、
「「そ――そうじゃなくて!」」
これにはうっかり常葉と返答のタイミングが被ってしまって、ますます冴くんが訳知り顔を深めて、もうどうやって訂正しても聞く耳を持ってくれそうになかった。
「ところで、翠仙? なんだか変じゃない?」
「なんだか、って?」
顔が赤くなっているのがバレただろうか?つられて見上げてしまった両目を急いで反らして、別に、そんなことはとごにょごにょ言葉を濁す。
のに、常葉はそれを良しとせず、何故だか顔が近づいてくる。
そのまま大きな掌が頬に伸ばされて、
「――ほら、やっぱり。いつもより体温が高いよ」
彼の言い回しも気にかかったけれど、それよりも今は身体をよじって距離を置く方が重要だった。
「だから、なんともないってば」
「そんなはずはない」
今度は掌が額までやってくる。
「もしかして、風邪じゃないか?」
「え?」
言われてみればもしかして――恥ずかしさから来ていると思っていた顔の熱さがいつまでも引かない。
ううん、それは最悪、常葉が近くにいるせいかもしれないけれど、なんとなく喉の奥がちくちくする。
そのうちに太鼓判で、くしゃみが一度。
「最近急に寒くなったせいでしょうか」
「とりあえず体温計を、」
「だ、大丈夫だよ。二人とも心配しすぎ」
「とにかく一度部屋に戻って――」
言葉の途中で、常葉が背を向けた。
正しくは事務室の扉へ視線を投げている。依頼客だろうか?それにしても、ベルが鳴らないような――
階段を昇ってくる足音は二つ。一つが先行してやってきてドアを開ける。顔を出したのは結くんだった。あたしが帰って来た頃から玄関先で箒を使っていたので、来客を知らせに上がって来てくれたらしい。
と思ったのも束の間で。
「常葉様。アザミカオルと名乗る方がいらっしゃいましたが」
アザミカオル。
それが誰を指すのか、悩む暇もなく常葉を見上げる。やっぱり彼は今までにあまり見たことない険しい顔をしている。
返事を待つことなく扉が大きく開く。彼が自分の腕で扉を開いたのだ。かつてのように。
「盛況そうですね」
「あなたこそ、相変わらず自由な身分のようだ。いらっしゃるなら先に連絡を寄越したらどうです」
「身内の店に来るのにアポイントが欲しいのか?」
それから、常葉の陰に入っていたあたしに目を向けて。
「こちらの方々に迷惑をかけていないか、翠仙」
「お陰様で、恙無くさせてもらっているよ、貴方のときとは違ってね」
きっと会社帰りのままのスーツ、上に羽織る灰色のコート。あたしと同じ真っ黒な髪。顔つきはどちらかというと、茜音のほうが似ている。
浅見馨。つまり、少し前までここの社長を兼務していたあたしの父親。
「それは良かった」
一瞬たりともくすりとも笑わずに、頷くこともなくそう答えた。
始まりは、高校二年の春のことだった。
桜の薄紅が、ふわふわと窓の外を彩っていた。
コンクリートビルの立ち並ぶ一角にこの建物はある。
繁華街より少し離れた、まるで時代の忘れ形見。ビルとビルの隙間の細い路地の行き着く先に、過去のまま切り取られたかのように、以前は時代の最先端であったはずの擬洋風建築。煉瓦造りの三階建て、漆黒の瓦屋根の端からは行灯を模したランプがひとつ下がっている。
ひょろりと縦に長い屋敷の、正面には観音開きの大きな扉。それを押し開けば、一人の男が出迎えてくれる。
入り口のその真上に掲げられる檜の看板には力強い文字。
曰く、“あざみ堂”。それがこの店の名前。
「では、あまりご迷惑になってもいけないから、そろそろ戻ってきなさい」
あざみ堂事始 終
薊堂いろどり奇縁 に続く?
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